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24話 理性でフラグを折る

アデルは、昨日のことを何度も反芻した。

眠る女の手が自分の背を撫で、柔らかく「いい子」と呟いたこと。ふわりと包み込むようなその声は、国のどんな聖人の言葉よりもずっと率直で、ずっと慰めに満ちていた。

それにしても。


「私を、いい子、だと」

思わず口が緩む。

子供にかける言葉だ。そんなもので、そんなもので私は……。


一方で。

彼の胸には別の、複雑な感情が湧いていた。みひろ――あの亜麻色の髪、琥珀の瞳、笑い声、軽やかな振る舞い。彼女のことを思うとき、いつもアデルは慈愛を感じ、満たされた心持ちになる。

しかし、彼女とまみえる時は決まって姿勢を正し、言葉を選び、王子としての仮面をしっかりと被っていた。公務と期待の鎧は、日々の生活を支えるために必要なものだった。


朝。執務室の書類が積まれる中、アデルはふと無意味な質問を自分に投げかける。


(これが――惹かれるということか)


まだ名付けられぬ感情が、胸の奥でじわりと広がるのを感じた。軽やかな好意とも違い、深い親近とも違う。守りたいという衝動と、独占したいという小さな嫉妬が混ざった、生まれたばかりの感情だ。


昼になり、みひろの予定を確認する。彼女は今日も慰問をこなし、夕刻には城へ戻るはずだ。アデルは自分でも不思議なほど、予定表に埋め込まれた彼女の名前を待ち遠しく感じていた。公務を終えると、一刻も早く外へ出たくなる。護衛役の者たちの目線が何度も自分に向くが、彼は気にしない。心の中で、ただひとつの決意が固まっていた。


(彼女が笑うなら――それでいい。だが、その笑顔が誰かによって奪われるのは認めたくない)


夕暮れ、城門の前に立つと、みひろが現れた。日の残り香をまとう彼女は、いつもより少しだけ疲れているように見えた。アデルは無意識に足を早め、声をかける。


「みひろ」


彼女が振り向く。琥珀の瞳が自分を捉えると、アデルの胸は小さく乱れた。だが表情は平静を装う。


「殿下。こんばんは」


彼女の声は柔らかく、いつも通りの朗らかさが含まれている。それがまた、彼の心をゆるやかにかき乱す。会話は礼節を踏んだものに留めようと努める自分が、どこか歯がゆかった。


「みひろ、少しだけ時間があるか?」


「ええ。大丈夫です」


みひろは微笑み、自然に頷いた。その無防備な仕草が、アデルには眩しかった。ふと、彼は提案する。


「もしよければ、城内まで少し歩かないか。わたしも戻る所なんだ」


みひろは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに嬉しそうに笑った。


「いいですね。軽く散歩しましょう」


二人きりで歩き出すと、アデルは次第に心の壁が薄くなるのを感じた。王子としての責務を忘れているわけではない。ただ、みひろと同じ景色を共有したいという純粋な欲求が勝っていた。


歩きながら、彼女は今日の慰問での出来事を楽しげに話す。子どもたちに囲まれたこと、民の笑顔、ちょっとした失敗談。アデルは耳を傾け、たまに相槌を打つ。彼女の語る何気ない言葉の一つ一つが、じわじわと自分の心を満たしていくのを感じた。


道すがら、ふとみひろの顔に疲れが滲む瞬間があり、アデルは反射的に自分の上着を差し出した。彼女が驚きつつも受け取ると、冷えた夜風の中で彼の胸に小さな満足感が広がる。


「今日の殿下、なんだかいつもと違いますね」


みひろがぽつりと笑う。その言葉に、アデルは不意に打ち明けたくなる衝動に駆られた。


言葉にすれば軽くなるのか? それとも、もっと重くなるのか?


だが――そのとき、胸の奥に別の記憶が滑り込んでくる。クロード邸で見た光景、眠る渡り人の柔らかな手の感触。


アデルは鮮明に思い出したそれに驚き、ぎゅっと唇を噛んだ。


みひろはそんな彼の揺れを感じ取り、ふと真面目な顔になる。


「殿下、どうかされましたか?」


「……些細なことだ。気にするな」


だが、彼女の琥珀の目はまっすぐで、紛れもなく彼を見据えていた。その視線に、アデルは少しだけ素直になれる自分を見つけた。


「今夜も……ラングレイの邸に行くのだな」


みひろはハッとした顔をした。秘密ががバレた、というような顔だ。


「あの、わたしクロード様に会いに行っているわけでは……」

みひろはクロードに迷惑が及ぶのを恐れた。


「分かっている。あの渡り人を見舞っているのだろう」


理解を示すアデルに、彼女は知っていたのかと微笑んだ。


「今日も、行こうかと思っていたんです。いい子いい子してもらいたいから」


その一言に、アデルは胸の底がきゅっと締めつけられる。


ああ、彼女もまた自分と同じ体験をしている。黒の渡り人に癒されていたのだと理解した。

嫉妬と庇護欲とが静かに混じり合う。けれど同時に、彼女のその無垢な願いを叶えたいと願う自分がいる。

王子としての計算だけでは説明のつかない純粋な感情だ。


「行け。癒されて、また明日からこの国のために、共に励んでくれ」


その言葉の端には、個人的な――独占に近い気持ちが滲んだ。みひろはそれには気づかず嬉しそうに微笑んだ。


その夜、クロード邸でみひろが眠る渡り人に触れる様子を思い描きながら、アデルの中で何かが確実に動いた。

守りたい。

傍にいたい。

本当は、私がみひろを癒してやりたい。


だが同時に、彼は自分に言い聞かせる。


(忘れるな。みひろは聖女だ。王国の灯火だ。私情で翻弄してはならぬ)


揺れ動く心を抱えつつ、アデルは静かに決めた。自分は王子であり続ける。だが、一人の男として、できる限り優しく、誠実に、みひろを護ろうと。

この気持ちが成熟するかどうかは分からない。

だが少なくとも、今は――彼女のそばにいたいのだと。



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