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23話 アデルよしよし回

視察帰りの護衛列は、古い橋の袂で一度停まった。


兵たちが馬を扱い、甲冑の金具が小さく鳴る。こうした合間の呼吸は、いつもなら雑談や報告が行き交う時間だが、今日は違った。私はあえて彼に向き合った。


「――お前、なぜ彼女を屋敷に匿っている」


馬車からの問いは、室内での低い怒号よりも鋭く、周囲の空気が一瞬冷える。護衛の隊列は自ずと距離を置き、王子と部隊長の時間を作る。


部隊長クロード・ラングレイは馬の鞍の上で静かにこちらを見返した。無言のままでも、その眼差しは重い。


彼女。それだけで“黒の渡り人”と認識できることを、私は知っている。だが議会の差し止めがある以上、言葉は濁すしかないのだろう。だがこちらも王族の一人。曖昧は許せない。


「まだ動かせる状態ではないのです、殿下」

彼は淡々と答えた。馬の足元で土が小さく踏み均される音がする。

簡潔な言葉だが、そこには確かな意思がある。だが私にはそれだけでは足りない。


腕に力が入る。だが表情は抑え、私は続ける。

「“それだけ”にしては、随分と情が籠っているように見えるがな」


沈黙が落ちる。


風に乗って遠くで子供が笑う声が届いたが、我々の周囲は張り詰めている。

護衛たちは遠くで思い思いに休んでいるように見えるが、皆こちらを気にしている。私はさらに追及する。


「私の聖女が、そなたの屋敷に通い詰めている。どう説明するつもりだ?」


クロードは馬の頭を少し逸らし、目を伏せる。陽光が彼の額に斜めに当たり、鋭い輪郭を一層際立たせる。彼の唇が微かに動いたが、言葉は軽やかさを帯びていない。


「……聖女様に、心をお砕き頂いております」


「何だと?」


クロードは唇を引き結ぶ。

護衛の誰かが咳をし、馬のいななく音が小さく響いた。


「彼女は、私の邸にいる。私の遠縁の者として、――聖女様は気にかけておるだけです」


息継ぎのような説明。

だが歯切れが悪い。欲しい答えが引き出せない。


彼は軍人でもあり、理詰めで事を語る人だ。だが、この言い方は、どこか含みがある印象を与える。


内心、私は苛立ちと疑念を混ぜ合わせる。

毎日忙しくしている聖女が知り合いでもない意識のない女を無理を押して何度も見舞うだろうか。

だが議会の口止めがある以上、露骨な非難は禁物だ――それが政治のやり口だと、身を以て学んだ。


(……こいつは、本当に彼女をどう思っているのだ)


問いの核心を掴めぬまま、私は短く息を吐いた。護衛の列が再び動き始める。時間は無情にも任務を求める。


私は姿勢を正し、この話を終えた。クロードの眼差しが私を追っている。その視線の中に、僅かに後悔めいた色が差して見えたような気がした。だがそれは確かめる間もなく、任務の笛が鳴り、隊は行軍を再開する。


私は無言のまま背もたれに身を預けた。

答えは得られなかった。


いいだろう、そちらがその気なら答えが分かる時はすぐに来るだろう。

私の心は、決意を胸に抱えたまま、行列の揺れに委ねられた。



―――――




翌日。クロードが城外任務で不在と知るや、私は今だとばかりに外へ出た。


渡り人に直接会って、どんな女なのか確かめてやる。


護衛は二名――召喚の儀に立ち会った黒の騎士、ハインリヒとマルクス。最小限でよい、と告げる。


ラングレイ邸の門前で命じた。

「例の黒髪の女の件で内々の訪問である。他言は無用。――ラングレイにもだ」


門番の逡巡は肩書ひとつで静まる。足音が廊下に吸い込まれ、館の空気がぴんと張った。


上背のある、顔色の悪いメイドが案内する。

「こちらです」


寝所の扉の前で二人に目配せする。

「ここで待て」

無言の頷き。私は扉を押し開けた。


薄いカーテンが午後の風に揺れ、四角い陽の光が床に落ちる。

入った瞬間、胸がざわついた。


重い。


そして気づく。

この部屋、魔力がないぞ。


濁った水の中を歩くような不快が皮膚にまとわりつく。思わず眉を寄せる――にもかかわらず、寝台の周囲だけは、ふしぎと澄んでいる。


黒髪の渡り人が穏やかに眠り、睫毛の影が頬に長く落ちていた。

この女だと理解した。


そうだ、みひろはこの女に逢いに来ていたのだ。


私は寝台脇の椅子を引き、腰を下ろす。少しの沈黙のあと、低く口を開いた。


「……みひろは、ここで何を話すのだろう」

独り言のような声が部屋に溶ける。

「この空気では休まらないだろうに。私は扉をくぐっただけで肩が重い」

少し息を吐く。

魔力のない空間はこれほど窮屈に感じるものなのだな。


「私は、日々に追われている。城も議会も、どこへ行っても声と視線だ。……みひろだけが、安寧の拠り所だ。彼女を見ると、うるさい頭の中が静かになる。だから私は、彼女を離したくない。けれど――」


知らず、言葉が宙でほどける。


「けれど、あの子はここへ通う。お前のところへ。私は、それが分からない」


答えは来ない。


当たり前だ。眠る横顔はただ静かで、規則的な息が続いている。


何をしているのだ、私は。


私は指先を組み、背を丸めて膝の上に肘を置いた。その指の上に額を付け目を閉じる。大きなため息がでた。


「……それともやはり、みひろは、ラングレイに会いに来ているのでは………」


沈黙の中、囁く声が耳元を撫でる。


「……おいで」


驚きで息が詰まる。動けずにいると、手がゆっくりと私の背を撫でた。体中に張り付いていた重さが、すっと溶ける。

体だけでなく、胸の奥も解放されるようだった。目の奥が熱くなり、自然に涙が零れる。


(……なんだこれは……)


これまで押さえ込んでいた苛立ち、孤独、怒り――すべてが、少女の触れる手で溶けていく。

体内の澱んだ何か流れ出す感覚と同時に、心も洗われ、涙が頬を伝った。

自分の口から漏れるのは嗚咽ではない。胸の奥の重みが、静かに外へ出ていく音だった。


「いい子」


声はやさしく、手はなおも背を撫でる。私の手は無意識にその小さな手を包み込む。柔らかく温かいその感触は、言葉にならない救いだった。


涙を拭うと、胸の奥が軽くなっていることに気づく。少女は変わらず眠っているが、もう私の心には静かな平穏が残った。

救われた。

体も心も、同時に。

痛みでも快楽でもない、ただ確かな解放。


――これか


私は悟った。理屈ではなく、圧倒的な体感として。

みひろがここへ通う理由、ラングレイがこの娘を匿っている理由。

救われる。この娘にしか触れない場所に触れられ、癒される。


私は眠る手を傷つけぬように両手で優しく包み、声にならない礼を胸の内で述べる。


やがて指を外し、静かに立ち上がった。少女は変わらず眠り、部屋の不快はなお漂っているはずなのに、少なくとも私の内側にはもうない。

扉を閉めると、廊下の二人が姿勢を正した。

私は目だけで「口外無用」と伝え、館を後にする。



帰路、馬車の振動が一定の拍子で胸に響く。


……あれでは心を掴まれるのも無理はない

だが同時に、私の心の形は変わらない。


私が求めているのは、いや、相応しいのはみひろだ。


それだけは揺るがない。私は目を閉じ、静かに結論を置く。

――もう、眠るあなたに会いには来ない。


ただ、手のひらに残った温もりは、深く刻まれていた。救われたという事実とともに。馬車は石畳を滑り、遠ざかる邸の影が小さくなっていく。


私は背筋を正し、聖女の名を、胸の内でそっと呼んだ。


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