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3 継承

 小学校を卒業した糸は夜には母の講義を受け、昼間は母から出された課題をこなしたり、西の祖母の家に家事を習いに行くことになった。

 課題のひとつとして本を読むようにと数冊渡された。卒業の翌日、そのうちの一冊を読み始めたが、部屋にひとりでいても集中できず外に出た。

 東宮殿の門前で入門許可証を出そうとすると、そこにいた衛士に「何してるんだ。早く入れ」と言われ、結局いつもどおりに通り抜けた。

 東宮殿の中庭に行くと、木陰に先客がいた。

「千尋」

 糸が声をかけると、千尋は読んでいた本から顔を上げた。

「珍しいね。糸が読書なんて」

「これからはたくさん本を読むの。そしたら、いちいち千尋を頼らずに済むでしょ」

 そう言って糸は胸を張った。

「ふうん」

 千尋はつまらなそうな顔をして、再び目を本に戻した。糸もその隣に腰を下ろして本を開いた。

 糸が紙の上に並ぶ難解な文章とひとり格闘していると、ふいに千尋が話しかけてきた。

「ねえ、近衛の隊服の色は知ってる?」

「近衛に隊服があるの?」

 思わず糸が千尋のほうを見ると、千尋は嬉しそうな顔になった。

「その本に書いてあるといいね」

「何それ。千尋、教えてよ。て言うか、近衛って隊なの?」

「そこから?」

 千尋は呆れたように嘆息した。

「じゃあ、本物を見に行こうか」

 そう言うと、千尋は立ち上がって歩き出した。糸も慌てて後を追った。

 裏門のほうへ向かうと、御学問所の窓からイチが顔を出した。

「おい、小学校はどうしたんだよ」

「卒業したの」

 糸が答えるのを遮るように、千尋が言った。

「糸、早く行こう」

 千尋は糸の手を取ると駆け出した。糸は昨日が最後ではなかったのかと目を瞠った。後ろから「待て」というイチの声と、イチを咎める博士の声が聞こえてきた。


 東宮殿の裏門を出て足を緩めてからも、千尋は糸の手を握ったままだった。

「ねえ、もう小学校卒業したんだから手を繋ぐことはないんじゃないの?」

「だって、糸は危なっかしいから」

 糸は少しムッとして、だがすぐに気を取り直して千尋に尋ねた。

「それで、近衛は隊なの?」

「そうだよ。と言っても、多くて7、8人くらいかな。東宮殿では糸の父上と守護隊の衛士たちが協力して殿下をお守りしているけど、正殿では守護隊と近衛でお役目がはっきり分かれてるんだ」

「何で違うの?」

「近衛が正確にはいつから置かれていたのかわからないけど、衛門府よりも歴史が古いのは間違いない。国の法には、近衛は常設のもので皇陛下が任命すると明記されている」

 糸はふむと頷いた。

「皇太子殿下の護衛はもともとは近衛のお役目のひとつだったのが、衛門府ができて東宮殿守護隊に引き継がれた。その後、ある御代の皇太子殿下が特に信頼の厚かった衛士を常に側に置くようになったことが専属護衛の始まりだ。法に書かれてはいないから、誰にするかはもちろん、専属の護衛を持つかどうかも殿下自身に任されている」

「へえ。なら、殿下が護衛を置くと決めて父上を選んでくださったのは、父上にとってすごく運が良かったんだね」

「ちなみに、衛士の中から糸の父上を見つけてきたのはうちの父上だったらしいけど」

「そうなの? 今度会ったらお礼言わなきゃ」

「でも、糸の父上が殿下の護衛になって糸の母上と出会えてなかったら、うちの両親が結婚することもなかっただろうし、そしたら糸もわたしも今ここにいなかったことになる。お互い良かったね、糸の父上が幸運で」

 千尋がそう言って微笑んだので、糸は頷いた。


 正殿と呼ばれる一帯も当然、塀と門とで囲われている。

 それらを間近に見るところまで来たものの、正殿の中にいるはずの近衛の隊服を本当に見ることができるのかと糸が考えていると、千尋はさらに北へと向かった。

 正殿の北側の塀沿いを西にしばらく進むと正殿の北門がある。その前に立つ衛士の羽織は山吹色だ。そこを通りすぎたあたりから先、右手にたくさんの小さな建物が集まっていた。

「ここが正殿の寮だよ」

 千尋はそう言ってから糸の手を放すと、寮に近くて北門も見える位置にあった木陰に座りこみ、懐に入れていた本を取り出した。糸は尋ねた。

「ねえ、近衛は?」

「多分そのうち誰かが休憩で寮の食堂に来るよ」

「お役目についてるところを見るんじゃないの?」

「それは皇陛下が正殿の外に出られない限りわたしたちには無理だよ」

 仕方なく、糸も千尋の隣に腰を下ろして本を開いた。

 必死に目で文章を追いながら、時たま、漢字が読めずに躓いたり言葉の意味がわからず悩んでいると、そのたびに千尋が横から糸の読んでいる頁を覗いてポツリと教えてくれた。

 糸は訝しんで千尋の横顔を見つめた。

「千尋にはわたしの頭の中まで読めるの?」

「糸、さっきから声が出てたよ」

「え、本当?」

「もうどうせなら音読したら?」

「だけど、千尋も読んでるのに邪魔でしょう?」

「ブツブツ言ってるほうが気になるよ。あ、来た」

 ふいに千尋がそう言って北門のほうに顔を向けた。

 何が来たのかと糸もそちらに視線を送ると、屈強そうな衛士が北門を出て食堂のほうへと歩いていくところで、近衛の隊服を見るためにここまで来ていたことを思い出した。

「あれって、灰色?」

「うん、正確には素鼠色だよ」

「ねずみ?」

「そう、素鼠」

「もっと派手な色かと思ったら、今とあんまり変わらないんだね」

「派手なほうが良かったの?」

 糸は殿下の後ろに立つ父の姿を思い浮かべながら唸った。

「お役目のときの父上は黒っぽいほうがいいかな。でも、何で皇陛下をお守りするのにねずみなの?」

「常に皇陛下のお側にいるからこそ目立たない色ってことかな。糸の父上の黒と同じだよ。それに、ねずみって小さいけどすばしこくて意外と手強そうだし、灰よりはいいんじゃない」

 糸はいまいち納得できずに首を傾げた。


 せっかくここまで来たのだからと、ふたりは初めて入門許可証を使って玄武門を出て屋敷を見に行った。

 屋敷の門を出る頃には、太陽は中天にあった。

「わたし、お祖母さまのところでご飯食べていく。ここから近いし。千尋も来る?」

「行く」

 糸は千尋とともに皇宮の西の士族屋敷街にある父の実家を訪れた。玄関で迎えてくれたのは伯母の美冬だった。

「こんにちは、伯母上」

「あら、いらっしゃい。ふたりだけで来たの? 上がって」

「こんにちは。お邪魔します」

 居間に入ると、台所のほうから祖母も顔を出した。

「いらっしゃい。もうできるから待っててね」

 すぐに座卓の上にきつね蕎麦が並べられ、4人で食べはじめた。

「小学校は昨日で終わりだったんだっけ?」

「うん」

「早いわねえ」

「琴子から、糸にも家事を教えてほしいって言われてるからね」

「これからできるだけ来るからよろしくお願いします」

「千尋はいつから出仕するんだい?」

「まだ何年も先です。それまでにもっと勉強しないと」

「ええ、千尋はもういいんじゃないの?」

 東の祖父の屋敷では食事中に話したりしたら叱られるが、こちらでは黙っていると心配された。糸は西の作法のほうが慣れている。

 昼食を終えて片付けを手伝い、さらにしばらく祖母らと話してから糸は千尋とともに東宮殿に帰ることにした。

「千尋もまたいつでも来なさいね。糸、琴子にも、落ち着いたら顔を見せるように伝えて」

「はあい」

「ごちそうさまでした」

 白虎門に向けて歩き出すと、千尋が口を開いた。

「糸のお祖母さまって、いつも糸の父上より母上のこと言うよね」

「うん、仲良しだから。母上も今は西のお祖母さまのお家のほうが東よりも落ち着くって言ってるよ」

「ふうん。糸はどっち?」

「わたしもどちらかと言えば、こっちかな。あ、父上はねえ……」

「それは聞かなくてもわかるよ」

「そっか」

「でも、わたしも糸のお祖母さまのお家は居心地いいな」

「本当? なら今度からひとりでも行っていいよ」

「それは駄目だろって言いたいけど、なんか、あの家なら許されそうな気がする」

「千尋なら大丈夫だよ」

 いつのまにかまた繋いでいた手を、糸は前後に大きく振った。


 その後、糸が西の祖母の家にいると、時々千尋もやって来るようになった。家事をする糸を横目に、千尋は本を読んだりしていた。ふたりで寮に帰るおりには、屋敷の様子を見に寄った。

 春が終わる頃、屋敷が完成した。糸はやはり千尋と一緒に見にいった。

 通り沿いには高い塀と門も建っていた。門から中に入ると庭はまだ造成中だった。

 ふたりで木の香りが残る屋敷の中に入り、千尋に案内されながらひととおり見てまわる。まだ家具などは入れられていないので、ガランとしていた。

「やっぱり大きいね。こんなにたくさんお部屋があって、4人で全部使えるの?」

「4人じゃないよ」

「ああ、そっか。貴族のお屋敷なら、人を雇うよね。昼間、留守になっちゃうもんね」

「人はもちろん雇うけど、母上もいるよ」

 糸は目を瞬いた。

「千尋の母上は中宮殿に行くんじゃないの?」

「少しの間は行くけど、皇宮が落ち着いたら辞めることにしたんだ」

「そうなの?」

「うん。まだ聞いてなかったんだ」

 糸は首を振った。

「大臣の奥さまが女官をしていたら駄目なの?」

「大きな屋敷に住んで人を雇うならそれを取り仕切る人も必要だし、ほかにも色々やるべきことは増えるから女官を続けるのは難しいんだよ」

「そうなんだ。じゃあ、千尋の母上にもあんまり会えなくなるんだね」

「いつでも会いに来なよ」

「でも、士族の娘が大臣のお屋敷にそんなに来てたら迷惑じゃないかな?」

 千尋はムスリとした。

「何言ってるの。太政大臣さまのお屋敷には行くくせに」

「あそこはお祖父さまのお家だもん」

「母上だって糸なら歓迎するよ」

 千尋はそう言ったが、糸の気持ちは晴れなかった。


「千尋の母上、女官を辞めちゃうの?」

 糸が訊くと、母は淋しそうに微笑んで頷いた。

「ええ。ずっと一緒にやってきたから残念だけど、仕方ないわ」

「貴族の奥さまってそんなに大変なの?」

「そうね。一見優雅そうに見えて、やるべきことはたくさんあるわね。お屋敷が大きいほど出入りする人も多くなるし。士族の妻は家事をしなければならないけど、どちらのほうが大変なのかしらね」

 しばらく母は首を傾げていたが、やがて糸を見て言った。

「そうそう、苑子が辞めるので、母上が中宮殿の女官長を任されることになったの」

「青山どのじゃないの?」

 糸は東宮殿女官長の厳しい顔を思い浮かべた。

「青山どのは正殿に行かれるのよ」

「そうなんだ。父上も近衛隊長とかになったりするの?」

「殿下の打診はあったんだけど、父上は断ったのよ」

「ええ、もったいない」

「でも、母上は父上らしいと思うわ」

 母はふわりと笑った。


 夏には屋敷の庭もほぼ整えられ、木々や花、芝生が植えられていた。

「池はないんだね」

 糸は祖父の屋敷の庭で一番存在感のあるものを口にした。

「ないよ。落ちたら危ないからね。あ、飛び込んだら、か」

 糸は顔を顰めて千尋を睨んだ。

「わたしが忘れかけてたのに、よく覚えてるね」

「忘れるわけないよ」

「千尋は記憶力いいもんね」

 糸は唇を尖らせた。


 譲位が近づくにつれて父や母は仕事が忙しくなっていき、部屋に帰る時間も遅くなった。糸は父か母が迎えに来るまで千尋の部屋で、千尋や千晴と過ごした。

 千晴は千尋を「兄さま」と呼ぶように、糸のことも「姉さま」と呼んで懐いてくれていた。千尋が外に出ていって糸とふたりきりになっても、機嫌良くお喋りしている。

「おっきなお家に行ったら、千晴、姉さまと寝る」

 どうやら千晴は糸も一緒にお屋敷に移るものだと思い込んでいるらしかった。

「わたしは大きなお家には行かないの」

「どうして? 兄さまは姉さまも行くって言ったよ」

「うん、千晴に会いに行くよ」

「お部屋いっぱいあるよ。姉さまのお部屋もあるよ」

 糸は無邪気に笑う千晴の頭を撫でた。


 長月。譲位が間近に迫り、皇宮中がバタバタしていた。

 糸も千尋も役目が忙しい母の代わりに、部屋の引っ越しの準備を頼まれた。千尋はさらに千晴のお守りも任されていた。

 家財の一切は荷車にまとめて載せ、譲位の前日に次に住む正殿の寮へと移さなければならない。もっとも、家具などはほとんど部屋に備え付けの物なので、大きな物はそれほどなかった。

 引っ越し当日、荷車にすべての荷を積み終わると、油紙で包んでしっかりと紐で固定する。最後に父の名や現在の所属、引っ越し先を記した木札を結びつけた。

 すっかり景色の変わった部屋の中を、母から言われていたように掃除する。

 夕方になってから、朱雀門守護隊での役目を終えた伯父の直哉がやって来て荷車を引いていってくれた。次に入る部屋にはまだ先住者がいるので、荷を載せた荷車は今晩は野ざらしになる。

 糸は部屋の戸締まりをすると普段どおり千尋と千晴の部屋へと向かった。数日は糸の両親も千尋の両親も部屋には帰れず、糸は千尋の部屋で寝ることになっていた。

 糸の部屋と同じようにこちらもほとんど物が残っていなかった。

「なんだか、おかしな感じだね。わたしたちずっとここに住んでたのに」

「寮だからね。仕様がないよ」

「千尋が言ってた、安心して暮らせる家が必要っていうの、ちょっとわかった気がする」

「そう」


 翌朝、皇太子殿下とともに正殿に向かう者たちと、それを見送る者たちとが東宮殿の前に集まった。糸も千尋、千晴と一緒に見送る側に加わった。

 やがて普段より華やかな衣装の殿下と妃殿下、皇子さま皇女さま方も姿を見せ、集っていた者たちは一斉に礼をとった。

 殿下の後ろにいる糸の父はいつもの黒の上に深紅色の羽織を纏っていた。父だけでなく、東宮殿の衛士たち、さらに都のすべての衛士が慶事の日の特別な紅い羽織を身につけることになっていた。

 父は糸に気づくと少しだけ緩めた表情で頷いてみせた。妃殿下の側の母は糸の顔を見て安心したように微笑んだ。そのあとで父と母が目を合わせたのも糸にはわかった。

 イチは眉間に皺を寄せてこちらを睨んでいたが、珍しく緊張しているようだった。

 千尋に抱き上げられた千晴は、母に向かって手を振っていた。

 殿下は穏やかな顔でそこにいる人々を見回して口を開いた。

「皆、今日まで大儀であった。今後もそれぞれの持ち場でよろしく頼む」

 そのあとで今度は東宮殿へと目を向けると、27年もの間、己の家だった御殿を感慨深げに眺めた。

「では、参ろう」

 殿下の一言とともに一行が動き出し、東宮殿に残る者たちは深く頭を下げてそれを送り出した。


 殿下たち一行が去ると、普段より人の少ない東宮殿は閑散とした。糸は千尋、千晴と一緒に東宮殿の中を歩いた。

 幼い日々を過ごした東宮妃殿。駆け回った中庭や建物の間の狭い隙間。千尋が本を読んでいた木陰や書庫。

 お役目中の父の姿を見たくて東宮殿に入りこんだら殿下は笑って手招きしてくれたが、あとで母に叱られた。

「もう来られないわけじゃないよね」

 糸は明るく言った。

「でも、糸は来なくていいよ」

 千尋の声は冷淡に聞こえた。

「なんで? 明日からはイチが東宮殿の主でしょ。だったら入れてくれるよ」

 糸がそう返すと、千尋は眉を顰めた。

「そのイチって呼び方も、もうやめたほうがいい」

「殿下って呼ぶの?」

「そう。話すときはきちんと敬語でね」

「今までとは違っちゃうんだ」

 千尋の言ったことはもっともだった。イチは明日、皇太子殿下になる。本来、一の皇子はただの士族の娘が気軽に付き合える相手ではなかったのだ。

 だが、それを言うなら千尋だって同じだった。

「なら、千尋にも同じようにしたほうがいいよね」

「わたしには必要ないよ」

「どうして? 大臣の息子になるのに」

「糸の父上はうちの父上のこと何て呼んでる?」

「真雪」

「でしょ。敬語だって使ってないし」

「これからは変わるんじゃないの」

「他の人がいる前でならともかく、今さらあのふたりは変わらないよ」

 千尋にそう言われ、糸もそうかと頷いた。


 この日、東宮殿の父だった皇太子殿下は皇陛下に即位され、国父になった。

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