羊の王国のキーウィとジャポネ
ジャポネはいつも紺のスーツを着ている。
毎日、好んでスーツを着るようなものはいないのでジャポネは変わり者だ。ジャポネは二年前の冬に私と祖父の住むサザン・アルプスの麓にある牧場にやって来た。日本からのお土産ですとよく分からないお菓子を手にスーツ姿で頭をさげたジャポネを見て、祖父が口元を緩めたのは珍しい光景だった。
ジャポネの故郷である日本は、地球儀で見ればすぐに見つかる。オーストラリアから真っすぐに指を真上に引っ張っていくと、私の住むニュージーランドと同じ島国がある。あちらのほうが少し足が長いが、ちょうど真ん中で切ってしまえばそっくりになるに違いない。ジャポネはそこで羊毛を加工する会社に勤めていて、うちの牧場や他の牧場から羊毛を買い付けるためにやって来たのだという。
別に海を越えてまで来なくてもと思うが、それが仕事なのだとジャポネは言う。確かに毛刈りの時期になるとジャポネはいろいろな牧場を回っているが、それ以外の季節はのほほんと羊を眺めているだけである。とても牧場に出張所を設置してまでやる仕事とは思えないのだが、週に二回ほど彼は日本のスーツ仲間と会議をしている。
パソコンのモニターにはジャポネと同じスーツを着た男たちが、ごちゃごちゃと小難しいことを話している。ジャポネに「そんなに会議ばかりしてよく決めることがあるね」というとジャポネは「いやぁ、別に何も決まってないんだけどね」と歯切れが悪かった。なにも決まらないというなら何を話しているのだろうか? まったくジャポネの国は不思議の国である。
「ジャポネ。羊たちを牧草地に出したいから手伝って!」
九月になると寒かった冬が終わり一年で一番過ごしやすい春がやってくる。やや黄色みががかった白いモコモコした羊たちも干し草しか食べれないのは辛いらしく、青々した生のエサが食べれる春は嬉しいらしい。大人の羊たちは、牧羊犬に慣れていてすんなり草地を移動してくれるが、春前に生まれた子羊たちには牧羊犬たちがどうしたいのかまだよくわからないらしくよく遭難する。それを誘導してやるのが人間の仕事だ。
「キーウィ。僕は仕事中なんだけど」
ジャポネは私のことをキーウィと呼ぶ。これは私たちニュージーランド人が自分たちを呼ぶときに使う愛称である。キーウィはニュージーランドに住む飛べない鳥である。キーウィフルーツに手足とくちばしをつけたイラストを描くと誰でもわかってくれる素晴らしいデザインである。
「パソコンに向かっているだけでしょ? それは今じゃないといけない仕事?」
「いや、そんなことはないけど」
「なら問題なしね。ジャポネ。あなたの決断が遅れるほどあなたの友達である羊たちは一マイルずつ遠くへ行ってしまうわ」
牧場内に羊が散ってしまうと連れ戻すことは大変である。見通しが良いせいですぐそこにいると思っても羊がはるか遠くにいるなんて言うことは当たり前だ。なにより、私たちの牧場には、よくアメリカやオーストラリアの牧場で見かけるような馬はいないし、バギーもない。あるのは自走式の芝刈り機くらいだ。これで羊を迎えに行くなどとてもではないができない。
「分かった。分かったよ」
ジャポネは慌てた様子で部屋を飛び出すと牧草地へと走り出す。春の淡い緑と乾いた青い空に紺色のスーツと糊のきいた白いシャツが合成映像みたいに見える。私が笑っていると牧羊犬を操っている祖父が急げと言うように手で合図を出す。私はジャポネの後を追って走る。
ジャポネの足は遅い。簡単に捕まってしまうキーウィにその点はよく似ている。私が追い付くと「キーウィはやっ」とかぜいぜいと息を乱すがそれはきっとジャポネの日頃の行いのせいである。せっかく最高の自然が揃うカンタベリーに住んでいるというのにロードバイクはおろかボートもスキーもしない。いったい何を楽しみに生きているのか分からない。祖父でさえ釣りに行くときは嬉々としだすのにジャポネにはそういうところがない。
つまらない男と言えばそれまでだが、羊は好きなのだろう。安息日にも羊を眺めたり、撫でたりしている。本当に変わっている。
「捕まえた」
私は一番近くにいたやんちゃ坊主を捕まえる。まだ、三頭ほどが遭難している。私は捕まえた羊をあとから駆け付けたジャポネに預ける。ジャポネは子羊の顔をまじまじ眺めると「モリーだね」と笑った。私も祖父も羊に名前を付けることは稀だ。それにもかかわらずジャポネは勝手に羊たちに名前を付けてそれで区別がつくというのだから驚きである。
「よくわかるわね」
「ここでの唯一の友達たちだからね」
羊の区別がつくほど繊細な割に、ジャポネは気が利かない。二年も一緒にいるというのに私は友達ではないのかと不満になる。私は不満を子羊たちに向けて追いかけまわすとジャポネに強引に預けて祖父の元へと向かった。
ジャポネは四頭の羊たちに「そっちはだめだ」とか「こっちだよ」と声をかけて牧草地を誘導するがあの様子ではしばらく時間がかかるに違いない。
「ボス。行方不明者はジャポネが連れてくるわ」
「エリー。ジャポネを手伝ってやらないのか。あの調子だと夕方になってもこっちに来ないんじゃないか」
祖父の視線のほうを見れば、子羊たちが草を食みだして歩みを止めてしまったのをジャポネがなんとか歩くようにうながしているがもしゃもしゃと羊たちは口を動かすだけで進みそうな様子はなかった。
「いいのよ、ジャポネは羊だけが友達っていうんだから友達と日暮れまで遊んでれば」
「なんだまたジャポネと喧嘩をしたのかい?」
「喧嘩? 私はジャポネと喧嘩なんてしたこと、今までだってこれからだってないわよ。ジャポネは私が何を言っても怒らないし」
「エリー、君はジャポネに怒られたいのかい?」
「ボス、私にそんな趣味はないわ。これはジャポネが優柔不断でって話なの」
祖父は私が否定すると黙って口角だけをあげた。こういうときの祖父の感情は分かりにくい。怒っているのか。悲しんでいるのか。笑っているのか。長い年月を刻んだ皺がそれを覆い隠しているからだ。
「ジャポネはキーウィじゃないが悪い奴ではないよ」
「ジャポネがポリシーを持ってきちんと仕事をする良い奴だってことを私は知っているわ。そうじゃなきゃ一緒にいられないもの」
「そうだね。さぁ、エリーそろそろ昼飯の時間だ。用意をしてきてくれるかい?」
「分かった。……ボス、悪いのだけどジャポネを少し助けてあげて」
「分かっている」
祖父は口笛を吹いてジャポネのほうへ歩いていく。その先を牧羊犬たちが駆けていく。
私はと言えば、少し元気のない足取りで母屋に戻るとキッチンの前に立った。昼は簡単に済ませることが多いが、今日はなんとなくそんな気分じゃない。そう、肉だ。肉を焼こう。冷蔵庫から子羊のあばら肉の塊を取り出すと、気合を入れていくつかのブロックに切り出す。
力を使うとすっきりした。切り落としたあばら肉に塩コショウを振りかけて家庭菜園で採れたローズマリーを乱雑にすり込んでグリルへ投入する。
肉が焦げるいい香りがする。
「ああ、いい匂いだ」
祖父の声がする。祖父が手を洗い、グリルを覗き込む。
「ラムチョップステーキだけどお昼から重かったしら?」
「いいや、そんなことはない。肉は私たちに活力をくれる。あと悩みもね。そうだろう、ジャポネ」
急に声をかけられてジャポネが驚いた顔をする。真っ白だったシャツは羊の毛と汗で少し汚れている。それだけで彼がまじめに羊たちと対峙していたことが分かる。
「えっ? そうですね」
あまり意味が分かっていなかったのだろう。ジャポネの慌てた様子に私と祖父は首を振った。
「はい、おまちどうさまのラムチョップステーキでございます」
私がグリルからきつね色の焦げ目のついた肉の塊をとりだすと大皿に乗せる。祖父がそれをナイフで切り分けて、ジャポネが朝食の残りのパンと祖父の好きなブルーベリーソースと私の好きなミントソースを食卓に並べる。
息の揃った動きに私たちは笑った。
「本当によく気づくわね」
「一緒にいるんだから当たり前だよ」
食事の前、私と祖父は神に祈る。ジャポネは「いただきます」と言って食材の命に祈りを捧げる。相手は違っても食べるということに喜びと感謝をささげるというところは私たちは一緒だ。ジャポネはキーウィではない。宗教も違う。でも、よく似たところがある。日常のどうとでもない場面でそういう面が見えるのが私はとても好きだ。
「キーウィ。午後は仕事をしても?」
「良いんじゃないかしら? お友達が寂しがるかもしれないけど」
「さっきから怒ってると思ってたけど、羊たちを唯一の友達って言ったことを怒ってるの?」
「別に怒ってないけど」
ラムチョップにミントソースをこれでもかとかけて齧りつく。ミントの爽やかな香りと酸味が肉汁と混ざって口の中に広がる。きっとこれがキーウィの故郷の味だと私は思う。
「ジャポネ。エリーはまだまだ子供なんだからちゃんと構ってやってくれよ」
祖父が呆れたように口を出す。子供というのはいくら祖父とはいえ腹立たしい。
「待って、ハイスクールだって来年の夏には終わるわ。子供扱いしないで」
「そうだね。こんな美味しい料理が作れるんだ。キーウィは子供じゃないね」
笑顔でそういうのが一番人を子供扱いしているということが分からないのだろうか? とはいえ料理を褒められるのは嬉しい。少し頬が熱くなるのが分かった。ジャポネは気づいているだろうか。気づかれていたら嫌だと思う。
好きだとバレてしまうから。