靴に置かれ
日がまだ海から顔を出さない、そんな時間だった。
まだ空は暗く、それを映した海の色も暗い。
私はそんな風景を一望しようと、崖の上に立っていた。
下をのぞけば波が岩々の隙間をあらぶっており、そこに落ちる事が死をもたらすことを教えてくれている。
ザザーン。ザブーン。
まだその時ではないのだ。
私は靴を脱ぎ、空に近い崖の方に並べる。
あと一歩。その靴の向こうには何もない。
私は靴を長々と見つめた。
朝日が海に姿を現し、私は我に返り、ようやくと座った。
夕日。私の頭にはその風景が浮かび上がる。
今ある太陽は、夕日と何も変わらないように見えた。
この真っ赤に染められた海の色はあまりにも綺麗なものを描いている。
「……うみ。」
私はぼそりとつぶやきながら涙をこぼした。
この風景に感動したのではない。
己のふがいなさを思い出してしまったのだ。
私は己のために涙を流している。
そんな自分があまりにも憎い。
ザザーン。ザブーン。
太陽はゆっくりと高度を上げている。
左下の方の砂浜で人が見えた。
朝日を遅れて確認しに来たのか、すぐに去る。
長いこと水も取らずに私は座り続けていた。
日がまた昇り、昼時になる。
その時、背後からひとつの足音。
「そんなところで何をしているんですか。」
私のもとに一人の女性が現れた。
年齢は二十五から三十といったところだろうか。
「そこ危ないですよ。」
女性は私を心配していた。
私は手前に置いた靴を隠すように立ち上がり、「何でもないですよ。」と手を振った。
それだけだと何かと勘違いさせると感じ、
「私、絵をかきに来たんですよ。この海の風景が綺麗でしてね。」
ととっさに口を繋げた。
それから懐から四枚、女性に見せつけるように白い紙を取り出した。
「なにもまだ、かくことは決まっていませんがね。」
二度三度、女性の表情がちらりとかわり、私は息をのんだ。
ザザーン。ザブーン。
女性は納得してくれたようだった。
「さっき、ここにいるのを見かけて。失礼なんですが、あれの人かと思ってしまいました。」
女性は申し訳なさそうに私を見た。
「脱水症状にはきをつけてくださいね。」
女性は五百の水のボトルを私に渡すと、立ち去った。
どうやら砂場の人影は彼女だったらしい。
渡されたボトルを、開けることなく地面に置いた。
そしてまた、海を眺める。
ザザーン。ザブーン。
手に持った白紙を一枚、広げる。
四等分された後のある以外、何にも特徴のない紙である。
自分の目の高さに紙を持ってくる。
日の光が紙をすかし、少しばかりか青色が映る。
私はなにがしたかったのだろう。
「……うみ。」
ザザーン。ザブーン。
紙を一枚。折る。
折って、折って、折って。紙飛行機を作る。
それを私は空高く投げる。
紙飛行機は、靴の上を通り、空へと向かう。
海からの風に煽られ、飛行機は左へと軌道を変える。
砂浜へと落ちる。
もう一度、紙を取り出して飛行機を作る。
作る。空を飛ぶ。作る。空を飛ぶ。
そんな追加の二機も左へと流れた。
懐から最後の一枚を取り出す。
その一枚を追いかけるように、懐から封筒がひとつ落ちた。
私はそれを拾い上げ、裏を返す。
その封筒には達筆な、『遺書』と書かれてあった。
私は封筒を再び懐に収めると、手に持った紙もまた懐に戻した。
私はいったい、何がしたいのだろう。
ザザーン。ザブーン。
私は私の飛ばした紙を回収しに行かなければならなかった。
私はしぶしぶ立ち上がる。
ふと目が自然に崖下に向く。
下に置かれた靴の先には絶景が広がっている。
私は首を横に振り、それを否定する。
体をゆっくり回転させ、砂浜へと向かう。
靴は置いたままにした。
靴を取りに行けば、体がそれよりも前に進みそうだったからである。
何より、まだ紙には何も刻むことが出来ていないのだ。
尖った石を踏まぬように、変に歩きながら砂浜へと着いた。
私は散らばる紙を二枚、黙々と拾った。
一枚一枚広げなおし、四つに折ると懐にしまう。
あと一枚足りないと周りを見わたす。
ザザーン。ザブーン。
海に、何かが浮かんでいるのが目に映った。
私の紙飛行機ではない。
あれは……瓶であった。
酒が入っていたような瓶が海に浮いているのである。
ゴミ。私はその考えをすぐ改めた。
瓶の中に紙が見えたのだ。
私はあれが手紙を入れた瓶なのだと理解した。
聞いたことはある。
不特定な人に手紙を送るため、瓶の中に手紙を入れ、海へ投げるものがいると。
だが実際にこの目で見たのは初めてであった。
少し、手紙に興味を持った。
私は瓶を拾いにと、海へと入る。
下半身がずぶ濡れになったが、気にならなかった。
それよりも中身が気になる。
急いで、コルクを抜き取る。
ポンッ、とコルクはいい音を鳴らす。
それから次に、と思うが手が止まった。
丸められた紙が出口で詰まっていたのだ。
少し考え、私は瓶を振り回してみた。
すると勢いをつけて、手紙が飛び出し砂浜に落ちる。
拾う。
手紙はピンクの髪留めで止められていた。
私が髪留めを引っ張ると、ずいぶん古いものなのか、ゴムがちぎれてしまった。
ゴムを懐に入れ、紙を広げる。
手紙は全部で三枚あった。
手紙は黒いインクで書かれている。
書き出しは、『これをよんでいるあなたへ。』だ。
次に、手紙特有の、『元気ですか。』である。
この手紙の主は余程気楽なのだろうか。
その次には、『私は元気です。』なんて、誰も求めてなどいない回答が書かれている。
私はいろいろと指摘とやらを入れたかった。
そんな風に、私は手紙にのめり込んでいた。
ザザーン。ザブーン。
『これをよんでいるあなたへ。
元気ですか。私は元気です。
この手紙を拾ってくれたのは誰でしょうか。
私と同い年の女性でしょうか。
それとも男の方。もしかしたらおじさん、かもしれないですね。
手紙はどこまで流れたでしょうか。
もしかしたら遠くまで流れちゃったりするかもしれませんね。
拾ってくれているあなた。
すてきな出会いですね。
一度お会いしてみませんか。』
私は四十を超えたおじさんである。
なんて、心の中で指摘をしていた。
『一度お会いしてみませんか。』
この子はなんてファンタジーに、メルヘンに物を考えているのだろう。
このような手紙では典型的なフレーズなのかも知れない。
だがそれこそが、私にとっては面白おかしく感じられた。
私とこの子が会えば、この子の夢を壊してしまいそうだ。
私はなんとなく、面白がった。
一枚目をめくり、二枚目に変える。
『その前に、自己紹介を書いていませんでした。
私の名前は田中』
二枚目を見たすぐに、私は紙を強く握りしめ、しわしわにしてしまった。
そして顔をあげ、不意に周りを見渡した。
先ほどまでの、私の薄汚い心とは打って変わり、私は怯えるように青ざめていた。
この手紙の主の名前に、私は目が釘付けにされてしまったのだ。
『私の名前は田中海です。』
私が知る限りこの名前は、妻の名だった。
それも、私と結婚する前の旧姓である。
胸の鼓動を抑える。
私は感情を押さえつけようと、空を見上げた。
この手紙を読んでいいのだろうか。
まだ過去の妻の手紙と決まったわけではない。
だが、もし妻の手紙であれば、読んだ後私は今日にできなくなる。
せっかく今日、お前に会いに行こうというのに。
「……うみ。」
私は読むべきだろうか。
ザザーン。ザブーン。
私は読まないことを出来なかった。
選択肢がひとつしか与えられないゲームのシナリオのように。
手紙をみた。
『その前に、自己紹介を書いていませんでした。
私の名前は田中海です。
住んでいるところが、大きな自然に囲まれた___』
私は二枚目を読み終わり、確信した。
この手紙は妻が書いたものである。
『きれいな海』だとか『おおきな山』など書かれたその場所はまさしく、妻が以前住んでいた所と似ていた。
いや、その一つ一つが妻の故郷と同じだった。
何より、この一面真っ青に染まった、『きれいな海』に私はいるのだから。
妻の手紙で間違いはない。
ザザーン。ザブーン。
そんな大切な場所で私はどうしたかったのか。
何をしようとしていたのか。
私は残る一枚の手紙を読もうか決めあぐねていた。
私は結局、最後まで妻のためにしてあげられたわけではないのだ。
正確には、最後の最後にして、妻に寄り添うことが出来なかったのだ。
私は右こぶしを固く握りしめ、うつむいた。
いつも、昔を振り返ることは避けるように過ごしてきたのだ。
そんな私にとって、この手紙はつらいものでしかなかった。
改めて、自分の不甲斐なさを突き付けられた気持ちになる。
不意に涙がこぼれた。
そう、この涙こそ、自分勝手な、不甲斐ない私の象徴なのである。
ザザーン。ザブーン。
妻はもうこの世にはいない。
私ははじめ、この事実を受け止められずにいた。
二十八歳。あまりにもあっけない幕引きだった。
私は現実から逃げるように、そんなことはあり得ないと唱え続けた。
それは妻が『若すぎたから』、『ずっと元気だったから』みたいな理由があったわけではなかった。
ただ単に私には、夢に逃げることしか出来ない、臆病者だったのだ。
そんな私だからこそ、最後の最後に許されることのない大罪を犯してしまったのだ。
私は、私は。
妻が亡くなってから、涙を流すことが出来なかった。
それは妻を愛していないわけではなくて。
ただ、現実から逃げる事しかしていない私は、涙を流す場所を無様にも見失っていたのである。
私は妻が亡くなり、そして葬式の日に至るまで、泣くことは無かった。
そんな自分の愚かさに気づいたときには遅いのである。
私がその後涙を流したのは、自分の情けなさ、不甲斐なさに気づいた時だった。
その時の私が流す涙は、自分のためだけを考えているエゴ以外何物でもなかった。
それ以来私は、生きている気がしなくなっていた。
そして時たま、『生きる』とは何かと考えるのだ。
どうして人は生きているのかと。
『守る人がいるから。』と誰かが言う。
ならば私はどうだ、守る人は失くしてしまった。
『幸せになるためだ。』と偉人は言う。
胸に抱えた業を持ってどうして幸せになれるというのか。
私はそんな風に自分の価値を探した。
そしてそのたびに私には何もないように感じるのだ。
妻を失くして、近々二十年が経つ。
もう、長く頑張った方ではないか。
ザザーン。ザブーン。
どのくらい私は葛藤していたのだろうか。
太陽が山の方に隠れていき、辺りが暗くなる。
私はきっと、また逃げようとしているのだ。
だが、私の中に一片、読むまではこの場を離れないという確かな意思が存在していた。
結局私は、読むこと決めたのだ。
二枚目をめくった。
『人生やりたいことリスト
1つ目:田舎をでて都会に出る。
2つ目:ケーキ屋さんになる。
3つ目:まず学校を卒業する!
4つ目………………』
私は予想外の内容に目を丸くした。
一体どんなことが書かれているのか見当はつかなかったものの、手紙と関係ない内容だとは思いもしなかった。
私は一つ一つその項目を読んでいく。
いくつかの項目には、文字の上から横線が書かれていた。
そして、
『9つ目:ボトルメールで誰かとつながる。』
私はその項目を見て、この手紙を納得した。
この手紙は入れる予定のない紙である、私はそう気づいたのだ。
『やりたいことリスト』というのは、文字通り、自分のやりたいことを書き上げたリストである。
そしてこの横線で書かれた項目は、すでに達成済みということである。
きっと若き頃の妻は、手紙を出す際、間違ってこの紙も入れてしまったのだろう。
私はそんなうっかり屋さんの若き妻を想像して、笑みがこぼれた。
あんなに悩みぬいて読むと決めた手紙は、想像していたものとの大きな差に、さっきまでの自分がどうでもよく感じてしまっていた。
今までの私が滑稽に思えたのだ。
その項目は全部で27もあった。
中には、『宇宙に行きたい』なんて大きな野望まで書かれている。
妻が書きそうなことではあった。
そしてそんな中に、私はふと目を止めた個所があった。
『18:結婚する』
もちろん、その項目には横線は引かれてはいなかった。
ただ私はその文字を見つめ、後ろめたく思うのである。
どうして、私が生きているのだ。と。
こんなにも多くの目標を持った彼女こそが、私の代わりに生きるべきではないかと思うのだ。
私は懐からペンを取り出した。
そして私は、『結婚する』に横線を入れるのである。
妻はもう、それは達成したのだから。
そして私はほかに未達成の項目に、また一度目を通した。
『田舎を出て都会に行く』横線を入れる。
『海外に行く』横線を入れる。
『二十歳になってお酒を飲む』横線を入れる。
いくつか妻の代わりに横線を入れた。
そして私は最後の項目で手が止まっていた。
『27:誰かを救うヒーローになる』
私は少し悩み、そしてそれにも横線を引いた。
そしてゆっくりと、暗い海を眺めた。
「うみ。うみ………。」
私は妻の手紙を懐に入れ、代わりに三枚の白紙を持った。
そして私はペンをなぞらした。
『初めまして。
お手紙読みました。私は元気です。
そして残念ですが、私はあなたが思うようなすてきな人ではありません。
あなたのいった、ただのおっさんです。
田中 海さんですよね。とても素敵な名前ですね。
こんな時代にこんな手紙を拾うなんて、私はとても感動しました。
私もあなたに一度お会いしてみたいです。』
一枚目が終わった。
そして二枚目。
『そうでした。私も名前を言っていませんでしたね。
私の名前は、佐藤 樹です。
そして住んでいるところが____』
私は思うまま、妻の手紙のように書いていた。
二枚目が終わると三枚目に変える。
そしてまず上に、『やりたいことリスト』と、これまた同じように書いた。
そこで、私は手が止まった。
私のやりたいことは何だろうと。
「………。」
私の手は、自然に動いていた。
何も思うことなく、私の願望が書きだされた。
『1つ目:君に会いたい。』
それが私にとってのすべてだった。
私はまた涙を流していた。
「うみ……うみ。あいたい。」
と大の大人が無様にも肩を震わせていた。
この涙も又、私にとってエゴなものだろうか。
なあ、海。こんな私をみて、君は何を思うだろうか。
こんなになってしまった私を見下すだろうか。
海。君がいないだけで私は生きるのが苦しい。
いつから私のすべてに、君がいたのかわからない。
なにもかも、わかりたくない。
ザザーン。ザブーン。
私はこれ以上にリストを増やすことは無かった。
三枚の紙を丸めて、私は瓶の中に入れコルクで蓋をする。
それから懐から、妻の手紙と封筒を取り出した。
『遺書』。そう書かれた封筒の中に妻の手紙を入れ、また懐に戻した。
そして、瓶を持つ。
「あの、ずっとここにいたんですか。」
海を眺める私の背後から、誰かが声をかけてきた。
「あと、これ落ちていましたよ。」
それは、朝方私に声をかけてきた女性だった。
女性は私が飛ばした紙飛行機を持っていた。
私は受け取り礼を言う。
女性は私の顔を覗き込むようにした。
「絵は、完成されましたか。」
それを聞いた私は朝方、女性に言ったことを思い出した。
「いや、今日はまだ。絵の具を忘れてしまって。」
とっさに言い訳をする。
「それじゃあ、ずっと何をされていたんですか。」
「……。」
私は返答に困った。
そこで自分の手に持つ瓶に気づいた。
私は女性に手紙の入った瓶を見せる。
「手紙を、海になげようと思いましてね。」
「ボトルメール?ですか。」
「そう。」
「なかなかロマンチックなんですね。」
「たまたま手紙を拾いましてね。返答を描こうと思いまして。」
「手紙はなんて書かれていたんですか。」
「………。」
私は少し言葉を止める。
ザザーン。ザブーン。
「秘密です。」
私がそういうと、女性は「そうですか。」と微笑む。
私はこれ以上何か言われることを避けるため、瓶を海に投げた。
ぽちゃん。
海は暗くて、どこに落ちたかはわからなかった。
だが確かに、その音が海に着いたと知らせてくれた。
「手紙、届くといいですね。」
女性は言った。
「絶対に届きますよ。」
私は答える。
それから少しの沈黙を過ごし、女性は切り出した。
「そういえば、靴はどうなされたんですか。」
「……ああ。そう。靴を子供たちに隠されてしまいましてね。」
「……あの上の方に、たぶん、あなたの靴がありましたよ。」
女性は私が朝いた崖を指さした。
「そうですか。ありがとうございます。これでやっと帰れます。」
女性は私に対してなにか言いたげな顔つきだったが、何も言わず微笑んでいた。
「そう。帰るんですね。気を付けてくださいね。あの崖、ほんとに危険ですから。」
女性は最後まで私に対して優しいままだった。
私は女性に軽い会釈をする。
「大丈夫です。靴の置き場所も見つかりましたから。」
そして私はその場を離れた。
ザザーン。ザブーン。
崖の上。靴を回収する。
恐る恐る見下ろせば、まだ女性は砂浜にいるようだった。
私は靴を履いて、足元に女性からもらった水があることに気づいた。
そういえば、朝から何も口にしていなかった。
私は500ある水を一気に飲み干した。
そして、空を眺める。
雲一つない夜空には、綺麗な星がいくつも輝いている。
私は、空に向かって右手をのばした。
「……うみ。」
私はこれから何をして生きていこうか。
私はまぶたを閉じ考える。
そして深い深呼吸のあとに、こう考えるのだ。
そうだ、宇宙にでも行ってみようか。
きっと長い旅になる。
そう思いながら、私は家に向かった。