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2 子ども時代の終焉

「糸は小学校を卒業したら、何かやりたいことはあるの?」

 夏のある夜、母が糸に尋ねた。母の横には父もいた。

「まだ、わかんない」

 糸がそう答えると、母は頷いた。

「そうよね」

 士族の息子は小学校を出たら、たいてい衛門府に入る。糸の父もそうだった。

 一方、士族の娘は女学校に上がったり、貴族や裕福な商家の屋敷などで働いたり、あるいは実家で家事をしたりと様々だ。

「実はね、来年の秋に、(おおきみ)陛下が皇太子殿下に御譲位なされることになったの。位を譲るって、わかる?」

「殿下が新しい皇陛下になるってこと?」

「そうよ。それで、東宮殿から正殿に移られるの」

「そしたら、どうなるの? 父上と母上も正殿に行くの?」

 糸が尋ねると、父が答えた。

「父上は一緒に行って、新しい皇陛下にこれからもお仕えするよ」

「じゃあ、今度は皇陛下の護衛になるんだね」

「役目としてはそうなんだけど、近衛って呼ばれることになるな」

「ふうん」

 次には母が口を開いた。

「母上は妃殿下、新しい皇后陛下に従って中宮殿に行くことになるわ」

「別々になっちゃうの?」

 糸が驚くと、母が微笑んで言った。

「東宮殿と東宮妃殿よりは少し離れているけれど、すぐ近くだから大丈夫よ。ただ、糸は東宮殿のようには自由に出入りできなくなると思うの。だから、糸には卒業した後のことをしっかり考えてほしいのよ」

「はい」

 糸は戸惑いながら頷いた。

「それから、このお部屋も引っ越さなければならないわ」

「え、どこに?」

「正殿や中宮殿で働いている方たちの寮は皇宮の北のほうにあるの。広さはこことあまり変わらないそうよ」

「千尋もまた近くに住むんだよね?」

 当然、千尋の父は正殿に、千尋の母は中宮殿に行くのだろうと糸は考えた。だが、母は首を振った。

「真雪どのが皇宮の外にお屋敷を建てることにされたから、千尋たちはそちらに住むわ」

 糸は目を見開いた。


 翌朝、一緒に小学校に向かう道すがら、糸は千尋に訊いた。

「何で千尋の父上はお屋敷を建てるの?」

「父上は殿下が御即位されたら大臣になるんだよ」

「大臣て、太政大臣とか左大臣とか?」

「いや、まずはどこかの省の大臣だけど、まだ決まってない。何にせよ、大臣が寮暮らしのままなのはさすがにまずい」

「どうして?」

「本来、貴族は収入に見合った散財をしなければならないんだ。そうでないと、ほかの貴族に白い目で見られる」

「だから千尋の父上は小学校に色々寄付とか寄贈とかしてたんだ」

 この3年程の間に、都にあるすべての小学校で学舎の修繕がされたり、書庫室の蔵書が増えたり、給食のお菜が一品多くなったりしていた。

「そうだよ」

「ふうん」

「でも、父上はずっと屋敷を持つことを考えていたから、今度のことはいいきっかけになったんだと思う」

「そうなの?」

「今うちの家族にはいざという時に頼れる所が東宮殿しかないから、千晴や母上が安心して暮らせる家が必要なんだ」

「わたしのお家だって東宮殿の寮だよ」

「だけど、糸の家族は何かあったら父上の実家も母上の実家も、どちらでも頼れるだろ。糸が生まれたのも父上の実家だったよね」

「うん」

「うちはどちらも頼れないんだ。父上の実家は行ったこともないし、父上には兄上がいるそうだけど会ったことがない。お祖母さまに会うのはいつも寮か、叔母さまの家だ。母上の実家は何度か行ったけど、母上の姉上は遠くから姿を見ただけで挨拶もしたことがない」

「兄弟なのに仲が悪いの?」

「兄弟だから、かな」

 糸は驚いた。

 糸に兄弟はいないが、父には兄がふたり、母には弟がふたりと妹がひとりいる。皆父や母と仲が良く、会うたび糸のことも可愛いがってくれる。

 唯一、父の次兄の雅也伯父は数回しか会ったことがないが、それは伯父が都から離れたところに住んでいるためだ。

「わたしが生まれる時も父上は小さな家を買おうとしたらしい。だけど殿下が、『そんな一時しのぎの産屋を買うくらいなら東宮殿で産めばいい』って仰ってくださったから、母上はそうしたんだ」

「へえ」

「母上にとってはもう東宮殿が家みたいなものなんだろうけど、それを千晴にまで強いるのは可哀想だからって母上も屋敷を建てることに賛成した」

「そっか。じゃあ、千尋に会えなくなるのは仕方ないんだね。淋しいけど」

 糸がしょんぼりすると、千尋が言った。

「近くだからいつでも会えるよ」

「え、そうなの?」

「帰りに行ってみる?」

「うん、行く」

 そんなわけで、小学校からの帰りに糸は千尋の父が屋敷を建てる土地まで千尋に案内してもらうことになった。

 千尋は皇宮まではいつもどおりの道を歩き、青龍門の前まで来たところで北に折れた。

 青龍門守護隊の衛士が、門から離れていくふたりに声をかけてきた。

「おい、どこへ行くんだ」

 千尋が答えた。

「ちょっと寄るところがあります」

「気をつけて、遅くなるなよ」

「はい」

 千尋はそのまま城壁沿いに進み、やがて皇宮の北側へと出た。さらに西へ向かうと、今度は玄武門が見えてきた。そこも通りすぎてからすぐ、右手に広い空地があった。

 千尋はそこを指差した。

「ここだよ」

「こんなに近くなの? 西のお祖母さまのお家より近いね」

「ほとんど皇宮からの距離で選んだ土地だから」

「さすが、千尋の父上だね」

「安心した?」

「うん。良かった」

 糸はホッとして千尋と繋いでいた手をブンブン振った。


 糸が衛士になりたいと言うと、イチは馬鹿にするように笑った。

「女が衛士になれるわけないだろ」

「わたしのほうがイチより強いのに」

 糸とイチが竹刀や木刀を持って立ち合えばいつも勝つのは糸で、この日もそうだった。

「ふん。今のうちだけだ」

「ねえ、千尋。将来、官吏になったら女も衛士になれるようにしてよ」

 糸は近くの木陰で本を読んでいた千尋に言った。

「それはすぐには難しいと思うよ。糸が衛士になれるとしても何十年も先になる」

 千尋は冷静に答えた。イチが目をつり上げた。

「おい、そういうことはわたしに頼めよ」

「なら、イチはわたしを衛門府に入れてくれるの?」

「衛士なんかより次の皇太子妃にしてやる。来年あたり姉上のご学友が選ばれるから、糸もなれ」

 イチが偉そうに言うのに、糸は口を曲げた。

「やだ。だいたい、士族は選ばれないもん」

「朔夜が貴族になればいい。そういう例も過去にはあったらしい」

「戦で大きな手柄を上げて、とかだろう。今そんなことしたら、貴族から反感を買って大変だよ」

 本の頁を捲りながら、千尋が口を開いた。糸も言った。

「父上が貴族になんてなりたがるわけないでしょ」

「だったら、糸は太政大臣の養女になれ」

「養女も妃殿下になれないよ」

「お妃さまに相応しい貴族のお姫さまなんてきっとたくさんいるよ」

「糸がなれよ」

「衛士がいい」

「糸は妃殿下にも衛士にもなれないよ。糸の母上みたいになるんじゃ駄目なの?」

 千尋にそう言われて、糸は眉を顰めた。

「わたしは母上みたいにはなれないよ」

「糸なら大丈夫だよ」

 千尋はきっぱりと断言した。


 年が明けてから、屋敷の外観ができあがったと聞き、糸は再び千尋と一緒に見に行った。

「あんまり大きくないね」

「糸のお祖父さまのお屋敷に比べたら全然小さいだろうけど、わたしたちはずっとあの部屋に住んでたんだからこれでも大きすぎるくらいだよ」

「そうだね。西のお祖母さまのお家と比べてもずっと大きいよ」

「大切なのは母上や千晴が心からくつろげる家だってことなんだし」

「千尋は? 千尋もこのお屋敷に住んで、いつかは千尋が継ぐんでしょ?」

「今はその予定だけど、もしも千晴がここを欲しいと言えば喜んで譲るよ。わたしは男だから父上みたいに何とかなるだろうし、自分で別の屋敷を建てればいいだけだから」

「うん。確かに千尋なら大丈夫そう」

 千尋はあと数年後には官吏になって、父のように出世するに違いない。千尋の父が官吏養成所を首席で卒業したというのは有名な話だが、千尋はもうすぐ大臣の息子になるのだから養成所を出る必要もなくなる。

 イチがお妃候補を気にしていたが、千尋だって官吏になればすぐに妻を迎えるのだろう。

 糸と千尋はずっと東宮殿の寮で一緒に育って、今は毎日手を繋いで小学校に通っているが、卒業すれば進む道は分かれ、住む場所が近くてもそうそう会えなくなってしまう。ふたりは身分が違うのだから。

 糸が小さく溜息を吐くのを、千尋は不思議そうな顔で見ていた。


 その夜は母が週に一度の不寝番で、部屋には糸と父のふたりだけだった。

 寝室の寝台に入ってから、糸は父に尋ねた。

「ねえ、父上。父上は母上と結婚する時、不安じゃなかったの?」

「え?」

「だって、母上とは身分が違ったんでしょ」

「ああ、そうだね」

 父は少しの間、考える様子だった。

「父上が母上をどんなに好きでも、誰にも認められないとずっと思ってた。だけど、ほかでもない母上自身が認めてくれて妻になると言ってくれたから、あとのことは父上にはどうでも良くなってしまったんだ」

 父は懐かしそうに笑っていた。

「母上に西のお祖母さまの家で士族として暮らしてもらわないといけなくなって心配したけれど、母上は貴族と士族の間にあるはずの壁を軽々と飛び越えてみせてくれた。適応力が高いというのかな。本当に母上は凄いよ。もしも逆だったら、父上には多分無理だっただろうな」

「ふうん」

「糸もそのへんは母上に似てるんじゃないか」

 父が糸の頭を撫でながら言うのに、糸は首を傾げた。

「そうかな?」

「父上はそう思うよ」


 父のいない夜の居間で、糸は母に同じことを訊いた。

 母はふわりと笑って答えた。

「母上は父上と夫婦になれるのが嬉しくて、不安を感じてる暇なんかなかったわ。それに西のお祖母さま方が暖かく迎えてくださったから、母上は皆さまを頼っていればよかったしね」

「でも、家事とか新しく覚えないといけなかったんだよね?」

「母上は父上と一緒にいられるなら何でもするつもりだったわよ」

 母は当然という顔をした。

「なら、母上は貴族のままのほうが良かったと思ったことはないの?」

「ないわ」

 母はきっぱりと言った。

「父上って、士族であり衛士であることに誇りを持っていると思うの。おそらく家族に大切に育てられたし、衛士でなければできない大事なお役目に着いているからでしょうね。だから母上は士族の妻であることに誇りを持っているわ」

「父上の妻であることに、じゃないの?」

 糸の言葉に母は破顔した。

「糸はよくわかっているわね。そのとおりよ。そして、できたら糸にも父上の娘であることを誇りに思っていてほしい。この先、どこで生きていくにしてもね」

「わたしは父上と母上の娘で良かったと思ってるよ。父上みたいな衛士にはなれないけど」

「ありがとう」

 母は糸を抱きしめた。

 母が離れたあとで、父の言葉も思い出しながら糸は口を開いた。

「母上、わたし卒業したら母上にもっと色々教えてほしい」

「色々って?」

「母上が知ってることを、できるだけたくさん」

 母は表情を改めて糸を見つめた。

「言っておくけれど、母上は糸が小学校に入った歳よりも小さかった頃からたくさんの時間をかけて、たくさんのことを身につけたのよ。だから糸にどこまで教えてあげられるかわからないけれど、本当に糸にやる気があるならいいわ」

「お願いします」

 糸もまっすぐに母を見つめ返し、頭を下げた。


 小学校卒業の日。やはり糸は千尋と皇宮まで帰った。4年の間にふたりの背の高さは同じくらいになっていた。

 東宮殿門の下で繋いでいた手を解きながら、もう千尋と手を繋ぐことはないんだなと糸は淋しく思った。

 東宮殿に行くと、殿下が卒業の祝いだと言ってふたりに入門許可証をくれた。

「今後、皇宮の外に出るときや東宮殿に来るときにはこれを必ず持っておるように」

「はい、ありがとうございます」

 父からは、ひとりで出かける時には充分気をつけるようにと念を押されたが、糸は少し大人になったような気がした。

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