25話 盗み聞きはろくな事にならない
〈メイド達〉
ラングレイ邸の厨房には、夕餉の片付けを終えたメイドたちが集まり、湯気の立つ食器と共に、ひそやかな笑い声が満ちていた。
「ねえ、フェリオン様、今日もまだいるんだって」
「え、こんな時間まで?よっぽど心配なのかしらあの黒髪の子の事」
「違うわよ。見たんだから、わたし。部屋を出る時、めちゃくちゃ柔らかい顔してたの……。なんか……溶けそうだった」
キャッ、と声を上げて笑うメイドたちの手元には、拭き終わったばかりの皿やカップ。完全に乾いてから棚に戻すまでの少しの間。深夜前の静かなひととき。
彼女たちはほんの少しだけラングレイ邸の秘密の話をする。
そこへ、ノックが響いた。
「はい、ただいま」と返事をしたが、扉にいちばん近いメイドが立つより早く扉が開く。
「……水、もらっていいかな?」
その声が厨房を割った瞬間、全員の動きがぴたりと止まった。
立っていたのは、濃藍のローブを纏い、夜のしずくを宿したような長い銀髪の魔法使い――フェリオンその人だった。
魔塔のエリート、才気あふれる若き魔法使い。その凛とした佇まいが厨房の空気を凍らせる一方で――
彼が、ふと微笑んだ。
――やさしく、まっすぐに、ねぎらうような眼差しで。
メイドたちの瞳が釘付けになる。
「はい、ただいま」
声を上げたのは噂話の輪から離れていたメイドのリゼだ。
水差しとコップを盆に乗せ、平然とフェリオンに近づく。
「お部屋にお持ちします」
「ありがとう。でも君、ものすごく顔色が悪いよ。休んだ方がいい」
そう言って、水の入った水差しとコップだけを受け取り、どこまでも柔らかい仕草で扉を開けた。。
「じゃあ、行くね。おやすみ」
フェリオンはもう一度だけ、にこりと笑みを浮かべて出て行った。
扉が閉まる音と同時に、残された厨房の空気が爆発する。
「うそでしょ……? あんなのずるい……」
「目が合った! 今、絶対に目が合った!」
「リゼ、もう抜け駆け!でも助かった!私たち立てなかったよー」
「“ありがとう”って……あれ、反則でしょ……!」
誰もが頬を染め、崩れ落ちそうになっていた。
そんなメイドたちを、リゼだけは冷ややかな態度で見つめた。
〈フェリオン〉
夜のラングレイ邸は静かだった。騒がしかった昼間の気配は消え、廊下も庭もひっそりと闇に包まれている。
フェリオンは、黒髪の娘――名もまだ知らぬ彼女の部屋の扉を静かに開けた。
ランプの淡い光の中、彼女はいつものように静かに眠っている。穏やかな呼吸。閉じた瞼の奥で何かを夢見ているのだろうか。微かに緩んだ唇。フェリオンは彼女の寝台の脇に腰を下ろし、白い手をそっと取った。肌から甘くて爽やかな香りが漂う。
「……可愛いお嬢さん、今日も来たよ。早く目を覚まして。」
声に出しても彼女は目を開けない。それが分かっていても、言葉をかけずにはいられなかった。
魔力を流し込む。澄んだ水を注ぐように。
結果はいつもと同じ。どこに抜けていくのか……。今まで彼女に溜まったことの無い魔力を流し続けるフェリオン。本当は、もうする必要がないほど、検査も実験もし尽くしていた。
毎日癒されてるのは俺の方だ……
毎日の疲労、苛立ち、幾つもの重責。彼女の手を握るだけで、それらがゆっくりと溶けていく。
魔力を注いでいるのに、まるでこちらが癒やされているような不思議な感覚。彼女は淀みを引き受けるのに、決して濁らない。
――なんて、奇跡みたいな子なんだろう。
自分の魔力の流れが安定してくると、フェリオンはそっと椅子に座り直し、彼女の布団に頭を預ける。
黒い魔力に晒されながら、彼女だけがまっさらで、どうしようもなく惹き付けられる。
体は重くとも心が丸ごと癒されるこの空間に、少しだけ甘えたくなる。頭を彼女の肩の近くに寄せると、温もりが伝わってくる。うっすらと微笑んで、彼はそっと目を閉じた。
ふいに、彼女が囁いた。
「……かわいい」
フェリオンの口元が緩む。
……今日は、「かわいい」。
言葉にするまでもなく、心の中でたけ反芻する。
何度かこうして寝言を聞いたが、これは明らかにこちらに向けて言われたものだ。
目尻まで緩みそうになる。――こんな事のために通ってしまっている。認めたくなかったけれど。
そんな自嘲が過る中、ふたたび彼女の唇が動いた。
「……クロ」
空気が凍る。
フェリオンの体から一気に血の気が引いた。甘い時間が終わる。
(クロ……?)
誰だ、それは。
彼女の指先が、何の疑いもなくフェリオンの銀の髪を撫でる。
フェリオンは動けなかった。思考が勝手に答えを導く。
いや、待て。まさか――まさか、クロード?
脳裏に赤銅色の髪を持つ騎士の顔が浮かぶ。
あいつ……そういえば坊ちゃん時代、家で"クロ"って呼ばれてたとか言ってたか?
いやいや、このひとはまだ目覚めていない。話したこともない。けれど、だとしたらなぜ名前を……。夢の中で呼びかけている?認識されてる?
……冗談だろ
胸の奥に小さな棘が突き刺さる。
彼女が自分に向けて名前を呼んだ事はない。
触れてくれて、「かわいい」と撫でてくれて、でも……呼ばれたのはクロ。自分じゃない。
この手の嫉妬など、無縁のものだと思っていた。けれど今、胸に巣くうもやもやとした感情は、確かにそれだった。
「…………」
言葉にならない想いを押し込めるように、彼はそっと彼女の手を布団の上に戻した。
彼女は相変わらずすやすやと寝ていた。
その安らかさが、今は少しだけにくい。
静かに部屋を出る。
いつものように、クロードへ経過報告をするために書斎へ向かったが、その足取りは普段よりずっと重い。
水を貰いに行き、気持ちを整える時間を稼ぐ。
「遅かったな」廊下に出ていたクロードが言う。
「水を貰ってた。書斎に行こう」
何でもない顔をして言う。が、クロードがふいに言葉を重ねた。
「……最近、治療が長くないか?」
メイドと同じことを言いやがる。心を見透かされたようで、フェリオンはわずかに眉を動かした。
「……そうか?」と、とぼける。
内心では、思っていた。
あの時間は、俺だけのものだ。誰にも譲らない。
知られたくない。あの微睡みの中の囁きも、彼女の寝顔も、すべて。
けれど――名前を呼ばれたのが、もしクロードだったなら。
胸の奥で小さな焦りがくすぶっていた。
〈 クロード 〉
意識のない黒髪の彼女は、柔らかな手でクロードの頭を撫で、今日も「いい子」「かわいいね」と、無垢な声で甘やかしてくれるのだった。
最初は彼女に話しかけて覚醒の手助けをしているつもりだった。
しかし、いつしかその目的は失われ、気づけばこんなことになってしまっていた。
これは最早彼女のためではない。逆に、クロードにとって何よりも甘い時間になっていた。
朝、彼女の部屋に寄ってから訓練場に向かい、夜は騎士団の報告を終えてからまた彼女の枕元に立つ。それが日課になっていた。
――その一方的な、蜜月のような日々に、少しだけ波が立ったのはいつからだったか。
「……クロ」
鼓動が跳ねる。
クロ。
黒髪の少女が気まぐれに口にするその名に、クロードはいつもかき乱される。
やはり自分のことではないのか? いや、そうだ。間違いない。
彼女のそばにいて、名に「クロ」が含まれていて――他にいるはずがない。
目を覚ましていないのに、彼女は自分を認識している?
そのことに浮かれてしまった自分を叩きのめしたのは、屋敷の廊下でのメイドたちの噂話だった。
「最近クロード様、朝夕ずっとあの部屋にいらっしゃるよね」
「出てくる時は、恋人に会った後みたいな甘い顔されて……可愛いよね」
そこまでは良い。
顔から火が出そうな程恥ずかしかったが、まだ許せる。
問題はその次だ。
「でもさ、フェリオン様も最近、やたら長くない? 治療ってそんなに時間かかる?」
その一言が、クロードの心に鋭く刺さった。
顔の筋肉が引きつった結果、無言で睨んでしまい、彼の姿に気づいたメイドたちは蜘蛛の子を散らすように逃げた。
そう言われてみれば、彼は以前より遅く報告に来るようになっている。しかも、ぼんやりしていたり、目が赤かったりすることもあった。
――まさか、あいつも……彼女に……?
同じように、彼女のそばで、頭を撫でられて、甘やかされて――。それどころか、まさか、「フェル」なんて呼ばれていたり?
考えたくない。
だが、疑念が頭を離れない。尋ねたら最後だ。もし「そうだ」と答えられたら、自分は、きっと理性を失う。
彼女の心に誰がいるのかも分からない。誰が最初に触れたのかも、彼女が目を覚ましたとき、最初に微笑む相手が誰なのかも――まだ分からないのに。
その夜も、クロードは書斎でフェリオンを待っていた。
既に予定の時間をとうに過ぎている。
部屋を出て廊下に出ると、ようやく青いローブの男が歩いてくるのが見えた。手に水差しを持ち、呑気な顔で一口含んでいる。
「……遅いな」
クロードが無意識に睨むと、フェリオンは肩をすくめて言った。
「水を貰ってた。……書斎に行こう」
フェリオンの行動の何もかもが怪しく感じる。気づくとらしくない言葉が出ていた。
「最近……治療、長くないか?」
メイドと同じ言葉だった。自分で言っておきながら、胸の奥が冷える。
フェリオンは一瞬止まり、そしてごく自然に――演技かと思うほど自然に、とぼけてみせた。
「……そうか? 変わらないつもりなんだけどな」
その余裕、その柔らかい笑顔、その目。何もかもが気に障る。
彼女との時間は、自分だけのものではないのか?
嫉妬が喉元まで迫るのを飲み下しながら、クロードは無言でフェリオンの背を追った。
熱を抱えている。あの部屋に通い、癒され、焦がれている。
お前もそうじゃないのか?
彼女が目覚めてくれるなら、最初に邂逅するのは誰が先でも、後でもいい。そう思っていたはずなのに。
そんなの詭弁だった。
本当は、誰よりも先に――彼女の目に映る男でありたい。
自分が嫌になる。
こんな心持ちの男が、騎士なものか。
―――――
きっと今夜も彼女の目覚めを夢見るだろう。
それは誰の呟きだったろうか。




