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4 縁

 前もって聞いていたように正殿寮の部屋も東宮殿寮の部屋とあまり変わらぬ造りで、荷物を入れてしまえばすぐに馴染めそうだった。

 皇陛下の即位、立后、立太子と2日間に渡って行われた各儀式や祝宴、さらに上皇陛下と皇太后陛下の南の離宮へのご出立と、皇宮内各所での引っ越し。それらがとりあえず終了し、父と母もようやく寮の部屋に帰ってきた。

 糸の父は例の素鼠色の近衛の隊服を着ていた。

「やっぱり、どうせ隊服を着るならもっと派手な色のほうがいいのかも」

 玄関で出迎えた糸は、腕を組んで父の姿をじっくりと眺めながら言った。

「紅とか?」

 隣に立った母が言うのに、糸は頷いた。

「うん。紅、似合ってたよね」

「近衛より朱雀門のほうがいいということ?」

 父が困った顔をするのに、糸は首を振った。

「それは駄目。父上は殿下、じゃなくて陛下のお側にいないと」

 父は久しぶりに帰ったのに娘に飛びついてもらえなかったので哀しそうな様子を見せつつ、先に母を抱きしめてから糸のことも抱きしめた。そこで糸はいつもと異なる感触に気づいた。

「あれ、これって絹なんだね。ほかの隊服は綿だよね」

「うん。まさかお役目で絹を着ることになるとは思ってなかったよ」

 父が沈鬱な顔になると、母は励ますように言った。

「羽織がどんなものであっても、あなたはあなたのお役目を果たすだけではありませんか」

「はい。琴子の言うとおりです」

 新しい近衛隊は父を含めて8人。3人は前の皇陛下の近衛からの留任で、そのうちのひとりが隊長に指名された。あとの4人は陛下が東宮殿守護隊から引き抜いてきた衛士で、その中には樹もいる。

 夕食のあとで、糸は尋ねた。

「ねえ、父上。今日、千尋の父上と何か話した?」

 千尋の父は式部大臣になったと、糸は千尋から聞いていた。

「いや、真雪は陛下の執務室にはあまり来ないし、会っても忙しそうだから話してないな。どうして?」

「離れちゃって淋しくないかと思って」

「この数日、糸や琴子にほとんど会えなかったことのほうがよっぽど淋しかったよ」

 父は糸の頭を撫でながら言った。

「ふたりはそうでもなかったみたいだけど」

 そう付け足されて、糸はどうやら父がまだ拗ねているらしいと気がついた。やはり出迎えていきなり隊服の話を始めてしまったのは良くなかった。

 母が微笑みながら父を見た。

「私も糸も、朔夜にやっと会えた安心感でついはしゃいでしまったのですわ。ね、糸?」

「うん。父上、会いたかった」

 糸が改めて父に抱きついたので、父は機嫌を直してくれた。


 一月後、千尋の母は女官を辞し、千尋の家族は屋敷へと移っていった。

 糸は夜には再び母から講義を受けるようになっていた。

 さらに、東宮殿の寮にいたときには係の者に任せていた部屋の掃除をできるだけ糸がするよう言われた。

 西の祖母の家に家事を習いに行った帰りには、千尋の屋敷も訪ねた。

 屋敷の前に立つ門番は糸の顔をすぐに覚えて、特に取次ぐこともなく中に入れてくれるようになった。家令や侍女たちも、たびたび屋敷にやって来る士族の娘をいつも丁寧に迎えてくれた。

 千尋の母は今までどおり糸を家族の居間に通した。千尋もたいてい屋敷にいて、千晴とともに姿を見せた。

 千尋が本を読む横で、糸は母から与えられた課題に取り組み、わからないところは千尋に質問した。時には千晴と遊び、一緒に昼寝をした。

 帰りは千尋が寮まで送ってくれた。

「このままでいいのかな?」

 糸はポツリと口にした。

「何が?」

「身分の違うわたしたちが、いつまでもこんな風にしていて」

「別にいいと思うけど」

 千尋は不機嫌そうに言った。


 ある日糸が部屋で掃除をしていると、部屋の戸がドンドンと叩かれた。嫌な予感を覚えながら糸が戸を開けると、やはりイチだった。

 糸はいつもどおりに言葉を発しかけ、だが思いとどまって礼をとった。

「何でそなたはちっとも東宮殿に来ないんだ」

 イチ、もとい皇太子殿下が糸を睨みつけて言った。

「特に伺う理由がございませんので」

「わたしに会いに来いよ」

「私は気軽に殿下にお会いできるような身分ではありません」

「その話し方は何だよ。今までどおりイチって呼べよ」

 糸は溜息を吐いた。

「皇太子殿下になったくせに何してるの? ひとりでここまで来たの? 早く東宮殿に帰りなよ」

「父上と母上にご挨拶した帰りに寄った。糸も一緒に東宮殿に来い」

 つまり、正殿までついてきたはずの者たちを巻いてきたのだろう。

「わかった。送ってあげる」

 糸は仕方なく外に出た。

「イチも千尋の父上みたいな秘書官とうちの父上みたいな護衛についてもらったほうがいいんじゃない? こんな風にひとりで抜けだせないように」

「簡単に言うな」

「簡単だとは思ってないけど、イチには必要だよ」


 東宮殿の近くまで来ると、やはり騒ぎになっているらしいのがわかった。

「ほら、早く戻って謝りなよ」

 糸はそう言ってイチを裏門へと押しやり自分は踵を返そうとしたが、イチに手を掴まれた。

「逃げるなよ」

「放してよ」

 そうこうしているうちに裏門にいた衛士たちがイチと糸に気づき、慌てて駆け寄ってきた。そのままふたりは衛士たちに囲まれて、門の中へと連れていかれた。

 中に入るとさらに多くの者たちが集まってきた。その中には怒ったような顔をした千尋もいた。

 千尋は衛士たちを掻き分けるようにして糸のそばまで来ると、イチの手を糸から引き剥がした。イチは掴み直そうとしたが、それより早く千尋が糸の手を引いた。イチは千尋への恨み言を叫びながら東宮殿のほうへと流されるように運ばれていった。

「はあ、助かった。千尋、ありがとう」

 人々に取り残される形で裏門近くに留まった糸は、ホッとして千尋に笑いかけた。だが、千尋の表情は変わらなかった。

「なんで殿下とふたりでいるの」

「だってイチ、殿下が家まで来ちゃったんだもん。殿下をひとりで帰らせるわけにもいかないでしょ」

「まだイチって呼んでるんだ」

「殿下って呼んだら煩いから、面倒になったの」

「ふうん」

「千尋こそ、わたしには来るなって言ったくせに、自分は来てたんだね。わたしは除け者にして、イチと仲良くしてたの?」

「書庫に本を借りに来ただけだよ。とにかく、もう帰ろう」

 糸と千尋が裏門へと歩き出したところで、再びイチの声が聞こえてきた。振り返ると、イチが文官の手を振り切ろうとしているのが見えた。

「殿下の秘書官だよ」

 千尋がボソッと教えてくれた。

「秘書官いたんだ」

「陛下がとりあえず付けたみたい」

 イチは秘書官の手を逃れて、ふたりのほうへと駆けてきた。

「千尋、どうせそなたが糸におかしなことを言ったのだろう」

「おかしなこととは何でしょうか?」

 千尋は涼しい顔で尋ねた。

「東宮殿に来るなとか、わたしに敬語を使えとか」

「そのような当然のことなら言いましたが」

 イチが言い返す前に、追ってきた秘書官がイチを捕らえた。「放せ」というイチの言葉を無視して、秘書官はギロリと糸を見下ろした。糸は丁寧に礼をとった。

「おまえが松浦糸か。なるほど、噂どおりだな」

 糸が目を瞬きながら見つめ返すと、秘書官はさらに口を開いた。

「非常識な父親と恥知らずな母親の間に生まれた、貴族の皮を被った士族の娘」

 イチが目を見開き、口もあんぐりと開いた。

「糸の両親の結婚は陛下がお認めになったものです。あなたは陛下の御前でも同じことを言えるのですか?」

 千尋が強い調子でそう言うと、秘書官は鼻で笑った。

「陛下に認めてもらわねばならなかった結婚だから、非常識で恥知らずだと言うのだ」

「黙れ。そなた、糸に何を言うか」

 イチが噛みつきそうな顔で言った。糸は小さく息を吐くと、まっすぐに秘書官を見上げた。

「確かに、私の父は非常識でございます。叱言を言う母の顔を見つめて可愛いなどと呟くのですから。それに、今だに鍛錬中の父の姿をうっとりと眺める母は、恥知らずと言われても仕方ありません」

 糸はにっこりと微笑んだ。

「私の顔が母に似ていて一番喜んでいるのは父ですし、私がやはり父の娘だと言われるたびに母は嬉しそうに笑います。両親の仲が良すぎて娘の私が恥ずかしい思いをさせられております」

 秘書官は呆気に取られたように糸の顔を見ていたが、ハッと我に返ったように言った。

「とにかく、おまえみたいなただの衛士の娘が皇太子殿下のおそばをうろつくな」

 それだけ言い捨てて、秘書官は東宮殿のほうへとイチを引きずるようにして戻っていった。


 裏門を出てから、糸は千尋に言った。

「さっきの母上には言わないでね」

「うん。言わないよ」

「どこの誰かもわからないような人にあんなこと言ったなんて知られたら、また叱られちゃう」

「そっちなの?」

「身分違いの結婚をすればああいうことは珍しくないよ。千尋だってあるんじゃないの?」

「父上のことはたまに言われるけど、あんな酷いのはない」

「うちもわたしや母上はそれほどでもないけど、多分、父上は色々言われてると思う」

 糸が幼い頃、父とふたりで皇宮内を歩いていると、すれ違いざまに言葉を投げかけられるようなことがたびたびあった。その意味はわからなくても、子供ながらに表情や声から相手の悪意は感じとれたものだった。

「いつか父上にどういう意味か訊いたら、糸が母上に似てあんまり可愛いから羨ましいって意味だよって言ってた」

「ずいぶん好意的な解釈だね。糸の父上らしいけど」

「でも、父上は母上と一緒にいられることが一番大事って人だから、何を言われてもあんまり気にしてない感じなんだよね」

 千尋の顔がわずかに歪んだので、糸は敢えて明るい調子で続けた。

「別に、千尋が落ち込まなくてもいいのに。あ、それとも、身分の違うわたしと仲良くするの嫌になった?」

 千尋はキッと糸を睨んで手を掴んできた。

「そんなわけないだろ」

 糸は微笑んで、千尋の手を握り返した。

「でも、陛下が主だった時の東宮殿は多分すごく温かい場所だったんだよね。陛下がちゃんと守ってくださってたから」

「そうだね」


 しばらくして、糸は皇陛下に呼び出された。と言ってももちろん私的なもので、中宮殿の庭で会うことになった。

 当日、糸が久しぶりに目見えた陛下の後ろに立つ近衛は父ではなく、つまり、父には聞かせたくないような話をするのだと糸にはわかった。

 礼をとった糸に対し、陛下はにこやかに口を開いた。

「元気そうだな、糸」

「はい。すべて陛下のご厚情のおかげにございます」

 糸が淑やかにそう口にすると、陛下は笑い出した。

「以前のままでよいぞ」

 糸は唇を曲げた。

「せっかく練習してきましたのに」

「そなたがいざとなれば琴子のように完璧な姫君にも化けることはわかっておる。今日は楽にせよ」

「はあい」

 そこで、陛下は表情を改めた。

「ところで、先日、東宮殿で恥ずべきことがあったらしいな」

「やはりご存知なのですね」

「東宮がつけたばかりの秘書官を替えろと言ってきたので、理由を尋ねたのだ」

「あの方は殿下の秘書官としては当然のことを仰ったのだと思います。ただ、余計な前置きが少し長かっただけで」

「なるほど。東宮には、秘書官の言動は上に立つ者の責任だと言っておいた。東宮の望むままにしてばかりでは、あれ自身のためにもならぬからな」

 糸は同意して頷いた。

「だが、東宮殿はそなたにとっても故郷のような場所のはず。そなたが安心して訪ねることができぬようでは困る。ゆえに、秘書官にも密かに真意を質した」

「お心遣いありがとうございます」

「どうやら、あの者は昔、琴子に懸想しておったようだな」

「……はあ?」

「どこで琴子を見たのか知らぬが、まあ機会はあったであろうな。それで、わたしの妃に選ばれなければ縁談を持って行くつもりだったのが、その前に朔夜に奪われてしまったというわけだ」

 陛下が少し楽しそうな顔になった。父を連れてこなかったはずだと、糸は納得した。

「琴子によく似たそなたを見て頭に血が上っていたところに、士族のそなたが貴族の姫のような振る舞いをするものだから驚いたようだ。今は冷静になって、そなたに謝りたいと言っておる」

 糸は思わず眉を顰めた。

「無理にではない。一度口にした言葉は戻せぬからな」

「正直に言いますが、わたしはもう秘書官どのの顔を忘れてしまいました。なので、わざわざまたお会いしたくはありません」

「わかった。それから、これは聞き流して構わぬのだが、糸を息子の嫁に迎えたいそうだ」

「絶対に嫌です」

 もう一つ父には聞かせたくない話があったのかと思いながら、糸はきっぱりと答えた。

「そんな顔をするな。もちろん、その場で無理だと言っておいた。糸には相思相愛の婚約者がいるからと。誰とは言わぬがな」

 誰と聞かなくても、先日の状況を考えればあの秘書官は千尋のことだと思うのではないだろうか。

「父親として一応確認しておきたいのだが、そなたは東宮の妃になるつもりはないのだろう?」

「はい、まったく」

「即答か」

「申し訳ありません」

 悪びれずに糸が言うと、陛下は苦笑した。

「いや、わかっておったから気にするな。年明けには皇女の学友が集められて、2、3年も経てばそこから東宮妃が選ばれることになる。過ぎてしまえばあっと言う間のことゆえ、もうしばらくは東宮にも付き合ってやってくれ」

「はい」

「東宮殿にいた者たちは我が子とも思っておったが、糸などはどちらかと言えば孫に近いのかもしれぬな。国の父となったのだからすべての民に等しく心を傾けねばならぬが、やはり孫は可愛いものだ。今後も何かあればすぐに申せよ」

「ありがとうございます」

 糸はにっこり笑って礼をした。

 その後、皇后陛下とともに庭に出てきた母に何の話をしたのかと訊かれ、糸は答えた。

「陛下が孫に会いたくなったんだって」

 母は目を瞬いてから、可笑しそうに笑った。

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