6 ふたりの約束
正殿の外に出て、衛士たちに付き添われて東宮殿に戻っていくイチを見送ってから、千尋が不機嫌な声で言った。
「糸、正式に婚約するんだから、もうやめてよね」
糸は首を傾げた。
「何を?」
「やたらと身分違いを強調してわたしを試すようなことするの」
糸はムッとして答えた。
「別に試してなんかないよ。身分が違うのは本当なんだから、千尋も少しくらい付き合って一緒に盛り上げてくれても良かったのに」
「何のために? わたしたちの両親がそれを理由に反対するはずないのに」
「うちの父上は渋々だったよ」
「それは身分や相手がどうこうじゃなくて、糸が結婚すること自体が嫌なだけだろう」
「そもそも、千尋が肝心なことを何も言ってくれないのが悪いんだからね」
「言わなくても、糸はわたしの気持ちなんか昔から全部わかってただろ」
「わかってたよ。千尋はわかりやすいんだもん。だけど、わかってるはずだからって何も言わないのはずるいよ。千尋はわたしの言葉で喜んでたくせに」
「だから、殿下まで引っ張ってきたの?」
「イチは向こうから勝手に来たんでしょう。千尋もそう言ってたじゃない」
「でも、殿下とずいぶん盛り上がってたよね」
「わたしは身分違いの恋で盛り上がりたかったんじゃなくて、千尋と盛り上がりたかったの。頭良いのに何でそれがわからないの?」
カッとした気持ちのままに糸が言葉を吐き出すと、千尋がシュンとしたのがわかった。
「……ごめん」
「やっぱり婚約するのやめようか」
糸がそう言うと、千尋は慌てて答えた。
「嫌だ。絶対する」
「何で?」
「糸が好きだから」
千尋が正しい答えを口にしたので、糸は少しだけ気持ちが晴れた。
「そうやって、いつもちゃんと言ってくれればいいのに」
糸が物心ついた頃から、千尋はいつもそばにいた。
母が糸にしてくれるように、糸が千尋に絵本を読んであげると喜んだ。だが、その後あっという間に千尋は自分で絵本を読めるようになった。
千尋は本を読むことが好きだった。それなのに、糸が外に出れば本を抱えてついてきて、糸の姿が見えるところでそれを開いた。
ある時、もし自分がいなくなったら千尋はどうするのかと考えて糸はそっと離れようとしたが、千尋はすぐに気づいて追いかけてきた。それを繰り返しているうちに、糸も千尋も駆け足が速くなった。
千尋は糸より先に漢字を覚え、難しそうな本を読むようになった。たくさんの知識を身につけて、糸がわからないことを聞くと教えてくれた。糸がそれを凄いと褒めると、ますます本を読んだ。
可愛らしい顔立ちの千尋が自分の言動で一喜一憂するので、糸はさらに可愛く思った。
それを最初に口にしたのは、千尋の母だった。
「ねえ琴子、将来糸を千尋のお嫁に貰ってもいいかしら?」
「少し気が早すぎない?」
糸の母は戸惑った声で言った。
「糸は可愛いから年頃になればすぐに相手が決まってしまいそうだもの」
「私は千尋が相手なら安心だけど、糸の気持ちしだいね」
「それはそうよね。とりあえず、第一候補ということでよろしくお願いします」
その時の糸にはふたりの母たちの会話の意味はよくわからなかったが、隣の千尋を見ると真面目な顔をしていた。
小学校に入る少し前のこと。糸はこっそり皇太子殿下の執務室に行った。母に見つかれば叱られるが、見つからなければ父が母に告げ口をすることはなかった。
だがその日、戸を開けて中を覗くと部屋の中にいた衛士は父ではなかった。がっかりした糸に、殿下は苦笑しながら言った。
「朔夜は休憩中だ。しばらくすれば戻るから待っておれ」
「はあい。殿下、千尋も連れて来たよ」
糸はそう言いながら、しっかり掴んでいた千尋の手を引いて中に入った。千尋はいつも糸が東宮殿に忍び込む時には外で本を読んで待っていたのだが、この日は強引に引っ張ってきたのだ。
千尋が殿下に向かって礼をとり挨拶したので、糸も慌てて真似た。
息子の姿を見た千尋の父がわずかに眉を顰め、千尋もすまなそうな顔をしていた。
「たまには良いではないか。糸、千尋、こちらに参れ」
殿下が取りなすように言って、手招きしてくれた。千尋の父は嘆息しただけで、何も言わなかった。
殿下の示した場所に座り込んだ糸と千尋を見ながら、殿下はそれを口にした。
「相変わらずふたりは仲が良いな。あと何年かたてば、結婚すると言い出すのではないか? 真雪、糸は千尋の妻にどうだ?」
「当人同士が望むなら糸を嫁にするのは構いませんが、そこについてくる父親が面倒ですね」
千尋の父が答えると、殿下は目を細めて笑った。
「確かに糸が結婚となれば、嫁に行こうが婿を取ろうが朔夜は相当気落ちするであろうな」
この時には、糸にも殿下と千尋の父の会話の意味は何となくわかった。糸が隣の千尋の顔を見ると、真剣な表情で父たちの話を聞いていた。
「千尋、糸と結婚したいの?」
糸が千尋にそう訊くと、千尋は糸のほうを向いてコクリと頷いた。
「じゃあ、結婚してあげる」
糸が言うと、千尋は眼を輝かせてもう一度頷いた。
「もう纏まってしまったな。だが、しばらく朔夜には内緒にしておいてやれよ」
殿下が可笑しそうに笑い、千尋の父も口元に笑みを浮かべていた。
東宮殿の庭でずっと糸を追ってきていた千尋が、小学校にまでついてきたのはさすがに糸も驚いた。
母たちに言われたように登校時に千尋としっかり手を繋いであげると、嬉しそうだった。そのくせ、なぜ小学校に入るのか尋ねた糸に、千尋は糸と一緒にいたいからだとは答えなかった。
千尋は勉強ももちろんできたが運動も得意で、特に糸の父仕込みの剣術は誰にも負けず、ゆえに貴族でありながら士族の多い小学校でも皆に一目置かれることになった。
千尋は糸のためなら相手が祖父だろうと官吏だろうと平気で真正面から声をあげたし、3つ歳上のイチともぶつかった。一方で、妹の千晴には糸を姉と呼ぶよう躾けた。
なのに、千尋は糸に対してちっとも素直な言葉を口にしなかった。千尋の態度や表情を見ていれば千尋の気持ちは疑いようがなかったが、糸は不満だった。
やがて千尋が小学校を卒業したら大臣の息子として、大きな屋敷に住むことになった。
今でも仲の良い両親のように自分たちも身分の違いという障害に直面すれば、千尋はもっと糸がほしい言葉をくれるかもしれない。糸はそう考えた。
しかし、千尋は糸が身分違いを口にしても不機嫌そうに否定するだけで、糸はますます不満だった。いつの間にか、自分のほうが千尋の言動に一喜一憂させられているように感じた。
千尋が官吏になれば結婚することになるのだろうが、糸はそれまでに千尋の口からはっきり言わせたいと思っていた。
「そう言えば、千尋に聞きたいことがあったんだけど」
玄武門へと向かいながら糸は言った。
「何?」
「いつかわたしに母上みたいになれって言ってたよね。あれって、どういう意味で言ったの? 衛士の妻になって女官をやればいいってこと?」
「わたしの糸の母上に対する認識は、夫を愛し愛される幸せな妻、なんだけど間違ってる?」
「間違ってないけど、すごく遠回しな言い方だね。それじゃ全然伝わらないよ」
「だけど、わたしも糸が望むなら衛士になってもいいし、糸の家に婿に行ってもいいと思ってる。もちろん糸が女官になりたいならそれも構わないよ」
「千尋なら衛門府に入ってもやっていけそうだけど、やっぱり官吏のほうが千尋には合ってる気がする」
「わたしもそう思う。なら、糸、わたしが官吏になるまで2年と少し、ちゃんと待っててよね」
「出仕は2年後って決めてるの?」
「春から官吏養成所に入るから、卒業して官吏になれるのが2年後になる」
糸は目を見開いた。官吏養成所は皇宮からそう遠くない場所にあるが全寮制で、自由な出入りは許されていないはずだ。
「どうして? 大臣の息子は官位を貰えるはずでしょう」
「自分の力で官吏になるのが父上との約束だから」
「そんなの聞いてない」
「ごめん。言えなかった。糸はきっとそういう顔すると思ったから。屋敷に引っ越すって知った時だけは本当に淋しそうだったし」
「千尋は平気なの?」
「平気じゃないよ。だから、さっさと行ってすぐに糸のところに戻ってくる。休暇には必ず帰るし、手紙もたくさん書くよ」
「絶対だよ。あんまり放っておいたら浮気するからね」
「……糸、今の状況をちょっと楽しんでない?」
糸は唇を尖らせて千尋を睨み、それから再び口を開いた。
「休暇に帰ってこなくていいし手紙も要らないから、絶対に2年で帰って来てね」
「2年も会えないのはわたしのほうが無理だよ」
千尋は哀しそうに言った。
「あ、もうひとつ。千晴がお屋敷にはわたしの部屋もあるって言ってだけど、いつになったら見せてくれるの?」
「それは、2年後かな」
「ふうん」
今でもふたりで歩くときにはしっかり糸と手を繋ぐ千尋は、今ではもう糸より拳ひとつ分も背が高くなっていた。
その日のうちに糸と千尋は婚約することを千尋の母と糸の西の祖母に報告した。
当然どちらも驚くこともなく喜んでくれて、ふたりの身分の違いについては触れられもしなかった。
「でも、まだお祖父さまたちがいるから。わたしのお祖父さまと千尋のお祖父さま、仲悪いんだよね」
「だから、なんでそれを嬉しそうに言うの」
千尋は呆れたような顔をした。
半月後、いつも親子3人で訪れていた東の祖父の屋敷に、婚約の報告のために初めて千尋が同行した。
未だ娘の婚約を受け入れきれていない父の姿を見て、祖父は意地悪そうな顔で「いい気味だ」と笑った。が、直後に目の前にいる孫娘の婚約者の正体を知ると、目を剥いた。
「小笠原の孫との結婚など、許せるか。今すぐ出て行け」
母や祖母、叔母らの取りなしにも祖父は耳を貸さなかった。
「お祖父さまが千尋を追い出すと仰るならわたしも一緒に出ていって、もう二度とここには来ませんが、お祖父さまはそれをお望みなの?」
糸ができるだけ哀しそうに見える表情でそう言うと、祖父は言葉に詰まり、最後には嫌々ながら認めてくれた。
糸は千尋とふたりで庭に出た。
「これが例の池だね」
池のほとりに立つと、千尋が言った。
「まだそれ言うの?」
「だって、わたしの一言で糸が池に飛び込んだって聞いて、糸のそばにいるためには知識ばかりあっても駄目だなって思ったから、わたしは糸の父上に剣術を習うことにしたんだよ」
「へえ、そうだったんだ」
それからしばらくたって、糸は千尋とふたりで千尋の祖父の屋敷を訪ねた。
すでに千尋の母からふたりの婚約を報されていた祖父は、歓迎こそしなかったものの、門前払いするようなこともなかった。
「好きにすればいい」
そう言われたので、とりあえず糸は礼を述べた。
帰ろうとふたりで外に出た時、糸は庭に女性がいるのに気がついた。千尋の母に似ていたので、それが千尋の伯母であることはすぐにわかった。
糸は考えるより先に駆け出した。
「え、ちょっと、糸」
後ろから千尋の声が聞こえたが、そのまま伯母のところまで足を止めなかった。伯母は突然目の前にやって来た糸に驚いた様子だった。
糸は丁寧に礼をした。
「初めまして。ごきげんよう。千尋の婚約者の松浦糸と申します」
「いきなり何なの。苑子が嫁に選ぶだけあって、ずいぶんはしたない娘ね」
伯母はきつい目つきで糸を見た。顔形は似ていても、纏う雰囲気は千尋の母とまったく違っていた。
「きちんとご挨拶した糸に対してそんなことを仰る伯母上のほうが恥ずかしいと思います」
糸を追ってきた千尋がふたりの間に立って言った。伯母が冷たく千尋を見つめた。
「それならば、おまえも私に挨拶をするべきではないの?」
「母から伯母上には無理に挨拶する必要はないと言われておりますので」
「まあ、馬鹿にして。二度と顔を見せないでちょうだい」
「はい。仰るとおりにいたします」
ふたりに背を向けて伯母が去ると、糸は千尋を見た。
「わたし、余計なことしちゃった?」
「それはいいけど、急に駆け出さないでよ。また飛び込むつもりかと思った」
よく見れば、少し先に小さな池があった。
「そんなことするわけないでしょう」
「いや、糸は危なっかしいから離れるのが不安だよ」
千尋が溜息を吐いてみせるので、糸はムッとした。
書庫へ行く千尋について糸が久しぶりに東宮殿に行くと、イチが現れた。
イチはニヤリと笑って言った。
「千尋、そなた糸を置いて養成所に入るらしいな?」
「はい。殿下はわたしがいなくても糸に近寄らないでくださいね。負けたのですから」
千尋が涼しい顔で言った。イチはしばし千尋を睨みつけてから、口を開いた。
「真雪はずいぶんそなたに厳しいな。まるで鬼だ。いや獅子か」
「そんなことありません。父は官吏になりたいなら養成所に行けと言っただけですから。つまり、官吏にならなくても構わないということですし、首席で卒業しろとも言われてません」
「獅子の子は獅子か。ところで、いつの間に入試を受けたんだ?」
「それはまだです。弥生になってからなので」
「ならば、まだ入れるかどうかわからないではないか。養成所の入試はかなりの難関なんだろう」
「わたしは必ず合格します」
「では2年後に無事卒業したら、東宮殿に迎えてやるからありがたく思え」
「それはお断りします」
「何でだよ」
「今の殿下では仕える主としての魅力がまったくありませんので」
「そんなことを言って、2年後に後悔しても知らないからな」
噛みつく勢いで言ったイチに対して、千尋はフッと笑った。
「ええ、是非わたしを後悔させてください」
東宮殿を出てから、糸は口を開いた。
「あのね、うちの父上は昔、衛門府の剣術大会で5連覇したんだよ」
「知ってるよ。そのあとは陛下にもう出るなって言われたんでしょ」
「うん。最初に優勝したのは結婚前だったけど、そのほかの4回はいつも母上のために勝つって言って、本当に優勝したんだって。5連覇目のときわたしはまだ2歳だったから、全然覚えてないんだよね」
「ああ、わかった。糸のために首席で卒業するよ。これでいい?」
「色々余計な言葉が入ったけど、まあいいか。首席じゃなかったら、婚約解消ね」
糸はにっこり笑って告げた。
「父上より糸のほうがよっぽど鬼だよ」
千尋は眉を顰めた。