17話 みひろの話
召喚から一夜が明け、聖女・羽黒山みひろは天蓋付きのベッドの上でゆっくりと目を開けた。
見慣れぬ天井、淡紅の布地を透かす朝の光。思わず掌で顔をこすりながら、ふわりと笑みを漏らす。
「……異世界ヤバ……」
口をついて出た言葉が可笑しくて、みひろは小さく吹き出した。
二十歳の大学生だった自分が、今は王宮の一室で目を覚ましている――その事実に、現実味よりも不思議な高揚を覚える。
昨日は説明を受け、検査をされ、王や大神官、教会の高位者たちに挨拶をした。
緊張の連続で、夜はベッドに沈み込むように眠り、夢さえ見なかった。
そして今朝。
窓の外は見知らぬ石造りの街並み。
雨上がりの朝は清々しい。
深呼吸するみひろの胸に浮かんだのは、不安ではなく、少しの期待だった。
「この世界のこと、もっと知りたいな……」
そう呟いた声が、薄明の部屋に溶けていく。
王宮での生活は、驚きと学びの連続だった。
侍女がつき、ひとりでは着られないほど複雑なドレスを着せられ、一日の予定を淡々と伝えられる。
大神官は言った。
「聖女の存在そのものが、この国の安寧なのです」
王は言った。
「何もせずともよい。あなたがここにいるだけで、人々は救われる」
けれど、みひろにはそれが少し息苦しかった。
「何もしなくていい」と言われるたび、どこか自分が薄れていくようで。
とはいえ、覚えることは多い。
常識を学び、振る舞いを覚え、魔法理論の講義に顔を出す。
もともと勉強が好きなみひろにとって、それは苦ではなかった。
ただ、これはこの国で生きるために必要な一般教養。
聖女として必要な事は誰も教えてくれなかった。
聖女として何もしなくていいって、どういうことだろう。聖女って何ができるのかな。
それが、彼女の自然な気持ちだった。
そんな毎日の中で、ひときわ楽しみにしていた時間がある。
魔法使いフェリオンの授業だ。
彼は召喚チームの一員で、みひろに魔力理論を教えてくれる。
初めて会った日、みひろはフェリオンの整った顔立ちと落ち着いた声に一瞬見とれた。
「二人きりの授業なんて、緊張してしまいそう」と思ったのも束の間――
フェリオンの授業は、驚くほど心地よかった。
彼はよく軽口を叩き、気難しさとは無縁だ。
けれどけして軽薄な訳では無い。
みひろが昼間の公務が立て込んで疲れていると察してくれる。「無理をしては体を壊すよ」と授業を切り上げて帰ってしまう。
みひろは一日の楽しみが無くなるのを惜しんだが、沈んだ表情をフェリオンがどう判断したのか、「焦らなくていい」と、そっと頭に触れてくる。
その温もりに、みひろは何度も救われた。
フェリオンは決して「何もしなくていい」とは言わない。
見えない魔力を感じ取れるように、一緒に試し、考えてくれる。
魔力が分かれば、聖女としてこの身から溢れているという魔力を使えるようになるという。
彼と過ごす時間の中で、みひろの中に“聖女として何かを成したい”という願いが生まれていった。
――「いるだけでいい聖女」ではなく、「この世界で生きる聖女」に。
その想いを話せたのは、フェリオンだけだった。
彼は笑って、「なら、一緒に考えよう」と答えてくれた。
毎夜の講義、たまに昼の散歩。
彼はみひろの質問に真摯に答え、時には冗談を交わし、時には静かに助言をくれる。
その距離の近さは、みひろにとって心の支えになっていった。
「ねえ、明日午後、予定が空いたの。一緒に街に行かない?」
ある日そう言うと、フェリオンは少し眉をひそめて笑う。
「街は無理だな。護衛に摘まれるのはごめんだ」
「やっぱりダメか」
「ダメ。でも城か魔法塔なら案内するよ」
「魔法塔!行きたい!」
軽いやり取りに、二人は笑い合う。
その笑顔の裏で、フェリオンの瞳に一瞬だけ影が走ったことに、みひろは気づかなかった。
別の夜、みひろはふと尋ねた。
「ねえ、“渡り人”って、誰のこと?」
フェリオンは一拍置き、柔らかく笑って言った。
「みひろが気にかけるようなことじゃないよ」
そう言いながらも、視線を少しだけ逸らした。
その仕草が妙に印象に残って、みひろは胸の奥に小さな棘のような違和感をしまい込んだ。
日々は流れ、王族の式典や慰問の任務も増えた。
公の場はしきたりや作法が分からない。だからこの時ばかりは、「何もしなくていい」という言葉が少しだけ救いになった。
きついのはずっと笑顔でいることと、アデル王子の隣にいることくらいだ。
アデル王子は頻繁にみひろを訪れ、甘い言葉を囁いた。
彼は召喚の儀でみひろを見て倒れ、二、三日寝込んだ王子だ。
みひろはなんだか自分が悪い気がして回復するまで見舞いに行っていた。それが良くなかったようだ。
王子の好意は嫌ではない。だが、彼の立場を思うと、軽く受け止めることもできない。
アデルは公の場でもみひろへの好意を隠さないので周囲に認知されてきている。
しかし、直接的なことは言ってこない。贈り物や甘い褒め言葉や距離が近いだけだ。
ある日アデルはみひろに言った。
「みひろはここにいるだけでいい。」
みひろは落胆した。
ああ、やはりこの王子は自分を見ていない。
それからのみひろは、どうすれば上手くアデルの好意を躱せるか、そんな事ばかりに頭を悩ませた。
みひろの周りには喜びの声が溢れる。
「聖女さまがいらしてくれたおかげで水が綺麗になってきました」
「聖女様のおかげで騎士たちの怪我の治りが早くて助かります」
「聖女のお力で魔力がみなぎります」
それは本当に自分の力なのだろうか。
みひろに実感のない力は、本当に行使されているのか。
「いてくださるだけでいい」
「聖女様は御心のままに過ごしていただいて良いのですよ」
そんな言葉から、聖女の役割は求められても人間性に関心を持たれない事の虚しさをみひろは日々感じていた。
だから、みひろは笑顔を崩さない。
誰も「聖女」をたしなめないからこそ、彼女は笑顔でい続ける。
気持ちを引き締めないと、知らない間に誰かを傷つけてしまうかもしれない。誰かの恨みをかうかもしれない。そんな不安が常にみひろに付きまとう。
誰も彼もが見せる笑顔に応えながら、彼女の心の奥に、ほんの少しだけ、孤独が芽を出していた。
そんな日常の中、フェリオンとの何気ない会話が心の支えになる。
彼の説明はいつも穏やかで、みひろを「聖女」ではなく「ひとりの人」として扱ってくれる。
その優しさが、時に遠く感じられるほどに。
窓辺の光を見つめながら、みひろは小さく息を吸い、心の中で決意する。
「いるだけで世界が少しでも良くなるなら、私、何を頑張ればいいんだろう」
その言葉に、フェリオンが静かに微笑んだ。
青い瞳の奥に、一瞬だけよぎった翳り。
けれど彼は何も言わず、いつもの軽口を返す。
「決まってる。長生きするために、ちゃんと好き嫌いせず食べることだ」
みひろは笑って頷く。
まだ知らないことは多い。けれど、この瞬間の幸福で、彼女には十分だった。




