最後の幻覚
静かな夜だった。雨音だけが窓を叩いていた。
私は部屋の隅に置かれた古いテレビの前に座っていた。スイッチを入れると、ノイズの中から人影が浮かび上がった。
それは私自身だった。
画面の中の私は、こちらを見つめ返してきた。唇が動き、何かを言おうとしている。
私は耳を近づけた。
「もう遅い」
その瞬間、画面が暗転した。部屋の電気も消えた。
暗闇の中で、背後から誰かの吐息が聞こえた。
振り向く勇気はなかった。
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私の名前は佐藤健太。28歳、独身。都内の広告代理店に勤める平凡なサラリーマンだ。
あの日も、いつもと変わらない一日のはずだった。
梅雨の最中、6月下旬のことだ。朝から降り続いていた雨は、夕方になるにつれてその勢いを増していった。
帰宅時間が近づくにつれ、空は不気味な暗さを帯びていった。雷鳴が遠くで轟き、稲妻が空を引き裂いた。
「今日は早めに帰ろう」
そう思った矢先、上司から声がかかった。
「佐藤君、悪いけど今日は残業頼むよ。明日の提案資料、どうしても今日中に仕上げなきゃならなくてさ」
断る理由は見当たらなかった。いつもの如く、黙って頷くしかなかった。
結局、オフィスを出たのは午後11時を回っていた。
駅までの道のりは、まるで水中を歩いているかのようだった。傘は役に立たず、全身びしょ濡れになった。
電車の中で、携帯電話の画面を見た。メールもLINEも、誰からのメッセージもない。SNSの通知欄も、いつもと変わらず静かなものだった。
「ああ、今日も誰も俺を待っていない」
その思いが、胸の奥底で重く沈んでいった。
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自宅マンションに辿り着いたのは、深夜0時を回っていた。
エレベーターに乗り込み、12階のボタンを押す。上昇する間、耳を澄ませば雷鳴が聞こえた。
部屋に入ると、いつもの静寂が私を出迎えた。12畳ほどのワンルーム。キッチン、ベッド、テレビ、全てが一つの空間に詰め込まれている。
濡れた服を脱ぎ、シャワーを浴びた。
体は温まったが、心の中の冷たさは消えなかった。
冷蔵庫から缶ビールを取り出し、一気に喉に流し込んだ。
窓の外を見る。雨は一向に止む気配がない。むしろ、その勢いを増しているようだった。
ふと、部屋の隅に目がいった。そこには、古びたブラウン管テレビが置かれていた。
祖父の形見だ。亡くなった時、親が処分しようとしたのを、私が引き取った。
使わなくなって久しいが、なぜか捨てられずにいた。
「そういえば、最近テレビも見てないな」
ふと、そんな思いが頭をよぎった。
スマートフォンやパソコンで動画を見るのが当たり前になり、いつしかテレビを見なくなっていた。
「たまには、昔みたいにテレビでも見るか」
そう思い、リモコンの電源ボタンを押した。
画面が点滅し、ノイズが流れ始めた。
「おかしいな」
アンテナケーブルは接続されているはずだ。チャンネルを変えてみるが、どのチャンネルもノイズだけだった。
諦めかけた時、ふとした瞬間に、ノイズの中から人影が浮かび上がった。
目を凝らして見てみると、それは...私自身だった。
驚いて後ずさりしそうになったが、なぜか体が動かなかった。
画面の中の私は、こちらをじっと見つめ返してきた。そして、唇が動き始めた。何かを言おうとしている。
恐る恐る、私は耳を画面に近づけた。
かすかに聞こえてきた言葉。
「もう遅い」
その瞬間、画面が暗転した。同時に、部屋の電気も消えた。
真っ暗闇の中、私は固まっていた。
心臓の鼓動が耳に響く。
そして、背後から誰かの吐息が聞こえた。
振り向く勇気はなかった。
数秒間、それとも数分間だったか、時間の感覚が失われた。
ゆっくりと、震える手を伸ばし、スマートフォンを掴んだ。画面を点けると、その光が暗闇を僅かに照らした。
振り返る。
しかし、そこには誰もいなかった。
安堵のため息が漏れる。
「気のせいか...」
そう思った矢先、再び背後から声が聞こえた。
「本当に、気のせいかい?」
振り向く。今度こそ、はっきりと人影が見えた。
それは...私自身だった。
テレビの中にいたはずの私が、目の前に立っていた。
「お前は...誰だ?」
震える声で尋ねる。
「私はお前だよ。お前の本当の姿さ」
にやりと笑う、もう一人の私。
「何を...言っているんだ?」
「気づいていないのか?お前は既に...」
言葉の続きを聞く前に、激しい頭痛に襲われた。
目の前が真っ白になる。
そして、記憶が走馬灯のように駆け巡った。
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幼少期。両親の激しい喧嘩。父親の暴力。母親の悲鳴。
小学生の頃。いじめられっ子だった自分。誰とも話せず、一人で過ごした日々。
中学生。初めてできた友達。しかし、すぐに裏切られた経験。
高校生。勉強に打ち込んだ日々。しかし、志望大学に落ちた挫折。
大学生。アルバイトと勉強の日々。恋愛も経験したが、すぐに別れた。
そして社会人。
毎日の残業。上司の理不尽な要求。同僚との競争。
休日も、誰とも会わず、一人で過ごす日々。
そんな日々が、5年も続いていた。
気づけば、誰とも深い関係を持てなくなっていた。
家族とも疎遠になり、友人との連絡も途絶えていた。
そして、今。
この小さなワンルームで、一人孤独に生きている自分。
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記憶の洪水が収まると、再び現実に引き戻された。
目の前には、まだもう一人の私が立っていた。
「思い出したか?」
もう一人の私が問いかける。
「私たちは...もう」
「そう、私たちはもう...」
言葉を遮るように、激しい雷鳴が轟いた。
窓の外を見ると、稲妻が空を引き裂いていた。
その瞬間、全てを理解した。
私は...もういないのだ。
この世界に。
「どうして...」
涙が頬を伝う。
「気づかなかったのか。毎日毎日、誰とも話さず、誰とも会わず、ただ仕事だけをしていた日々を」
もう一人の私が語り続ける。
「そして、今日。仕事を終えて帰ってきた時、お前は...」
言葉を続ける必要はなかった。
全てを思い出した。
帰宅して、シャワーを浴びようとした時。
突然の胸痛。
床に倒れ込む自分。
誰にも気づかれず、誰にも助けを求められず、一人で息を引き取った瞬間。
「そうか...俺は、死んでいたんだ」
その言葉と共に、部屋の景色が歪み始めた。
壁が溶け、床が揺れる。
そして、全てが闇に飲み込まれていく。
最後に聞こえたのは、もう一人の私の声だった。
「さあ、行こう。新しい世界へ」
その言葉と共に、意識が遠のいていった。
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3日後。
「佐藤さん、佐藤さん!」
ドアを叩く音と共に、管理人の声が響く。
返事がないため、マスターキーでドアを開けた管理人。
そこで目にしたのは、ベッドの上で横たわる佐藤健太の姿だった。
すでに息絶えて久しい。
警察の調べによると、死因は心筋梗塞。
推定死亡時刻は、3日前の深夜0時頃。
部屋の隅には、古びたブラウン管テレビ。
画面には、うっすらと人影が映っているように見えた。
しかし、誰もそれに気づくことはなかった。
佐藤健太。28歳。
誰にも看取られることなく、一人寂しく息を引き取った。
その後、彼の訃報を聞いて驚く人はほとんどいなかった。
なぜなら、彼の存在自体を覚えている人が、ほとんどいなかったからだ。
ワンルームマンションの一室。
そこには、誰にも気づかれることなく、静かに消えていった一つの人生があった。
外では、まだ雨が降り続いていた。
そして、古いテレビの画面には、かすかに笑みを浮かべる佐藤健太の姿が映っていた。
もう誰にも見られることのない、最後の姿。