1 絵本の中の恋
糸の家の居間の棚には絵本がたくさん並んでいたけれど、ある時、なぜか寝室の箪笥の中に一冊だけ仕舞われているのを見つけた。
糸はまだ仮名しか読むことができなかったので、その表紙に綺麗な女の人と怖そうな鬼の絵とともに描かれた『姫と護衛』の意味はわからなかった。
その夜、糸が「読んで」とその本を差し出すと、母は表紙を見てわずかに驚いたような顔をしたものの、いつもどおりにっこり笑って受け取った。だが、母の膝の上から見た父の顔は少し強張っていた。
『むかしむかし、あるところにつきのようにうつくしく、かしこいおひめさまがいました。おひめさまはこうたいしでんかのおきさきさまになるにちがいないといわれておりました。
やがて、おひめさまはでんかのおきさきこうほにえらばれました。おひめさまはおしろにまねかれ、こうたいしでんかにおあいしました。
ところが、おひめさまはでんかのうしろにたっていたくろおにのようなごえいやくのえじにつよくひかれてしまいました。そして、ごえいもおひめさまにひとめぼれしてしまったのです。
ふたりのこいがかなうはずがありません。ふたりはおたがいにきもちをおしかくしていました。
しかし、あるときぐうぜんふたりきりになると、おひめさまはとうとうそのおもいをごえいにつたえました。
「わたくしはあなたをおしたいしております。どうかわたくしをどこなりとつれさってくださいませ」
ごえいはこたえました。
「わたくしもあなたをあいしています。ですが、わたくしはこうたいしでんかにしょうがいのちゅうせいをちかったみ。そのようなことはできません」
おひめさまはなきました。ごえいもなきながらおひめさまをだきしめました。
するとそこへこうたいしでんかがあらわれていいました。
「そなたたちのきもちはよくわかった。よがふたりをふうふにしてやろう」
そうしてでんかはほんとうにあれよあれよとじゅんびをととのえると、ふたりにしゅうげんをあげさせました。おひめさまとごえいはでんかにたいそうかんしゃしました。
そのごふたりはしあわせにくらしました。めでたしめでたし』
「ねえ、恋ってなあに?」
母が読み終えた後で糸は尋ねた。
「誰かをとっても大好きになって、一緒にいない時でもその人のことばかり考えてしまったり、その人のためなら何でもしてあげたいって強く思う気持ちのこと、かしら」
「糸は母上と父上のこと大好きだよ」
「それとはちょっと違うの。あと何年か経てば、糸にもきっとわかるわ」
「じゃあ、恋が叶うってどういうこと?」
「恋した相手が同じように自分を思ってくれているとわかること、ね」
「じゃあ、何でこのお姫さまと護衛はふたりとも好きなのに泣いてるの?」
「お姫さまと護衛どのでは身分が違うから、たとえふたりの気持ちが同じでもほかの人たちに駄目って言われてしまうからよ」
「身分て何?」
「貴族とか士族とか聞いたことあるでしょう? お姫さまは貴族で、護衛どのは士族なの」
「何で身分が違うと駄目なの?」
「何でかしらね」
母は笑っていたけれど、少し哀しそうに見えた。
翌日、糸が『姫と護衛』の話をすると、イチが言った。
「それって、朔夜と琴子のことだろ。琴子は太政大臣の娘だし、昔父上の妃候補だったんだぞ」
糸は前夜に見た絵を思い出して、唇を尖らせた。
「でも、黒鬼みたいな護衛は父上と全然似てなかったよ。ねえ、千尋、違うよね?」
千尋は少し考える様子を見せてから口を開いた。
「多分、糸の父上と母上のことだと思う」
「そうなの? 父上と母上は身分違いの恋なの?」
糸が目を見開くと、イチがフンと鼻を鳴らした。
「だから朔夜は太政大臣に嫌われてるんだろ」
父はいつも糸を祖父の屋敷まで連れて行ってくれるだけで門の中には決して入ろうとしなかった。母が祖父の家に一緒に行くことも一度もなかった。糸にとってはずっとそれが当たり前だったのだが、そうではないのだろうか。
糸が考えていると、千尋がボソリと言った。
「でも身分違いって言うなら、うちの父上と母上も同じようなものだけど」
「真雪と苑子はふたりとも貴族だろ」
イチが言った。
「貴族だけど、一番上と一番下くらいの差がある。一番下の貴族は、士族よりも貧しいんだよ」
千尋の母方の祖父は左大臣だ。だが、父方は祖母と叔母がいるということしか糸は知らなかった。
「普通なら結婚しないよ」
言いながら、千尋は読んでいた本に目を戻した。
千尋は本をたくさん読んでいるせいか、色々なことを知っていた。だから糸は千尋に尋ねた。
「どうすれば父上は門の中に入ってくれるかな?」
千尋は読んでいた本から顔を上げぬまま口を開いた。
「どこの門?」
「お祖父さまのお家」
「ああ」
そのまま黙ってしまったので千尋にもわからないのかと糸が思いかけたところで、千尋が再び口を開いた。
「糸の父上なら、門の中にいる糸が危なくなれば飛んで助けに来てくれるんじゃないかな」
糸は千尋の横顔をまじまじと見つめた。やはり千尋は知っていた。
ちょうど、祖父の家の庭には危ないから近づいてはいけないと母に言われていた場所があった。それを千尋に話そうとしたところでイチが糸と千尋の間に割り込んできたので、結局話しそびれてしまった。
ともかく、次に祖父の屋敷を訪れた際、糸はさっそくそれを実行した。その日祖父からもらったばかりのうさぎのぬいぐるみを汚してしまうのが惜しかったので玄関近くの棚の上に置き、祖母と手を繋いで屋敷を出た。
いつものように門の外で待っていた父に手を振ってから、祖母の手を放して糸は駆け出した。父や祖母が糸を呼ぶ声が後ろから聞こえた。
飛び込んだ池の水が思っていたより冷たかったことに驚いて、すぐに助け上げてくれた父の腕の中で糸は泣いた。
だけど、おかげでその日父は門の中だけでなく屋敷の中にまで初めて入った。母にはなぜ池に近づいたのかと叱られたが、ひと月後には母も一緒に初めて3人で祖父のもとを訪れることになったのだった。
そのことを千尋に報告して礼を言うと、千尋は眉を顰めた。
「別に池にまで落ちなくても、ちょっと転んでみせれば良かったのに」
「そっか。千尋はやっぱり頭いいね」
糸が感心すると、千尋は呆れたような顔になった。
朝、いつもより早く目を覚ました糸は、寝台を出ると居間に向かった。障子を開けて外を眺めていた母が、気づいて振り向いた。
「おはよう。今朝は早起きね」
「おはよう」
糸が母の隣から外を覗くと、木刀を振る父の姿が見えた。
普段、糸の前で父はとても優しい顔をしているが、木刀を振っている父は殿下の後ろに立っている時よりも真剣な顔をしていた。
だけど、糸は父を怖いと思ったことはなかった。
「父上、格好いいね」
糸が言うと、母は嬉しそうな顔になった。
「ええ。父上はとても格好いいわ」
父の向こうには千尋が立っていた。糸は外に出ると、千尋に近寄っていった。
「千尋、おはよう」
「おはよう」
「糸」
父の声に糸は振り向いた。父は優しい顔に戻っていた。
「父上、おはよう」
「おはよう。母上が呼んでるよ」
父の言葉に母を見れば、怖い顔をしていた。
「糸、寝巻のまま外に出てはいけませんと、何度言えばわかるの」
「そうだった。ごめんなさい」
糸は慌てて部屋へと戻った。
寝室で着替えてから再び外を見ると、父と千尋が何か話をしていた。
それからしばらく経って、糸も剣術を教えてほしいと父にお願いした。いつもは糸の頼みに笑って「いいよ」と答えてくれる父が、その時だけは首を縦に振らなかった。
「どうして糸は駄目なの?」
「糸は母上から何か別のことを教えてもらったほうがいいよ」
父はそう言ったが、士族なら娘でも剣術を身につける者は珍しくない。
納得できなかった糸に、母が言った。
「父上は糸が可愛いから、たとえ木刀でも向けたくないのよ。その上、もし糸に擦り傷でも負わせてしまったら、父上のほうが倒れてしまうわ」
「でも、糸も剣術やりたいのに」
むくれた糸に、母が笑って言った。
「いいわよ。母上が教えてくれそうな人に頼んであげる」
「本当? やったあ」
糸は喜んで母に飛びついたが、父はますます渋い顔になった。
「琴子」
「糸は私の娘です。やりたいと思えば、私たちが反対してもこっそりやるに決まっています。それならば、私たちに見えるところでやらせてあげたほうが良いではありませんか」
母の言葉に父は嘆息し、折れた。
「絶対に怪我をしないように」
そう言った父は、心配で堪らないという顔をしていた。
母が糸を連れて行ったのは、千尋の母のもとだった。千尋の母の実家は貴族には珍しく娘にも剣術を学ばせる家系なのだ。
「剣術を教えた経験はないのであまり自信はないのだけれど、こういうことはお互いさまですものね」
快く引き受けてくれた千尋の母は、木刀の握り方、足の開き方といった基本から丁寧に教えてくれた。
2カ月ほど経つと、千尋の母は糸の母に言った。
「糸はやっぱり朔夜どのの娘ね。もっと本格的に教えてもらったほうがいいのではない?」
その言葉を受けて母が次に糸の師に選んだのは、糸の従兄で東宮殿守護隊副隊長の樹だった。樹はちょうど息子に剣術を教えはじめたところだった。少ししてから、樹も母に言った。
「さすが朔夜兄の娘だね。男ならいい衛士になっただろうな」
樹のその言葉を、母は嬉しそうに父に伝えた。父はムスッとし、膝の上に糸を抱き寄せながら言った。
「男ならって何ですか。糸はこの糸しかいません」
「それはもちろんそうですが、私は糸が朔夜に似ていると褒められて鼻が高かったという話をしているのではありませんか」
「糸、父上みたいな衛士になる」
糸がそう言うと、父は困ったような顔になった。
「残念だけど、女は衛士になれないんだよ」
それでも、糸は樹に剣術を習い続けた。
糸の父はお役目のためにだいたい一日置きにしか家に帰れなかった。だから、糸と一緒に過ごす時間が長いのは一番が母で、二番はおそらく千尋だった。
千尋とは住んでいる家も近所だった。家といっても、正確には部屋と呼ばれていた。もっと正確に言えば、皇宮の東宮殿寮にある女官用のひとり部屋。そこに糸も千尋も家族で暮らしていた。
皇太子殿下の護衛である糸の父も、殿下の秘書官である千尋の父も、それぞれに相応しい屋敷を皇宮の外に構えることはできたはずだった。
しかし、糸の母と千尋の母はともに妃殿下の女官をしていた。夫婦揃って東宮殿で働いているので、東宮殿の寮に住むのがもっとも都合が良かったのだ。
さらに、千尋は生まれたのもこの東宮殿寮だった。糸がそれを知ったのは、千尋の妹がやはりそこで生まれたからだった。
「わたしはどこで生まれたの?」
糸が尋ねると、母はすぐに教えてくれた。
「西のお祖母さまのお家よ」
いつからか糸の家では父の実家を西、母の実家は東と呼んで区別するようになっていた。多分、東のことも話題に出す機会が増えたためだろう。
なぜ糸は父の実家で生まれ、千尋は東宮殿の寮だったのかまでは、糸は深く考えなかった。
千尋の妹は千晴と名づけられた。千晴は可愛いくて糸はずっと見ていたかったが、それは母に許されなかった。
同じ年、9歳になった糸は小学校に通いはじめていた。
母は皇宮の西にある小学校に糸を入れたがった。西の祖母の家からほど近い場所にあり、父の母校でもあったからだ。
しかし、結局は東宮殿から通いやすい皇宮の東にある小学校に糸は入学した。
西の小学校は士族屋敷街に近く、東の小学校は衛門府の官舎に近いため、どちらも士族の子の割合が多いことは共通していた。都にあるほかの小学校は平民が多いのだ。
ちなみに、どこでも貴族の子はごく少数派だった。もともと貴族が少ない上に、ほとんどの家では金のかかる家庭教師を雇うか私塾を選び、たとえ貧しくても学費が無料の小学校に子を通わせることを良しとしない家が多いためだった。
士族が多数派の小学校に入学したにも関わらず、士族の娘である糸が目立ってしまったのには、いくつか理由があった。
まず、母によく似た糸の容姿が士族らしからぬこと。
次に、糸の父がただの衛士ではなく皇太子殿下の護衛という特別な役目にあること。周囲が士族ばかりだからこそ、殿下の護衛が「松浦」であることを知る者も多かった。
しかも「松浦」の隣に「櫻井」、すなわち殿下の秘書官の息子が並んでいるせいで、さらに目立つことになってしまったのだった。
その賢さを考えれば、ひとつ歳下の千尋が糸と同じ年に小学校に入ったことは不思議ではない。だが、千尋の父が貧しいはずはなかった。
「なんで千尋も小学校に入ったの?」
糸の問いに、千尋は答えた。
「家には家庭教師を呼ぶ場所がないから」
確かに、あの小さな東宮殿寮の部屋に家庭教師は不釣り合いだ。
「だとしても、千尋が小学校に通うことはないんじゃないの? 私塾に行けば良かったのに」
「糸だってあの母上がいるんだから小学校に通う必要なんてないと思うけど」
糸の母は貴族の娘が持つべきとされる教養や知識や技術などをほとんど身につけていた。さらに、人に教えるということも上手かった。
だが母は、あくまで糸を士族の娘として育てた。住んでいるのが東宮殿の寮という特殊な場所だったために、変則的ではあったが。
「わたしは士族だから小学校に通うのが普通なの。それに母上は、勉強だけでなく友達を作りなさいって言ってたし」
「貴族だって小学校に入って友達を作ってもいいでしょ」
「別にいいけど」
最初こそ遠巻きにされていた糸も、徐々に同級の子どもたちと打ち解けた。何でもよくできる千尋は一目置かれる存在になっていったが、積極的に友達を作っているようには見えなかった。
登校時と同様に、小学校から東宮殿まで糸と千尋はいつもふたりで帰った。母たちからの言いつけを守って、糸は自分よりも小さい千尋としっかりと手を繋いだ。
本来、皇宮の門を通り抜けるためには身分証か入門許可証が必要だったが、青い羽織を着た青龍門の衛士たちはふたりが何も持たなくとも通してくれた。ただし、一度小学校から帰って皇宮の中に入ってしまえば、衛士たちが再び糸と千尋を子どもだけで門の外に出してくれることは翌朝までなかった。
時たま、ふたりを知らない見習いの衛士が門前に立っていると、通してもらえないことがあった。しかし、先輩の衛士に何やら耳打ちされると、見習い衛士は顔色を変え慌てて脇に避けた。
千尋の手を放してから東宮殿の門を潜って中に入り、東宮妃殿の前に立つ衛士のところに行けば、糸が訊かずともどこへ向かえばよいか教えてくれた。東宮殿の衛士の隊服は萌木色だ。
「今は中庭にいらっしゃるぞ」
「はあい」
糸は答えながら駆け出した。中庭までの近道である、建物と建物の間の細い隙間を抜ける。そこから急に飛び出すことはせず、父の教えどおり周囲に気を配った。
中庭に出ると、まず見えたのは警護役の衛士たちだった。彼らに囲まれる位置に、皇太子妃殿下がいた。
妃殿下のすぐ側に母の姿を見つけると、糸は再び駆け出した。
「母上」
娘の声に振り向いた母に、糸は抱きついた。だが、見上げた糸を母は厳しい顔で見返した。
「糸、まずやるべきことがあるでしょう」
糸は慌てて母から離れると妃殿下の前に立ち、母に教えられたとおりに礼をとった。
「ごきげんよう、妃殿下」
「ごきげんよう、糸」
妃殿下の笑顔を確認してから、改めて糸は母に抱きついた。
「母上、ただいま」
「お帰りなさい」
母も今度は糸を抱きしめてくれた。
そこに、遅れて千尋も到着した。千尋は教科書や帳面、筆記具などが入った風呂敷包を地面に下ろすと、妃殿下に対してしっかりと礼をとって挨拶した。
「千尋、部屋に帰らなかったの?」
母から離れぬまま糸は訊いた。千尋の母は千晴と一緒に寮の部屋にいるはずだ。
千尋は風呂敷包を両手にひとつずつ拾い上げると、片方を糸に差し出した。
「糸が置いていったから」
見れば、確かにそれは糸が持っていたはずのものだった。
「あれ、本当だ。ありがとう」
糸は母から離れて風呂敷包を受けとった。
「糸、荷物を放り出したら駄目でしょう。千尋、いつもありがとう」
糸の母の言葉に千尋はフルフルと首を振ると、再び妃殿下を向いた。
「部屋に帰ります」
「ええ、苑子によろしく」
千尋は妃殿下に礼をして、中庭を正しい道から出て行った。
「わたしも、千晴見てくる」
糸も妃殿下に礼をしてから、千尋を追った。
糸と千尋は寮に近い裏門のほうへと向かった。途中にある御学問所からは講義をする博士の声が聞こえていた。千尋はその隣に並ぶ書庫に入っていった。
「千尋、帰らないの?」
「本を借りたら帰るよ」
書庫に並ぶ、糸には題名も読めないような本を、千尋は手にとってじっくりと眺めていた。
そこへ突然、戸が開かれる大きな音と騒がしい足音が響いた。
「こんなところで何してるんだ」
書棚の向こうから予想どおりの人物が現れたので、糸は顔を顰めた。
「イチこそ何してるの? まだ講義中でしょ」
「そなたたちがここに入るのが見えたから、わざわざ来てやったんだ」
「早く戻りなよ。また殿下に叱られるよ」
「ふん。父上に叱られることがどんなに怖ろしいことか、糸は知らないくせに」
「イチはよく知ってるからって、偉そうに言うことじゃないだろ。イチは糸の父上を怖がってるし」
「わたしは別に朔夜なんか怖くない」
イチは噛みつくように言ったが、千尋は書棚に目を戻した。
「だいたい、ふたりが何で書庫にいるんだ」
「千尋が本を選んでるの」
「ここに子どもの読む本はないぞ」
「殿下が千尋は自由に読んでいいって言ってくれたの」
「なら、糸は駄目だろ。こっちに来いよ」
イチが糸の腕を掴んで引っ張ろうとしたところで、バシッと大きな音がした。千尋が腕の中に持っていた本に別の本を重ねた音だった。
音に驚いてイチの手が緩んだ隙に、糸はイチから離れた。
「決まったよ。糸、行こう」
「千尋、ここの本を乱暴に扱うな。父上に言いつけるぞ」
「糸を乱暴に扱おうとしたこと、糸の父上に言いつけるよ」
言葉に詰まったイチを尻目に、書庫の貸出帳に記入すると千尋は外へと出て行った。糸も続き、さらにイチが書庫を出たところで待ち構えていた博士に捕まった。
「一の皇子殿下、貴方はもっとご自身のお立場をご自覚ください」
そのまま博士がイチを抱え上げて御学問所へと戻っていくのを、糸と千尋は見送った。
糸が千尋と一緒に寮の千尋家族の部屋まで行くと、中から戸が開けられて男の人が出てきた。
「ごきげんよう、お祖父さま」
千尋が礼をすると、相手は千尋を見下ろした。
「千尋か、久しぶりだな」
「千尋、お帰りなさい」
千尋の祖父の後ろから、千尋の母も顔を出した。
「ただいま」
「糸も来たのね。お帰りなさい」
「ただいま」
「この娘は?」
千尋の祖父がジロリと糸を見た。
「千尋の幼馴染の松浦糸です」
千尋の母が答えた。糸も礼をした。
「初めまして。ごきげんよう」
「松浦? まさか葛城の孫か」
「ええ。それが何か?」
千尋の母が言うと、千尋の祖父の目がつり上がった。
「いつまで葛城の娘や孫などと付き合うつもりだ」
「もちろん、ずっとですわ。お父さま方の仲がお悪いのは勝手ですが、私たちまで巻き込もうとするのはおやめくださいませ」
千尋の祖父は眉間に皺を寄せて千尋の母を睨むと、その場を去ろうとした。が、その着物の袖を千尋が掴んだ。
「糸はお祖父さまに挨拶したのですから、お祖父さまも糸に返してください。わたしが恥ずかしいです」
千尋の祖父は瞠目して千尋を見下ろした。千尋の母がプッと吹き出した。
「初めまして」
忌々しそうにそれだけ言うと、千尋の祖父は今度こそ立ち去った。
「千尋のお祖父さま、わたしを嫌いなの?」
糸が訊くと、千尋の母が答えた。
「太政大臣さまがお嫌いなの。でもそんなことは気にせずに、糸はこれからも千尋と仲良くしてね」
糸は頷いた。
「わたしは千尋好きだから、仲良くするよ」
「ありがとう。さ、上がって」
千尋の母に促されて、糸と千尋は部屋に入った。
居間の真ん中に置かれた籠の中に千晴がいた。
「千晴、ただいま」
「ただいま。母上、千晴抱いてもいい?」
「いいわよ」
千尋はそっと千晴を抱き上げた。糸は真近から千晴の顔を覗き込んだ。
「可愛いねえ。わたしも兄弟ほしいなあ」
「兄弟なんて、いないほうがいいこともあるよ」
千尋がポツリと言うので、糸は驚いて千尋の顔を見つめた。
「千尋は千晴嫌いなの?」
「千晴は可愛いし好きだよ。糸も抱く?」
「うん、抱きたい」
糸は千尋から千晴を受けとった。赤児の温かさや乳臭さに気持ちが和んだ。
「やっぱり妹いいなあ」
「糸も千晴を本当の妹だと思って可愛いがればいいよ」
「うん、そうする」
糸は千晴を籠の中に戻してからも、千尋が外に出ていってからも、飽きずに千晴を見つめ続けた。
だが、いつのまにか糸は千晴の籠のそばで眠ってしまっていた。
「糸、母上がお迎えに来たよ」
千尋に揺り起こされ、糸は目を擦りながら母のもとに向かった。
糸と千尋が小学校の2年生になった年、皇太后陛下が崩御され都は哀しみに包まれた。
しかし翌年、皇太子妃殿下が二の皇女さまを産んだことで再び明るい雰囲気が戻った。
そして、糸と千尋は小学校の最終学年である4年生になった。