マッドハニー
何度訪れても慣れないわ。
この底知れぬ深淵に落ちたら、永遠に落ち続けるのかも・・・
ここは、死へも繋がる深き眠りの精神世界。謎多き暗闇の世界。
ナチャはよくもこんな恐ろしい場所に住めることね。
「ナチャー! 私よー! シャイラじゃないシャイラよ!! 寿命を終えたの」
大きく口を開けている、暗黒の深淵に向かって叫んだ。エコーがかかった声がわんわん内部で響く。
垂直に深く割れているらしき、断崖絶壁の崖の上。
すぐに返事が来た。
「よお! シャイラ、今回は長生きしたようだな。で、また転生行きか?」
間もなく、深き湖水色の4つ並んだ丸い目と白い前足が割れ目からのそっと現れた。次いで山ほどの怪物みたいな蜘蛛の体が出て来た。
「わわ! ナチャ、おっきい!!」
「俺的にはこれくらいが丁度いいんだが、じゃ・・・」
シュルシュルと縮んだナチャは、私の胸にピョコンとジャンプして張り付いた。
手のひらを出すとカサコソと移動した。
久々のナデナデ。ほんと、ナチャはいつ見ても可愛いわ。
「今回の貿易商の人生は、どん底からの逆転劇で成功出来たし、苦労も多かったけど楽しかったわ。残念ながらまた転生よ。またもや生き直さなければならないなんて、正式な巫女になるまでこんなにかかるとは思いもしなかった。次回で転生は終われるといいけど・・・」
「フフ、これが最後の転生になることを祈ってるぜ。これまでもシャイラの生まれる場所は当たり外れが激しいもんな?」
「人が生きるのは、どこだろうと大変なことよ。先人が構築した仕組みが、あとに続く人間の自由を縛るの。だから誰もが逃れられない運命を背負って生まれて生きて行くの。もちろん恩恵もあるけれどね。私が何人分もの人生を体験するのは、人間を知るための修行だから感謝して生きなければいけないのだけど、正直、生まれた意味を見いだせなかった生もあったわ」
「生まれた意味を見いだせない人生がこの世にあることも、シャイラが知るべきことだったってことさ。俺は魔蜘蛛に生まれて最高だぜ」
「ナチャは自由だものね。結局、私の芯はいつだってナチャに出会った頃のシャイラだし、シャイラの人生こそが私だと思うの。何人の人生を生きようと、私はシャイラでしかないの」
「俺にとっても同じだ。そんな姿になろうとシャイラはシャイラのまま変わらない」
「うふふっ・・・だよね! じゃあ、また次の修行、行ってくるね! ナチャ」
ナチャに見送られて私は転生への扉を、いざくぐった。
*
────ああ、眩しい・・・・
えっと、ここはどこ?
意識が戻った私は、柔らかな布に包まれてバスケットに入れられているようね。
私は赤ん坊。まだ周りは薄ぼんやりとしたシルエットでしか見えないわ。
けれども音は聞こえるの。
「エラ、即座にこの地図の孤児院に連れて行くのだ。院長に話はつけてあるし、金も積んである。『緋色のカラス』との約束を果たす時が来た、と言え。決して我が家名を名乗ってはならぬ!」
この中年の男、なんて冷ややかな厳しい声なの?
「は、はい、旦那様・・・」
「カルミアは見ぬ方が良い。情が移って気が変わる」
「お父様。わたくし決心は変わらないわ。けど1つだけ教えて。その子、男だった? それとも女?」
冷酷なことを言いながらも、声は震えてる。
「お嬢様・・・この子は女の子にございます」
「・・・そう、もう行っていいわよ。後はよろしくお願いね」
「いいか? エラ。決して誰にも悟られてはならぬのだ。私は馬車の手配を頼んで来る。おまえはすぐに出られる準備は出来ているんだろうな?」
「はっ、はい。旦那様」
カルミアの父親が部屋を出て行った足音。
カルミアというお嬢様が私の母親なのね。ひどいわ。生まれてすぐ娘を孤児院行きにするなんて。ああ、私、なんて哀しい場所に転生してしまったの・・・
1人で歩けるようになるまで生き残れるかも不安だわ・・・
花の名前。カルミア────
羊殺しの異名を持つ植物。
このお嬢様の蜜は名前通り、マッドハニーなのかしら? 危険な蜜。
うまく使えばよい薬にもなりうるのに。
この科の植物はダウナー系で、過剰摂取で死ぬこともあるものね。有毒を知らずに食べ過ぎた羊は死ぬ。私の父親は誰・・・?
「お嬢様、では私も出発の用意を。失礼致します」
私はエラという中年の侍女に抱かれて部屋を出た。
扉がバタンと閉められた音。
途端に、扉の向こうから叫ぶような悲痛な号泣が始まった。
どうやら私の存在はこの家では邪魔なのはわかったけど、カルミアは私をどう思っているの?
「ハァ・・・カルミアお嬢様・・・美し過ぎるゆえの悲劇ですわね・・・」
どういうことよ?
「おぎゃーん、おぎゃーん───」
赤ん坊って、なんてまどろっこしいのかしら? 喋れないって不便だわ・・・ねえエラさん、少しでも事情を教えてよ。
「おお、よしよし、泣かないで赤ちゃん。あなたは何もわからず育って行くのでしょうね。自分が何者かもわからないまま。とても不憫だわ・・・」
分かるから言ってよ!
「おぎゃーん、おぎゃーん!」
「あらあら、元気な子ね。カルミアお嬢様は殿方からすれば、あまりにも魅力的なのですわ。ですから殿方同士が勝手に争われて災いが。・・あら?この子私が喋ると泣き止むのね」
私を泣き止ませるコツを得た侍女のエラさんは、行きすがらの二人きりの馬車の箱の中で、私の両親について知っていることをお話してくれたわ。
どうやら、私の母親のカルミアは、幼き頃からとりわけ可憐なお嬢様だそうで、彼女が流れるような黒髪をたなびかせたなら、その軌道には星屑が舞うのが見えるのだとか。とかく一目を引きつける美少女だったそうよ。美しさは成長ごとに増して行き、それ故の幸運も災難も起こったという。
彼女を巡って男どもが勝手に決闘し、勝手に傷ついたり死ぬ事件も起きたそうよ。彼等はカルミアにとっては、顔さえ覚えていない男たちだというのに。
そんな事件も彼女の美しさの証明となり、悪評と社交界の好奇心の噂にカルミアはうんざりしていたという。
赤ん坊の私には、カルミアの姿がまだ見えなくて残念なことね。
18で、請われて格上の伯爵家の息子に嫌々嫁がされたものの、彼女の魅力に当主までも惑わされ、当主夫人の怒りを買い、嫁いでたった3カ月で実家に戻されたそうよ。
しかし、実家に返された後から懐妊していることが発覚した!
カルミアは私を産むことを望んだが、カルミアの実家にしたら、まだ若く美しい彼女はスペシャルカードだから他の有力貴族に嫁がせたい。私の存在は邪魔なだけ。両者の妥協案が、私の孤児院行きだったってわけよ。
カルミアは、私のことを愛していないわけではないと思うの。だって、私が去る時は号泣してたし。
だよね? エラさん。
「おぎゃ? ぎゃ、ぎゃ」
「よしよし・・・カルミアお嬢様はまだ泣いていらっしゃるのかしら。自分の意思も通らず、周りの都合に翻弄されてお可哀想に思うけど、身分ある貴族の娘には役割がありますものね。仕方がありませんわ。あなたはお嬢様を許してあげてね? よしよし・・・」
私を腕の中でゆっくり揺らしながらエラさんが、独り言でつぶやく。
「この子が無事に育ってくれたなら、カルミアお嬢様の気も晴れることでしょうけど、手放してしまったらそんなことも知れませんわね。お二人ともお気の毒ですこと・・・」
私、いきなりハードな人生みたいね・・・・
「ふぇ、ふぇ~ん・・・」
「まっ、いやだわ、私ったら。こんなこと赤ちゃんにあれこれお話ししたって、この子が覚えているわけないのに。けれど、一応言っておきたいじゃない? ね、いい子ね。さあ、ねんねこ、ねんねこよ」
私を届ける人が、エラさんだったってことだけが救いね。ああ、どんなところに着くのかしら?




