青いスイートピー
今日も夜の新宿に雨が降る。肥大化した虚栄心の塊のような華やかなビル街は短い声で溢れ、行き交う人々は放蕩を謳っていた。しとしととそぼ降る雨は街のおどろに光るネオンサインをとらえ、いつか見た幻のようにぼんやり滲んで、私の心を真綿のような優しさで静かに傷つけた。それは憐れみか?はたまた嘲笑か?
アスファルトに浮かぶ水たまりが、煌々と光る無数のビルを水面に押し込め、ゆらゆらと揺すった。
やけに煌びやかな街を背に歩を進め、近くの喫煙所で一服をしながらも、私は新宿の外れにある、慎ましく肩をすぼめた煉瓦造りの本屋『あがぺえ』に立ち寄った。仮にも大都会の真ん中であるが、周囲はやや仄暗く、等間隔に列をなした幾つかの街灯と店内から放たれる暖かみのあるオレンジ色の白熱電球の光が、微かな絢爛を誇っているだけだった。2階の重厚な窓が青白い光を夜空へ投げ、古ぼけてややくすんだ朽葉色の、目深に被った庇が、ぽつぽつと小気味よいテンポで雨の音を奏で、私の傘と共鳴していた。
時代の趨勢から切り離されたような郷愁的な侘しさを放つこのお店の雰囲気が私は大好きだ。つい先ほどまで胸の中で嵐のように荒んでいた、張り裂けてしまいそうなほどの鬱積した陰鬱な気持ちが、少し和らいだ気がした。私は開いていた傘を閉じ、錆びついた傘立てに入れ、店内へと入った。これが私の月曜日の仕事終わりのルーティンである。
『あがぺえ』に入ると、レトロでクラシックなアンティーク調のダークブラウンの本棚が無数に並び、日焼けしてカルメ焼きのように茶色くくすんだ古本が溢れんばかりにうずたかく積まれてあった。そして店内には独特の、若干埃っぽく、どこか懐かしさを感じる匂いが充満していた。奥には店の主人がカウンターにぽつんと座っているが、眼前にはおよそ綺麗とは言えない種々雑多な物が乱雑に積まれ、カウンターテーブルの天板は見えず、主人の真っ白な頭だけがひょこっと現れていただけだった。
私はこの雰囲気が好きだ。あの映画の中に没入するようなハリボテのテーマパークの非日常さには毎度のことながら辟易し、安らぎと平穏を求め、逃げるようにこの場所――ごちゃごちゃとした歓楽街とも、都会にあまねく広がる画一的な形を成したビル群とも異なる、俗世間からおよそ遠く離れた異世界のような、この場所に毎週足を運ぶ。すうっと深く息を吸い、この場所の一部と化すように、吸った空気を肺で溶かす。孤独は肯定され、寂寥や悲哀で深く軋んだボロボロな心も、今だけは忘れて、通う風と共に外へと流れていった。
本棚を眺め、私はとある本を手に取った。それは中原中也の『汚れちまった悲しみに…』という作品だった。私はその本をのめりこむように読んだ。景色がぼやけ、やがて雨が止んだ。
本を読むのに夢中になり、やがて次のページに差し掛かろうとした時、すみません、と右耳から低い声が聞こえた。景色は広がり、雨はまた降りだした。声のした方へ目を向けると、黒のスラックスを履き、黒のボタンシャツを着た、若干華奢な男が立っていた。背丈はスラっとしていて、私の目線がちょうど男の胸辺りにあった。
すみません、と男は今にも消え入るような吐息交じりの小さな声をもう一度発し、男の白く華奢な腕が私の正面の本棚へと伸びてきた。私は急いで手に持っている本へと顔を向け、肩をすくめながら、頭をほんのちょっぴり前に出し、流し目で見ながら、軽い会釈をした。男は一冊の本を手に取り、私の隣で読み始めた。
そこからはまるで集中できなかった。私の広い広いパーソナルスペースはたった一人の男によって奪われ、段々と物々しい現実が蘇っていた。物寂しい風が店内へと通い、頬を鋭く伝い、奥へと流れ、忘れていた心を再び宿らせていった。
私は読んでいた本を閉じ、本棚に戻そうとした。
「いいですよね、その本。」
男の顔を見た。顔はシュッとしていて、鮮血のように赤く潤んだプルっとした唇に、少し諦観めいていて、澄んだ一重の瞳をしていた。艶のある黒髪のマッシュヘアが、小さく揺れた。
一瞬雨が止まった。
「好きなんですよ、一人で本読むの。」
私はぎこちない微笑みでそう答えた。雨は先ほどよりも強くざあざあと降っていた。
「趣味なんですか?」
「まあそんな感じです。本を読むと現実が段々とぼんやりボケていって、フェードアウトしていくんです。見知らぬ天使が私の背中に羽根を縫い付けて翼を得たように、澱んでいた心がスッと軽くなって、天へと召されるように遠くへ飛んでいけそうな、そんな気がしてくるんです。まあ羽根が折れてまた戻ってきてしまうんですけどね。」
私は半ばシニカルに語った。
「きっとその羽根、蝋でできてますね。」
男が私に向かって浮かべた笑みは、青春をコンセプトに製作された清涼飲料水のコマーシャルのような淡い青を覚える爽やかさだった。
「好きなんですか?中原中也」
「えぇはい、なんだか退廃的な不健全さの匂いがしていいんです。」
「ああ、分かります。なんか周りの全てに中指を立てるような感じで、ひどく気分が沈んだ時にはお誂え向きの詩集ですよね。」
「そうですね。でも、単なる諦観したニヒリズムなんかじゃなくって、半ば冷笑的に、厭世的に目の前の現実を語りながらも、どこかじりじりと青く燃えるような、芯のある獰猛で確かなエネルギーを感じるんです。それは身に着けているものを脱ぎ捨てたようにさらけ出した、ありのままのひどく醜悪な心の叫びで、露悪的で独善的なものでありながらも、読者にも当てはまる一貫した普遍性を帯びている。絶え間なく過去へと流れていく普段の日常に、どんより沈んでいる澱と化した微かな心根をもう一度ありありと思い出させてくれて、世間から逸脱した私みたいな鼻つまみ者にも寄り添うようにエールをくれるんです。」
見知らぬ男にとても早口で説明してしまい、途端に恥ずかしくなった私は、「口早にバァーって説明してすみません」と言ってその場から立ち去ろうとした。
「いいですね。心震えました。たかが一個人に対してそんなに深い思いを抱かれたのなら、詩人冥利に尽きますよ。きっと地獄にいる中也も浮かばれます。」
「当人がクズだからって勝手に地獄に落とさないでください。」
思いも知らぬ笑みが私からこぼれた。それは半ば呆れに基づいた表情であるが、心の底から湧き上がった確かな悦を感じたものでもあった。
「僕も本、好きなんですよ。」
「そうなんですか。いいですね。おんなじ趣味です。」
「……、良かったら、近くの喫茶店でお話しませんか?」
私は戸惑った。年は近そうだが、なんだろう、生理的な危険信号が赤く明滅するような、若干のキナ臭さを感じた。だが私は、些かためらいながらも、「はい」と頷いて彼についていくにした。
というのも、私は異性には慣れていた。いや、そのような自負がある、とでもいった方が良いのだろうか。普段、職業柄として接待を行っており、男性に対する取り扱いのノウハウは自身の経験を通じて深く学んでいた。たとえこの男が見境なく明け透けに己が肉欲をさらけ出す、いわゆる『地雷』と呼ばれるような、とんでもない脳内ピンクマグナム男だったとしても、私は向かってくるその下劣な欲望の弾丸を『マトリックス』のように華麗に避けられる自信があった。
喫茶店での道中、私たちは自身の職業についての話をした。私は本名の『山岡』を名乗り、自身がキャバクラをやっていることを告げると、男は、私の特異な職業について意にも介さず、どんな変なお客さんと会ったことある?とむしろ食い気味に質問してくれた。
男は、曰くフリーランスで映像関係の仕事をしているらしい。某有名アーティストのMVを撮影したり、大手企業のCM撮影を手掛けていたりと、自身のやりたいことをやりつくしている、おぼろげにそんな印象を覚えた。
「そうだ、いつか忘れたけど、君の働いている近くで撮影したことあったと思う。」
ふと、男はそんなことをつぶやいた。
「そうなんですか。」
「うん。あの街は、色とりどりのネオンサインで埋め尽くされていて、”映える”んだよ。夜とのコントラストが絶景で、簡単に綺麗な映像が撮れて、とてもラッキーだったよ。今度の撮影ではもっと面白い映像が撮れるといいなぁ。」
彼は柔和な笑顔をうかべ、舌を出してニヤニヤと笑っていた。
「また、その場所で撮影するんですか。」
「ええ、今度はもっといい画が撮れそうです。だって、
――――爆弾を仕掛けたんですから。」
それまでぴしゃぴしゃと靴底を鳴らしていた濡れた地面の音が、ピタリと急に止んだ。彼が俄かに遠くなっていくのを感じた。
失礼します、と言い、急いで踵を返そうとした。しかし彼はその足を止めようとした。
「単なる好奇心なんかじゃありませんよ。知りたくありません?なんで爆弾なんか仕掛けたのか。」
私はしばらくその場に立ち尽くしていた。いや、ひどく打ち震えるほどの戦慄を感じ、その場から動けなかった、という方が正しい。ともかく、足は地面に埋もれこむように沈み、身体が言うことを聞かなかった。
「どうです?お茶、していきません?」
彼の瞳は、暗闇で光る猫の眼のように、ギラギラと光り輝いていた。
カランコロン、とドアの開閉と共に鈴がいやに心地よく店内に響いた。店内は真夜中にもかかわらず、たくさんの人でにぎわっていた。内装はダークブラウンに統一され、いくつかのシャンデリアと印象派のような風景画が飾られた、ヴィンテージ感漂う、いかにも純喫茶らしい純喫茶だった。彼は手前の椅子を引き、どうぞ、と紳士的な振る舞いをした。それが異様に怖かった。私はその椅子に座った。そして、ウェイターが来て、注文は何ですかと問われ、彼はウィンナーコーヒーを2つ頼んだ。
コーヒーが到着するまで、私は一切無言だった。コーヒーが来て、一杯飲んだ後に、私は恐怖を抱きつつも、震えた声で質問を投げかけた。
「さっきの話、本当なんですか……?」
「ええ、本当です。私はこの街に爆弾を仕掛けました。」
「冗談ですよね……?どのみち面白くなんかないですよ……?」
恐怖におびえながらも、若干の義憤を込め、私は問いただした。
「僕がそんな拙劣極まりないユーモアなんか言うと思いますか?」
彼はテーブルに肘をついて腕を交差させ、前のめりになってそう答えた。
私は硬直していた。もう何が何だか分からないほど錯乱していた。
「タバコ、吸っていいですか……?」
私は平静を取り戻すため、タバコを口に加え、わなわなと震える手でライターを手に取とった。ライターをジュっと点けると、火口からは透明に澄んだ淡い青のワスレナグサが咲き、やがて情熱的な赤い鳳仙花へと変貌した。鳳仙花は純白のヴェールに包まれた一輪草と、太陽も嫉妬するような熱いキスを交わし、やがて無垢なる天使を産んだ。妖艶な天使は、力いっぱい弾かれた、空一面の輝く光でできたパイプオルガンの旋律と共に、シューベルトの讃美歌『アヴェ・マリア』を熱狂的に歌っていた……。
2人の間にしばらく沈黙が続いたのち、彼はおもむろに椅子の背もたれにもたれかかって、姿勢を改めた。
「山岡さん。山岡さんには、将来の夢、ありますか?」
「え?」
「本当は、今自分がしている仕事なんかさっさと辞めて、夢の実現に尽力したいんでしょ?『小説家』という夢に。」
「なんで、知っているんですか……?」
彼は私の質問に耳を貸さず、そのまま話を続けた。
「なんで小説家なんかになりたいんですか?」
「え、あ、いや、なんでって……。自分の書いた本を誰かが手に取って読んでもらえる。それだけの理由じゃだめですか?」
「ダメとは言わないさ。だけど、そんな判然としない理由だけで、そんな大層な夢抱いてるのかい?」
彼は少し眉をひそめ、訝し気な態度をとった。
「いいかい?”物書き”の著した本なんてもんは、今の時代、茫漠なデータの海に簡単に埋もれる。なぜ童話や神話など、数々の物語が古典として今日まで残っているかわかるか?その理由は”奇跡”だよ。いくつもの焚書、いくつもの自然災害、丁重な保存管理、そしてそれ自身の代えがたい価値。これらの要素がいくつも組み合わさったとき、後世へと語り継がれるものになる。それに、昔は今と比べ、識字率も低く、人口も少ない。”詠み人知らず”も、そこら辺の”村人A”なんかじゃない。そうやっていくつもの茨の道を通り抜け、遠い昔から脈々と受け継がれていった、その奇跡が今に残っている。だがその奇跡を享受できなかった本たちはどうなる?」
私は黙って聞いていた。
「その本たちは万物流転の中へと消えていく。それらは確かに形而下にあったものだ。いや、まだどこかで眠っているかもしれない。しかし、それは『無い』のだ。『無い』と同義なんだ、この物質世界では。色即是空、空即是色。君もこの言葉は知っているだろう?つまりあらゆる芸術作品、文化的価値なんてものはその程度なんだ。物質的に残らなければ、そして、人々の中に深く刻まれなければ、『無常』の理の前にひれ伏すだけだ。だがどうだ、今の時代は。人口も識字率も増加し、あらゆる人間が『物書き』になれる。するとどうなる?――ただ埋もれるだけだ。その上、昨今の芸術的・文化的作品の消費は甚だしい。デジタルはあらゆるものを記録し、記憶する――。しかし、それはこの宇宙も然り。結局同じ、いや、その上を行く。君は、このあまりにも残酷な無常の世界で一体、何ができる?」
私はしばらく、ただ考えあぐね、そしてようやく、おぼろげな言葉を口にした。
「私は、観念的なことはわからない。その真実を目の当たりにしたところで、私にできることなんてものはない。ただちっぽけな自分がそこにいるだけ。それはいつでもどこだってそうでしょ?こんな禅問答に意味なんてない。あなたは一体何を求めているの?」
私は怒気を含ませ、やけくそに質問を投げかけた。
「そう、およそ意味なんてない。私が欲しいのは光瞬く明瞭な答えなんかじゃない。」
「――欲しいのは、あなたの魂だ。」
何も言えなかった。彼はただ茫然とする私の表情をしばらく見て、おもむろに口を開いた。
「もし、己が魂を献ずる準備ができたなら、その時は、『僕の名前を叫んで』ほしい。それは言葉通りの意味でだ。僕の名前を呼べば、僕は喜んでこの街を爆破する。僕はいつだって聞き耳をそばだてて、君の声を待っている。」
彼はコーヒーを一気に飲み干し、2人分の代金をテーブルに置いて、その店を出ていった。カランコロン、とドアの開閉と共に鈴が侘しさを抱きながら鳴っていた。
私は燻るタバコをゆっくりと吹かし、ただ一点を見つめていた。横を通り過ぎるウェイターと共に、クリームを縁取る暗く濃いコーヒーが静かにさざ波を立て、揺れた。クリームをスプーンですくい、口に入れると、甘い味がいっぱいに広がり、やがて消えてった。そうしてコーヒーをひとしきり飲んだ後、会計を支払い、私もその店を後にした。
外に出て、空を仰げば、夜も佳境だった。雨は霧雨へと変わり、傘を差すかためらうくらいだった。悩んだ末、私は雨に濡れることにした。
私はそれから、徐々に夜へと沈む新宿の街をぶらぶらとそぞろに歩いていた。何かに想い耽るわけでもなく、モノトーンへと移りゆく街並みをただ見ていた。目線の奥には、小さな闇が小止みなく渦巻いていた。
しばらく歩いていた折、ある男とすれ違った。その男は確かに見覚えがあった。振り返ると、その男も振り返ってこっちを見ていた。
「愛莉……!」
元カレだった。髪型は、かつての短髪ツーブロックからミディアムのセンター分けへと変貌していたが、かつての面影のままだった。
「雄太……。久しぶり、だね……。」
まるで過去と挨拶を交わしているようだった。変わらない彼がそこにいた。
「本当に、久しぶり。半年ぶりだっけ?」
「8か月ぶりぐらいなんじゃないかな?」
「そうだっけ。そんなもんか。」
「なんだか見たことある人だな……って振り返ったら、やっぱり、知っている人だった。」
「そうだね、俺もそう。でもさ、なんでこんな時間にここ歩いてるの?」
「仕事終わりに色々立ち寄ってたらこんな時間になって、それでぶらぶらと。」
途端に、彼の表情が曇った。私はこの表情が嫌いだったことを思い出した。
「それって何の仕事?まさかとは言わないけど、風俗なんて言わないよね?」
「遠くはないね。だってキャバクラだから。」
彼は青筋を立てた。私はこれが大嫌いだ。
「なんで身を売るような商売してんの?別れても絶対にすんなって言ったよね!約束すら守ってくれないの!?」
「そんな約束をしたからだよ。カリギュラ効果ってやつ?だいたい、なんで別れた後もあなたの言うことなんか聞かなきゃいけないの?」
「別れたあと、心を入れ替えてしてかつての行為を内省したんだよ!俺は変わったんだよ。だからこそ、そんな風に変わってほしくなかった!」
いいえ、ちっとも変わっていない。一体何が入れ替わったんだ、教えてほしい。全く自己省察が足りてない、もう”半年”ROMれ、と痛々しい古の用語が浮かんだが、でも、別れたからこそ、その不変が逆にいとおしく感じた。
「心を入れ替えたって……。さんざん辞めたがってたSEの仕事でも辞めたの?」
「ああ、そうだ。今は無職。退職金やら何やらで切り詰めて生活費を工面してる。」
変わったのそこだけかよ。むしろ最悪じゃねえか。
「そ。じゃあ働いている私の方が上じゃん。」
「人の価値なんてのは労働で決まるもんじゃない。そんな杓子定規で個人の何を推し量れるってんだ。」
こいつはときたま、反論も憚られるような真理を口にする。こういうことが往々にしてある。不愉快。
私は話題を変えた。
「……せっかく会ったんだし、どっかで時間潰さない?」
「じゃあカラオケでも行こう。」
私は彼の傘の中へ入り、柔らかい雨の中、カラオケ店を目指し歩いた。なんだかこの感じがひどく懐かしい。微かに吹く風が心地よく涼しかった。
カラオケに着いた私たちは9番のカラオケボックスに入り、RADWIMPSの『そっけない』や、BUMP OF CHICKEN の『ray』、椎名林檎の『罪と罰』、米津玄師の『恋と病熱』など、セピア色に染まった思い出の日々をなぞるように、かつて彼と良く歌った曲を歌った。いきものがかりの『気まぐれロマンティック』は歌っていて気持ちいいし、彼の歌うスピッツの『チェリー』はあの日と変わらず上手かった。そして2人で某芸人の替え歌で歌う、『WOW WAR TONIGHT』はやっぱり楽しかった。
ひとしきり自分らの好きな曲を歌った後、彼がある一曲入れた。それは松田聖子の『赤いスイートピー』だった。よく彼とのドライブで流れていた思い出の一曲だった。ユニゾンで歌う2人だけの空間が心地よさを包み込んでいた。暖かい空気が流れていた。
私たちは喫煙室でタバコを吸った。2匹のホタルが小さく光る。彼は何度も『赤いスイートピー』のサビ部分を繰り返し歌っていた。
「懐かしいね、よくこうして2人で歌っていたね。」
「うん、そうだね。十八番の『チェリー』久しぶりに聞けて良かった。」
「なお幾つもある、名だたる名曲の中で『恋と病熱』を狂うほど歌う人なんて、相当ニッチなんじゃない?」
「そうかな?私あの曲一番好き。心象風景って感じで。」
「いいね。こうして歌うの楽しい。」
「私も。久しぶりで。」
「そうだね。」
「うん。」
「また、戻りたいね。」
彼は俄かに神妙な面持ちに変わった。
「それはどうかな。こうして別れたから楽しいのかも。」
「ねえ、もう1回さ、俺と付き合わない?」
「随分急じゃない。どうしたの?」
「いや、俺はもう束縛なんてしないよ。いやだったんでしょ。もうしないと思う。」
「『と、思う』って……。そういうとこがためらう原因なの、言われなきゃわからない?」
ため息が混じる。
「そう、言われなきゃ分からない。だから言われたら、その都度直す。」
「ホントに、乙女心ってのが分からないの?察して欲しいの、こっちは。だから特別でいられるんでしょ。」
「頑張る。頑張るから。だから、戻ってきてほしい。戻ってきて安心させて欲しい。俺を独りにしないで。俺を愛して欲しい。」
私の中で、プツン、と何かが切れる音がした。この人は、どこまでも、どこまでもだ。悪い意味で軸がブレない。
「ねえ。なんで別れたか、ちゃんと考えたことある?もし答えがわかっていたら、答え合わせしよっか。答え合わせ。答えはね、さっきのあなたの発言全て。この際だから言うけど、あなたはどこまでも自己本位。地軸が身体にでも刺さってるの?ってくらい、ガリレオが地動説を疑うくらいに。そこが嫌いなの。束縛が強かったのも、不安だったんでしょ。独りが怖いんでしょ。だから安心が欲しかった。違う?」
何かが心の中でうごめく。そんな感じがした。私は吸っていたタバコを途中でやめた。
「あんたとのカラオケ、久しぶりですごく楽しかった。やっぱり、好きだった気持ちはどこまでも否定できない。確かにもう一度付き合ってもいいって、ちょっぴり思った。でも、だからこそ、あんたとは付き合えない。もうやめたの、自分を偽るのは。過去に戻るのは。私は進むの。足を進めるのも憚られる泥濘の中を、怯懦を抱く、降りしきる雷雨の中を、孤独に苛まれ寂寥に泣く耐え難い夜を。その先に光り瞬く一等星があるのなら。それを掴んで離さないほどの魂削る覚悟を、私は持っている。だから。」
私はカバンからナイフを取り出し、彼を刺した。彼はおもむろに地面へ倒れ込み、彼の白い服はやがて赤く滲み、ポタポタと血が流れ落ちた。
「ごめんね。でも、こうしないと。」
私は本屋で出会った彼のあの名前を叫んだ。教えられてもいない、その名前を。遠くまで、遠くまで聞こえるような、猛り立つ獰猛な肉食獣のような激しい声で、声高く。その時、けたたましく耐え難いほどの轟音が響いた。体は店外まで吹っ飛ばされ、私は仰向けに地面に倒れこんだ。
意識を取り戻した私は、天上を仰ぎ、金色の朝日が徐々に浸み込んでいく空に響く数多の金切り声を聞き、吹き出すように笑った。くだらない、くだらない、これから先の未来。それを自嘲するかの如く。でもそれは、代えがたいくらいの望んだ愛おしい未来。その先に、己が望んだ本懐があるのかなんてのは分からない。でも、それでもいい。
体を起こし、爆発音がする街を背に、それを一瞥することもなく、私はおぼろげな空を目指して歩いた。パニックに陥った人々は逃げ惑いながらも、爆発のする方を見やり、途端に古代ギリシャ彫刻のように身体が白く固まった。
私の前には、朝日に向かいタバコを燻らす本屋の彼の姿があった。彼は『赤いスイートピー』の2番のサビを口ずさんでいた。
「タバコ、吸うか?」
「一本。」
私は彼の横に立ち、同じようにタバコを吸った。二輪のイチリンソウがそこに咲いていた。
すると、天から羽根を生やした純白な天使が舞い降り、微笑みを湛えながら、私に翼を生やした。
「飛ぼう。あのおぼろげな光に向かって。翼が折れるまで。」
私は彼の手を握り、折れるかもしれない翼を広げ、一緒に空へと舞った。どこまでも、どこまでも遠く、遠く――。
吹かした1本のタバコが、身体を曲げて地面に横たわり、ゆらゆらと揺らめく微かな煙を空へと送っていた……。