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俺にだけ味噌汁をおまけしてくれる定食屋の姉ちゃんの話

作者: 墨江夢

 夜の7時半。

 俺・若林繁(わかばやししげる)は引き戸を開けながら、すっかり見慣れた紺色の暖簾をくぐる。

 定食屋『宮野亭(みやのてい)』。ここは俺の行きつけの店だった。


 店内に入ると、途端に唐揚げや鯖の味噌煮、カツ丼の良い匂いが漂ってくる。絶賛空腹状態の俺にとって、この匂いはいささか刺激が強すぎて。


 ……あぁ、どうしよう。今すぐ料理にありつきたくて、仕方がない。

 しかし、俺も良い大人だ。そんなみっともない真似が出来るわけもない。

 はやる気持ちを抑えながら、俺は店員から声をかけられるのを待った。


「いらっしゃいませ!」


 20歳くらいの女の子が、明るい声で俺を出迎える。

 彼女は宮野(すみれ)。店主の一人娘だ。

 

 両親は厨房、菫さんがホール担当であるようで、基本的な注文は彼女一人で捌いていく。

 愛想が良く、俺を含む常連さんにも慕われている。まさにこの店の看板娘だった。


 空いているテーブル席に着くと、すかさず菫さんはお冷やを持ってきてくれる。


「こんばんは、若林さん。今日もお仕事お疲れ様です」

「いや〜、今日は特に疲れたよ。後輩が風邪で休んじゃってさ、彼の仕事を俺が代わりにやる羽目になったんだよね」

「それはそれは、本当にお疲れ様です。……季節の変わり目ですし、若林さんも体調管理には気を付けて下さいよ」

「そうだな。風邪を引いて会社を休んだら、同僚に迷惑かけちまうし」

「そういうことじゃありません」


 グイッと、菫さんは俺に顔を近付ける。


「私は若林さんのことを心配しているんです」


 ……本当、この子は。こういうことを無自覚で言ってくるんだから、こちらとしても困ってしまう。

 他意がないことくらいわかっているんだけど、俺も男だ。菫さんみたいな可愛い女の子に今みたいな発言をされたら、ドキッとしてしまう。


「それで、若林さん。ご注文は?」

「え? あー……煮込みハンバーグにしようかな。ご飯付きで。あと、生ビールを」

「……若林さん、明日健康診断だって言ってませんでした?」


 確かに俺は明日、健康診断を控えている。そしてそのことを先週チラッと菫さんに話していたが……よく覚えていたな。


「なので、今夜はお酒なしです。……注文入りましたー! 煮込みハンバーグとご飯お願いしまーす!」


 今日は頑張ったし、ビールを飲んで疲れを吹き飛ばしたかったんだけどな。

 でもまぁ、「健康診断を控えているから」という理由で注文を一方的に取り消すなんて、ある程度親しい客にしか出来ないだろうし、菫さんにとって俺がそれだけの存在になっているのだと考えれば、そこまで悪い気もしない。


 暫くして、菫さんが料理を持ってきた。


 目の前に置かれたお盆の上には、美味しそうな煮込みハンバーグとご飯と……そして味噌汁が乗せられている。


 俺は味噌汁を注文していない。これはサービスだ。

 菫さんは俺にだけ、毎回味噌汁をおまけしてくれるのだ。

 

「菫さん、いつもありがとう」


 俺がお礼を言うと、彼女は嬉しそうに微笑む。

 それから俺は、温かい内に味噌汁をひと口啜るのだった。


 ……あぁ、温まるなぁ。





『宮野亭』を初めて訪れたのは、3ヶ月前のことだった。


 その日俺の気持ちは、めちゃくちゃ沈んでいた。失恋したのだ。


 入社以来、俺はとある先輩にずっと片想いしていた。

 美人でスタイルも良くて優しくて、その上俺の教員係として丁寧に仕事を教えてくれた経緯もあり、ぶっちゃけ好きにならない方がどうかしている。


 いつも先輩のことを目で追っていて、先輩に近付きたくて。

 公私共に先輩の隣に並んで立ちたい! そんな思いで、俺は来る日も来る日も一生懸命仕事に努めていた。でも――


「私、結婚するんです」


 今日の朝礼で先輩の口から飛び出した、衝撃のカミングアウト。頭の中が真っ白になったのは、言うまでもない。


 結婚って……嘘だよな? 

 信じられない……というより、信じたくないという気持ちが先行する。しかし先輩の左手の薬指で光る婚約指輪が、彼女の言葉が真実である何よりの証拠だ。


 先輩の婚約者は、高校時代の同級生らしい。

 付き合い始めたのは高校卒業と同時らしいので、実に10年に及ぶ大恋愛だ。


 しかもそのことを、俺以外の社員は知っていて。この場で初耳なのは、俺だけだ。その事実が、一層心を抉る。

 

 朝一番で失恋しては、当然その日の仕事が手に着くわけもない。

 普段はしないような単純なミスを繰り返し、残業することなく定時になるやいなや退勤した。


 死にたい気分とは、このことを言うのだろう。

 半ば放心状態で、俺は見慣れた夜道を歩いていく。


 いつも通っている自宅への帰り道だというのに、気分が沈むだけで全然違う景色のように思えて。暗がりを照らしてくれる街灯も、今夜に限っては煩わしく感じた。


 帰路を進んでいると、ふと小さな定食屋の看板が目に入る。


『宮野亭』、か。こんな店があったなんて、毎日通っているのに知らなかったな。心なしか、店内から良い匂いが漏れ出している。


 ……ぐー。


 死にたくなっても、人間は不思議と腹が減る。

 家に帰って料理する気なんて起きないし、今日はここで夕食を取ることにするか。


 俺は店内に入る。

「いらっしゃいませ」と出迎えてくれたのは、他ならぬ菫さんだった。


「一名様ですか?」


 客が来店した際の定食屋の従業員としては、当たり前の質問だ。

 しかし失恋したての俺は、「一人なのかよ」と小馬鹿にされたように思ってしまう。完全に被害妄想だ。


「連れがいるように見えますか?」


 答えた後、しまったと思う。

 彼女に対して、俺はなんて愛想の悪い態度を取ってしまったのだろうか。


 菫さんも、額に青筋を浮べていることだろう。俺が慌てて謝罪しようとすると――


「フフフ、それもそうですね。一名様、ご来店でーす!」


 ――嫌そうな顔一つすることなく、笑って見せた。


 営業スマイルだということは、勿論わかっている。

 たとえそうだとわかっていても、その時の菫さんの笑顔は俺にとって救いになった。


「ご注文はどうされますか?」

「そうですねぇ……この店のオススメって、何ですか?」

「生姜焼きですね。あとカツ丼も美味しいです」


 カツ丼は……恋愛に大敗北したばかりだし、やめておこう。

 俺は生姜焼きとご飯を注文した。


 目の前に運ばれた生姜焼きは、成る程、オススメという言葉に恥じないくらい食欲をそそる匂いだった。


 心が空っぽになっているんだ。お腹くらいは、満たしておくとしよう。

 俺は早速生姜焼きをひと切れ摘み、口に運ぶ。

 すると自分でもわからないけど、涙が溢れ出してきた。


 菫さんや他の客に気付かれる前に、俺はさりげなく目尻に溜まった涙を拭う。

 泣くのは家に帰ってからだ。今はただ、生姜焼きの味を堪能するとしよう。


 俺が食事を進めていると、突然菫さんが俺の前に一杯の味噌汁を置いた。


「味噌汁なんて、頼んでいないんですけど?」

「これは、その……随分悲しそうな顔をされていたので、サービスというか。温まりますよ?」


 ……もしかしたら、菫さんはさっきの俺の涙を目撃していたのかもしれない。

 だけどそれを指摘すると俺に恥をかかせてしまうから、代わりに味噌汁を差し出してくれたのだ。


 俺は菫さんの厚意を、素直に受け取ることにした。


「ありがとう。いただきます」


 俺は味噌汁をひと口啜る。


「……美味いな」

「ありがとうございます。実は私、定食屋の娘としてはまだまだ修行中の身でして。味噌汁だけ、作ることを許されているんです」

「ということは、これは君の手作り?」

「はい!」


 俺を心配してくれた人が作ったものだと分かると、なんだか美味しさが増すような気がする。


「本当、美味いですよ。それに体だけじゃなく心も温かくなるっていうか。毎日でも飲みたいくらいです」

「へっ!? 毎日ですか!?」

「ん? どうかしましたか?」

「いっ、いえ。何でもありません」


 お盆で顔を隠しながら、彼女は裏に戻っていく。……何か変なことを言っただろうか?


 翌日。

 昨日の味噌汁の味が忘れられなかった俺は、二日続けて『宮野亭』に足を運んだ。


「いらっしゃいませ! ……あっ、あなたは昨日の!」

「若林です」


 昨夜のお礼も兼ねてペコリと頭を下げると、菫さんもお辞儀で返してきた。


「いらっしゃいませ、若林さん。ご注文は?」

「そうですねぇ……カツ丼と、あと味噌汁をお願いしようかな」

「カツ丼ですね。かしこまりました」


 いや、味噌汁も注文したんだが……。

 訂正する前に、菫さんは他のお客に呼ばれてしまう。


 ……仕方ない。

 彼女がカツ丼を持ってきた時に、改めて味噌汁を追加注文するとしよう。


 10分後、彼女が出来立てのカツ丼を運んでくる。


「お待たせしました!」


 お盆の上には……味噌汁も乗っていた。


「あの、味噌汁は――」


 俺が口を開くと、彼女は「秘密です」と言わんばかりに人差し指を自身の唇に当てる。


 そんな菫さんの魅力に虜になってしまい、気付けば俺は毎日のように『宮野亭』に通うようになっていた。

 そしてその度に、菫さんは一杯の味噌汁をサービスしてくれるのだ。





 仕事帰り。

 今日も今日とて、俺の足は自然と『宮野亭』に向かう。

 さて。今夜は味噌汁と、何を食べるとしようかな。


「いらっしゃい、若林さん!」


 菫さんの笑顔を見て、彼女の明るい声を聞けば、一日の疲れなんてどこかへ吹き飛んでしまう。

 そして明日の英気を養うのは、『宮野亭』の美味しい料理だ。俺は鯖の味噌煮を注文した。


「あっ、菫さん! ビールもお願い出来るかな?」

「その注文を受ける前に。……健康診断の結果、どうだったんですか?」


 ……健康診断のこと、まだ覚えていたのね。


「それは、その……言わなきゃダメ?」

「若林の食生活を担う者として、無関係ではいられませんからね。そんな前置きをするってことは……もしかして、何か重大な病気でも見つかったんですか!?」

「いいや。ちょっとストレスが溜まっているだけの、至って健康体だってよ」

「そうでしたか。良かったぁ」


 菫さんはまるで自分のことのように安堵してくれる。

 単なる客をここまで心配してくれていたなんて、本当に優しい子だ。


「異常なしならビールを持ってきてあげますけど、ただし一つ条件があります。……ストレスを溜め込みすぎる前に、きちんと相談すること! 良いですね!」

「相談って……一体誰に?」

「そりゃあ、同期の人とか上司さんとか、あとは……私とか」


 最後だけ、やけに声量を抑えて菫さんは言う。


「菫さんに相談しても良いの?」

「是非! もしかして、早速お悩みを相談してくれるんですか?」

「悩みねぇ……最近寒くて困ってます」


『宮野亭』に来る直前まで俺の頭を悩ませていたことを、菫さんにぼやいてみる。

 すると彼女は、プッと吹き出した。


「それは大変でしたね。すぐに「いつもの」をお持ちしますから、待っていて下さい」


「いつもの」とは、言うまでもなく味噌汁のことである。

 どうやら俺の悩みが一つ、早々に解決することになりそうだ。


 食事を終え、会計をしている時、菫さんがふと「私の話も聞いてくれますか?」と言ってきた。


「当たり前だろ? 悩み相談か?」

「相談というより、事後報告なのですが。実は……『宮野亭』を畳むことになったんです」





『宮野亭』閉店の理由は、深刻な経営難だった。

 常連はいるものの飛び込みのお客は少なく、売上は思った以上に伸びていないそうだ。


 対して家賃や食材費を含む経費は上がっていく一方で。店主は数十年続けてきた『宮野亭』を、思い切って閉める決意をしたらしい。


 幸いにも店主は友人の経営するレストランで雇って貰えるそうで、一家が路頭に迷う心配はない。

 それでも『宮野亭』は、店主や菫さんにとって家同然だ。なくなることに、何も思わないわけがない。


 そしてまだ通い始めて数ヶ月だけど、俺もこの『宮野亭』に並々ならぬ思い入れがある。

 菫さん手作りの味噌汁が飲めなくなるのだと思うと、悲しいどころの話じゃなかった。


 俺に何か出来ることはないだろうか?

 大して中身の詰まっていない脳をフル回転させて考えてみるも、妙案は思い浮かばない。


 俺はスーパーヒーローでもなければ、大富豪でもない。一介のサラリーマンに出来ることなんて、たかが知れている。


 俺に出来ることといえば――閉店するその日まで『宮野亭』に通い続け、その味を心に刻み込むことだろう。


 月日はあっという間に過ぎ去り、とうとう『宮野亭』閉店の日がやって来る。


 最終日に頼むメニューは前々から決めていた。生姜焼きだ。


「お待たせしました、若林さん。生姜焼きとご飯と……「いつもの」です」


 生姜焼きは、初めて『宮野亭』に来た時と変わらない味だった。

 美味しい。その一言に限る。


 対して菫さん手作りの味噌汁は、初日と比べて更に美味しくなっているような気がした。


「菫さんも、腕を上げたよな」

「本当ですか? 実はですね、途中から若林さんの味噌汁にだけ、隠し味を入れるようになったんですよ。それが効いているのかもしれませんね」


 隠し味とは、一体何なのだろうか? 『宮野亭』秘伝のタレ的な何かなのかもしれない。

 

 最終日なので、今夜はいつもより長居していた。だけど、時間は有限。永遠ではない。

 気付くと閉店時間が迫っていた。


「……そろそろ、帰るか」


 名残惜しさをグッと堪えて席を立つと、


「あの、若林さん!」


 菫さんに呼び止められた。


「最後にもう一杯だけ、お味噌汁を飲んでくれませんか?」

「そんなの……寧ろこっちからお願いしたいくらいだよ」


 数分後、正真正銘最後の味噌汁が、俺の前に置かれる。


「これで最後だと思うと、寂しく感じるな。この味噌汁が、俺の毎日の楽しみだったのに」


 この味噌汁は、今や俺の体の一部だと言っても過言ではない。

 それ程までに俺はこの味噌汁に……菫さんに救われてきた。


「いらっしゃいませ」の笑顔も、この味噌汁同様もう見ることが出来なくなる。

 胸に抱いた喪失感は、失恋した時以上のものになっていた。


「欲を言えば、もっと飲みたいなぁ」

「……若林さんがお望みなら、これからもあなたの為だけに作ってあげても良いんですよ? その……毎朝でも」

「だけどお店はもう畳むんじゃ……あっ」


 そこまで言って、菫さんの真意に気が付く。

 菫さんの言う「毎朝味噌汁を作りたい」とは、十中八九言葉通りの意味じゃない。


「お店もなくなっちゃうことですし、すぐにじゃなくても良いんですけど……若林さんのところに、永久就職したいです」


 もし菫さんと結婚すれば、これからだって彼女の作った味噌汁が飲める。……そんなの、副産物に過ぎない。


 これからも菫さんと会うことが出来る。それどころか、ずっと一緒にいられる。

 それこそが、俺の本当の望みだったのだ。


「こちらこそ……いつまでも菫さんの味噌汁が飲みたいです。よろしくお願いします」


 流石に結婚は気が早いので、一先ず俺と菫さんは同棲することにした。

 朝食には決まって味噌汁が出てくる。味噌汁の味は、今なお美味しくなり続けていた。


「そういえば、菫さん。味噌汁に入っている隠し味って結局何だったんだ?」


 味噌汁を啜りながら、俺はふと以前抱いた疑問を思い出す。

 菫さんは恥ずかしそうに頬を紅潮させながら、こう答えた。


「それは……愛情です♡」


 成る程な。そりゃあ、美味しくなるわけだ。

 一緒にいる時間が経過するごとに大きくなっていく菫さんの愛を感じながら、俺は「今日も一日頑張るぞ」と意気込むのだった。

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