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もう一つの漸馬とう【頭】(野心家の男)

その日、高松城へ1通の書状が届く。


送り主は宗治の主君小早川隆景であり、その内容は石山本願寺への支援物資(兵糧、武器弾薬)の輸送が無事成功した事を知らせる書状であった。


毛利(主力部隊は能島村上軍)の水軍は7月15日、大阪湾木津川口で織田の水軍と遭遇したが、集団戦法と火力で相手を圧倒し、織田水軍をほぼ壊滅させ完勝したという内容であった。


それは、織田軍との戦いが本格的に始まった事を伝え、運命を占う初戦で見事に勝利をおさめたという吉報ではあったが、勝って兜の緒を締めよという趣旨であった。


書状の内容を知った高松城の武士達誰もが、次は自分達が勝たなければならないと感じたのであった。


当然、日中行われている各部隊の稽古にも力が入る。


久之助達、漸馬刀部隊の者達も又いつも以上に精力的に修業をこなしていた。


訓練を受ける者達の体から、いつからか最初にあったぎこちなさが消えていた。


大太刀を槍の様に振り回す刀法、月清が教える剣術を簡単に説明するとそういう表現になる。


しかし、言うのは簡単であるが、大太刀一本が4㎏以上と重く、其れを戦いの間、どれだけスピードを上げ振り回し、且つどれだけ維持するかが問題であり、剣を無駄なく振り回すには、道理に叶った流れがある。


要するに、1,2,3という別々の動作が有り、目的は3番目の動作なのだが、3の動作をする為には1番目と、2番目の動作ができていないと、3番目ができないという、連動性が極めて重要な刀法であった。


その為、何十通りの型があり、先ずはその型を身につけなければならない。


もともと、重い刀に回転でスピードを乗せ、重さ以上の破壊力を剣に乗せる。


その破壊力は凄まじい半面、そのコントロールが非常に難しい。一度加速がついてしまった力は、腕力では止まらない。止まらない為、体全身の力を使い、力の向きを変える必要がある。


修業をすればするほど、適性試験で体幹の力を試されたかが分かる4人であった。


幸運にも、能島で行われた訓練も結果として、清水兵達の体幹を鍛えており、月清が想像していた以上の速さで、弟子達4人は月清の刀法を者にしていく。


織田家の魔の手が何時、備中の国へ届いてくるか分からない現状では、それは正に嬉しい誤算であった。


月清が若い頃、彼はこの刀法で多くの武芸者と闘った。


果し合いの様な状況で一度も負けた事は無かったが、相手が多数の時、特に戦場で敵軍と対峙する時は、自分の体力を考えながら戦わざるを得ず、体力の問題は経験を積んでも、簡単に克服できるものでは無かった。


全力であって、全力ではない、逃げる余力を残しながら戦う事、自分の限界を冷静に把握したうえで戦う事がこの刀法を使う者には求められるのであった。


基礎体力の向上は、もちろん大事であるが、実戦と、鍛錬時の疲労感は全く別物であり、実践で培う体力と、鍛錬で培える体力は似て非なるモノである。


基礎訓練を済ませた後、どれだけこの者達に実戦を積ませるか、指導者である月清は、飲み込みの早い弟子たちの動きを観ながら、頭では次の段階を考えていたのであった。


その日、鶴姫は一人で城下町を見物しながら歩いていた。


以前、久之助に紹介した見世物小屋へもう一度行ってみようとその場所へ向かっていた彼女であったが、見世物小屋があった場所には、何もなかった。


『正に、影も形も無いというモノだな、しかし何か奇妙だ。』と独り言をいう鶴姫。


(見世物小屋が出たのは、7月初め、未だ、10日ぐらいしかたっていないのに、はやばや、他の国へ行ったか?人気が無かった訳でもなく、早すぎはしないか、・・・・普通短くても1カ月は滞在するものだが・・・。高松城の者から、苦情でも出された・・・訳でもあるまいて。)


そんな事を考えながらも、それ程大きな問題でもないので、鶴姫はその場を離れた。


その日、原三郎は秀久に初めて竹刀を持たされた。『原三郎殿、竹刀の持ち方はこうでござる。』と言い、秀久は幼い原三郎の手を自分の手でつかみ、ゆっくりと竹刀の握り位置へ誘導する。


『爺、こうか?。』


『ハイ、この位置でござる。』


『さあ、一度お放しください。ハイ、もう一度自分で握ってみてください。』


『爺、こうか??。』


『そうです、その位置です。原三郎様は素直じゃ。呑み込みがはやい。さあ、もう一度』


桐浦は、今年45歳を迎えたばかりであった。昨年、家督を嫡男に譲り隠居生活を始めるつもりであった。


予定どおり、家督は譲る事が出来たが隠居をすると宗治に告げたところ、断られ宗治の嫡男原三郎の傅役(もりやく)を仰せつかる事になった。


晴天の霹靂であった。宗治の父、宗則に仕え、親子2代に仕えたて終わると思っていた人生が、3代目の教育係を任されるとは光栄な事であったが、その責任の重さも考え、一度は断った。


しかし、許されず半ば強引に引き受けさせられた。


もうやるしかないと覚悟を決め、毎日懸命に原三郎と向き合っていた。


実は、秀久には原三郎と同い年の孫がいる筈だった。


しかし運悪く原三郎と同年に生まれた孫は、出生後直ぐに亡くなってしまった。男の子であった。


原三郎が、秀久を『爺。』と呼んでくれると、本当の孫が自分を呼んでくれているという錯覚する事がある。


心の何処かで、死んだ孫の面影を原三郎に重ねている事を本人も分かっていた。


無理矢理、主君の子と自分に言い聞かせる事もよくしていた。


それほど、原三郎を可愛く思っていたのである。


彼は、隠居生活の退屈さに、人知れず恐れを持っていた為、原三郎と向き合える日々を、老後に得た信じられない充実の生活を心から感謝していたのである。


その心を知ってか知らずか、原三郎も爺秀久によく懐いた。


二人で、見世物小屋に行った翌日、原三郎が熱を出したと聞いて酷く慌てた。見世物小屋の男に進められて買った飴玉を、原三郎に食べさせてしまったのが悪かったのかと、自分を責めた。


そうこうしている内に、家の者が偶然町で越中富山からきている旅の薬屋が来ていると伝えに来たので、天の助けとばかり、その薬売りに原三郎様の容体をいうと、よく効く薬があるというので急いで一緒に城へ向かったのが数日前である。


結果、原三郎は回復に向かい事無きを得た。最近の自分の星回りの良さに感謝しながら、秀久は原三郎に竹刀の構えを教えようとしていた。


播磨国黒田官兵衛の屋敷にて、薬売りの男は深々と頭を下げていた。


『黒田様、ご命令どおり、高松城城主清水宗治の嫡男(ちゃくなん)傅役(もりやく)と接点を持つ事が出来ました。』


『思ったより、時間がかかったが、上出来じゃ。これからも薬売りとして、備中、備前の国を行き来してくれ。』


『将を射んとする者はまず馬を射よというからな、清水宗治は、息子という馬を人質に取られたらどう動くかのう・・・。』


『備中の清水、備前の宇喜多、この者達が、毛利の馬達じゃ、奴らを射止める事ができれば、毛利も落ちる。』


『清水家の者達の中で、斬馬刀を学んでいる者達がいると情報が入ってきているが、ワシには漸馬刀は必要ない、此処じゃ、此処で馬の脚を切り落とすのじゃ!!』と自分の頭を指で指し、勝ち誇る官兵衛の顔が其処にはあった。


1576年7月、初戦の勝利に喜ぶ毛利家とは逆に、虎視眈々と新たな戦いへの準備をしている野心家の男がいたのであった。

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