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序 彼女が繋ぐもの

よろしくお願いいたします

 長月の半ば。朔夜は仮眠をとるために皇太子殿下の執務室を離れた。東宮殿を出て、寮に近い裏門へと向かう。

 その途中、建物と建物の間の細い隙間からいきなり飛び出してきた小さな影が、思いきり朔夜の脚にぶつかってきた。その正体は朔夜には考えるまでもなかった。幼な子が勢いで尻もちをつきそうになるのを、朔夜は咄嗟に手を伸ばして防いだ。

「ごめんなさい」

 彼女がこちらの顔を確かめるより先に謝ったのは、母の躾の賜物だった。彼女はいつも東宮殿の中を駆け回っていて、しょっちゅう誰かに体当たりしていた。

「糸」

 朔夜が目線の高さを合わせてその名を呼べば、彼女の顔はパッと明るくなった。

「父上」

 糸が歓声を上げながら朔夜に抱きつこうとして慌ててやめたので、朔夜は笑って娘を抱き上げた。

「今はお休みの時間だから大丈夫だよ」

 途端に糸も嬉しそうに朔夜の首にしっかりとその細い腕を回してきた。

 黒い着物で東宮殿にいる父は大事なお役目中なのだから邪魔をしてはいけないというのも、糸が母から常日頃言い聞かせられていることだった。

「糸、走っていても周りをしっかり見て、よく気をつけなさい。糸が怪我でもしたら父上はとても辛い」

「はい、父上。父上はどこに行くの?」

「お家に帰るんだよ」

「糸も行っていい?」

「母上がいいって言ったらね」

「母上に訊いてくる」

 朔夜が糸を放すと、糸は琴子のいる東宮妃殿に向かって駆けていった。朔夜も後を追おうと踵を返して、先ほど糸が飛び出してきた隙間のところにもうひとり子どもがいることに気づいた。

「千尋、おいで」

 朔夜が歩き出しながら声をかけると、千尋は大人しくついてきた。

 千尋はいつも糸の後をついて回っているが、その手には必ず本を持っていた。糸が花や昆虫などに気を取られて足を止めると、近くの木陰に座り込んでそれを開くのだ。おそらく絵本ではない。

 東宮妃殿の前まで来ると、やはり千尋はその前の段に腰かけて本を読み始めた。

 千尋の見た目は琴子が一目見てその華やかさに憧れたという母親似だが、目だけは朔夜をたびたび睨みつける父親譲りで、そのせいもあってか糸よりひとつ歳下の千尋が朔夜にはやけに落ち着いて見えた。

 たいして待たぬうちに、糸が出てきた。娘のむくれた顔を見れば、朔夜にも結果はすぐにわかった。

「糸が一緒だと父上が休めないから駄目だって」

「そうか」

 朔夜は娘と過ごす機会を逃して残念に思うが、娘も見るからにガッカリしてくれているので、少し気持ちがホッコリした。

「母上は父上のことを考えてくれたんだから、言うことを聞かないといけないな。糸はこのままここにいなさい。千尋と仲良くね」

「はあい」

 朔夜はもう一度糸を抱きしめてから、娘たちと分かれて再び裏門へと向かった。


 糸は今年7歳になった。

 糸の顔立ちは清楚で美しい琴子にそっくりだが、口元などは朔夜に似ているとよく言われる。

 それに、糸がああしてジッとしておれず走り回る様は朔夜の小さい頃と同じだ。かと思えば、殿下に会ったときには母とそっくりの仕草で礼をとってみせたりもする。

 子どもは要らないと思っていた昔の自分を斬り捨ててやりたいくらい、朔夜は娘が可愛いくて仕方なかった。殿下の黒の護衛が娘にだけは目尻を下げる、などと言われていようが一向に構わなかった。

 もっとも、それを聞いた殿下はフンと鼻で笑って言った。

「わたしの護衛は妻の前でも目尻を下げておるではないか」


 翌朝、朔夜は不寝番を終えると殿下の側を退がった。寮に戻って琴子と糸のいない部屋でひと眠りし、昼食を食べてから東宮殿に向かった。着物は黒ではなく薄水色。

 東宮妃殿の前に行き警護の衛士に取次を頼んだ。

「父上」

 すぐに中から糸が駆け出してきて朔夜に飛びついた。

「糸」

 朔夜は娘をしっかりと抱き上げた。

 後から琴子も出てきた。

「きちんと休まれましたか? 今夜も不寝番であること、お忘れになりませんように」

「大丈夫ですよ。では、行って来ます」

「行ってらっしゃいませ。糸、父上の仰ることをきちんと聞くのですよ」

「はい、母上」

 東宮妃殿の前で見送る琴子に向かい、糸は朔夜の腕の中からブンブン手を振っていた。


 朔夜は糸の手を引いて青龍門を出、南下した。以前、昼間に役目を離れた日に妻と向かっていた場所へ、今は娘とふたりで向かう。

 目的の屋敷は都でも五指に入ると言われる立派なものだ。その門前まで来るとすぐに門番が取次いでくれ、中から屋敷の奥方が姿を見せた。

「お祖母さま、ごきげんよう」

「ごきげんよう、糸」

「こんにちは。よろしくお願いいたします」

「ええ。いつもありがとう、朔夜どの」

「糸、父上が迎えに来るまで良い子にしているんだよ」

「はあい」

 糸が祖母に連れられて琴子の実家へと入って行くのを、朔夜は門前から見送った。

 屋敷の中には義父もいるはずだった。事前に義弟の史靖(ふみやす)に義父の在宅日を確認し、殿下に朔夜の休みを合わせてもらうのが毎度のことになっていた。


 まだ赤児だった糸を初めて連れて葛城家の屋敷を訪れた日、門前に出てきた家令の山野は朔夜と琴子に告げた。

「旦那さまが、姫さまと糸さまは入れても構わないが、婿さまは入れぬようにと仰っておいでです」

「私と糸だけなら入れていただかなくとも結構です。朔夜、帰りましょう」

 琴子はたちまち眉を寄せて屋敷に背を向けたが、朔夜は気になって山野に尋ねた。

「義父上は、正確には何と仰られたのですか?」

 山野は少し考える風を見せてから口を開いた。

「『琴子と糸だけなら入れて構わん。だが、琴子の夫は絶対に入れるな』と」

 それを聞くと、朔夜はそこまで腕に抱いて来た糸を琴子の腕に渡した。

「琴子、糸とふたりで行ってご挨拶してきてください」

「ですが……」

 琴子が反論しようするのを、朔夜は遮った。

「義父上が初めてわたしを琴子の夫と認めてくださったのですよ。糸は凄いですね」

 琴子は眉間に皺を寄せたまま言った。

「朔夜は人が良すぎます」

 琴子は腕の中の糸をしばらく見つめていたが、ふいに山野を呼ぶと彼の胸前に娘を押しつけた。山野は慌てたように糸を受け取った。

「私は夫と一緒にここで待っていますから、あなたが糸を連れて行ってちょうだい」

 山野は困惑したようだったが、琴子の言うとおりにしてくれた。

 門前で待つ間、琴子は一言も口にしなかった。

 やがて、義母が糸を抱いて屋敷から出てきた。

「糸を連れて来てくれありがとう。お父さまも喜んでいらっしゃったわ」

「本当かしら」

「本当よ」

「だとしても、もう連れて来ることはありませんので。史靖と唯子によろしく伝えてくださいませ」

 琴子は母の手から糸を抱きとると、さっさと門前から離れて歩き出した。

「申し訳ありません」

 朔夜は義母に頭を下げた。妻がへそを曲げたままなのは朔夜のためだとわかっていた。

 義母は苦笑しながら首を振った。

「こちらこそ、ごめんなさいね。でも、あの人も孫が可愛いのは間違いないのよ。もちろん、娘もね」

「はい」

 朔夜は頷いた。

 その後、朔夜が誘っても琴子は二度と実家に足を運ばなくなった。仕方なく朔夜は糸とふたりで訪ね、門前で義母に娘を預けるようになった。琴子はもちろん気づいたが、行くなとは言わなかった。


 一刻ほど街を歩いてから、朔夜は再び葛城家に向かった。義母に手を引かれて屋敷から出てきた糸が、朔夜に気づくとその手を放して駆け寄ってきた。

「父上」

「糸、良い子にしてたか?」

「はい」

「糸は今日もとっても良い子でしたよ」

 遅れて門まで来た義母がニッコリ笑って言った。

「お祖父さまにもらったの」

 そう言って糸が朔夜に見せたのは、表紙にたくさんの動物の絵が描かれた絵本だった。

 糸はここを訪れるたびに祖父から玩具や菓子などをもらってきた。少し前にもらった人形などあまりに精巧な造りで、価格はおろか、いったいどこに行けば手に入るものなのかさえ朔夜にはわからなかった。

「ちゃんとありがとうを言えたか?」

「はい」

「よし、糸は偉いな」

 朔夜が頭を撫でると、糸は嬉しそうに歓声をあげた。


 皇宮への帰り道、朔夜は糸にせがまれ娘を抱き上げて歩いていた。糸はその胸にしっかりと絵本を抱えていた。

 屋敷であったことを話してくれていた糸が、ふいに朔夜に尋ねた。

「父上、どうして母上はお祖父さまとお祖母さまのお家に行かないの? あっちのお祖母さまのお家にはいつも一緒に行くよ」

 あっちというのは朔夜の実家のことだろう。琴子はそちらには糸とふたりきりでもたびたび訪れ、朔夜が不寝番の夜に泊まってくることもあった。

 まだ幼いながらもそれが気になりはじめたらしい娘に対して、朔夜は誤魔化すための言葉を持っていなかった。

「父上がお屋敷に入れないから、母上も行かないでいてくれるんだよ」

「なんで父上は入れないの?」

「父上はお祖父さまを怒らせてしまったからね」

「お祖父さまは糸に優しいよ。なんで父上に怒ってるの?」

「お祖父さまの大事な娘を勝手に奪ってしまったんだ」

「糸のこと?」

「母上のことだよ」

「じゃあ糸がお祖父さまに父上を入れてってお願いしたら、母上も来る?」

「うん、どうかな」

「お祖父さまは母上と父上のこといつも糸に訊くよ」

 思わず朔夜は糸の顔を見つめた。

「父上のことも訊くの? どんなことを?」

「糸に優しいかとか、母上と仲良しかとか」

「そうか」

「糸はちゃんと、父上は母上に怒られても母上が大好きだよって言ったよ」

 糸の言葉に朔夜は声をたてて笑った。

「ありがとう、糸」

 朔夜は娘をしっかりと抱え直した。


 翌日の夜。

「ただいま帰りました」

 朔夜が部屋に帰ると、いつものように糸が抱きついてきた。

「父上、お帰りなさい」

 娘を放してから、朔夜はその横に立っていた妻も抱きしめた。

「お帰りなさいませ」

 琴子も朔夜の背に腕を回した。

 夕食と風呂が済み、糸が琴子に絵本を読んでもらうのを朔夜はそばで見守った。

 妻とふたりでの生活に入り込み、我が物顔でその膝に乗る存在を微笑ましく見つめる日が来るなど、昔の朔夜には想像もできなかった。

 一方で、朔夜がいくら琴子に娘を叱ったり躾けたりすることを丸投げしていようとも、糸が父より母にくっつきたがるのは仕方ないと朔夜は思っていた。あのとびきり可愛い娘を産んでくれたのは琴子なのだから、朔夜が敵うわけがない。

 やがて糸がうとうとしはじめると、琴子がそっと抱き上げて寝室へと運んでいった。

 しばらくして居間に戻ってくると、琴子は朔夜の隣に座った。朔夜は妻を抱き寄せて唇を重ねた。

「昨日のお土産は絵本だったのですね」

 琴子が朔夜の腕の中で言った。

「昨夜は糸が私に読んでくれたのですよ」

「さすが琴子の娘ですね。今度はわたしにも読んでくれますかね」

 朔夜は手を伸ばすと、昨日糸が大事に抱えていた絵本を棚から取った。

「糸はお祖父さまに読んでもらったと言ってました」

「父がこれを読んだのですか? 私は父に本を読んでもらったことなどありませんでしたのに」

「そうなのですか?」

「父上に読んでもらえる糸が少し羨ましいです」

 たまにだが、糸が朔夜に読んでと絵本を持ってくることもあった。琴子のように上手くは読めないが、娘の頼みを朔夜は拒めなかった。

「朔夜、読んでください」

「わたしが琴子に、ですか?」

「はい。糸ばかりずるいです」

 妻のおねだりも、もちろん朔夜は断われない。

「わかりました」

 朔夜は琴子を腕の中に置いたまま、絵本を開いた。物語は様々な動物が集まって仲良く宴を開くというものだった。

「朔夜の声は耳に心地よいです」

 朔夜がたどたどしくも読み終えると、琴子が言った。

「琴子に褒めてもらえて光栄です」

「それにしても、あの父がいったいどんな顔をしてこんな可愛らしいお話を読んだのでしょうか」

「ご本人に訊いてみては?」

 その言葉に琴子が答えなかったので、朔夜は再び口づけた。


 それからひと月ほどたった神無月のある日。政務の合間に殿下は妃殿下と中庭で散策を楽しんでいた。殿下は5歳の二の皇子さまを腕に抱いていた。

 琴子と苑子も側にいて、その向こうの木陰では千尋が本を読んでいた。

 珍しく糸が千尋の横に座りこんで、何やら話しかけていた。千尋は本に目線を落としつつも、糸を邪険にする様子はなかった。

 朔夜は隣にいる真雪(まさゆき)に尋ねた。

「真雪も小さい頃はあんな感じだったのか?」

「いや、わざわざ本を持って外に出たりはしなかった」

「つまり、本ばかり読んでいたのは同じなんだな」

「千尋はそこまで読んでないだろ。動いている時間も多い」

「うちの娘が引っ張りまわして悪いな」

「外に出て体を動かすことは悪いことではないだろ。それに千尋は運動神経も良さそうだ」

「ああ、苑子どのに似たのか」

「おまえは一言多い」

 真雪は朔夜を睨んだ。

 そのとき、中庭へ軽快に駆け込んできたのは糸よりふたつ歳上の一の皇子さまだった。講義が終わったのだろう。

 一の皇子さまは両親である殿下と妃殿下の前で礼をとると、すぐに糸と千尋に近寄っていった。並んで座っているふたりの間に強引に体を押し込みながら、糸に何か言っている。

 少し遅れて11歳の皇女さまもやって来た。皇女さまは礼をとると、そのまま殿下や妃殿下と会話をはじめた。


 数日後。朔夜は再び糸とふたりで葛城家の屋敷へと向かった。いつもどおり義母に糸を預け、一刻ほど後に門まで迎えに行く。

 やはり義母に手を引かれて屋敷から出て来た糸は朔夜の姿に気づくと笑って手を振り、だが何に気を取られたのか、突然門とは違う方向へと駆け出した。

「糸」

 朔夜は門の外から娘の名を呼び、義母が糸を追った。

「待って、糸。危ないわよ」

 義母の言葉で娘の行く先に池があることに気づき、朔夜は咄嗟に門を潜って走り出していた。朔夜を止めようとする者はいなかった。が、間に合わず目の前で水しぶきが上がった。

「糸」

 幸い池の縁はたいして深くなく、糸は転んだものの頭は水面に出ていた。朔夜が急いで糸を抱き上げると、糸は父親にしがみついてワッと泣き出した。

「よしよし、もう大丈夫だよ」

 朔夜は糸の背中を撫でながら、自分の胸の鼓動も鎮まってくれるのを待った。


 義母に促され糸を抱いて屋敷に入った朔夜に、義父は目を剥いた。

「どうしてそいつを入れたんだ」

「糸が池に落ちたのです。濡れたまま帰らせるわけにはいかないではありませんか」

「だったら糸だけ連れてくればいいだろうが」

「糸が朔夜どのから離れないのですから仕方ないでしょう」

「申し訳ありません」

 頭を下げた朔夜に、義父はさらに言い募った。

「だいたい、なんで糸が池に落ちるのを防げんのだ。それでも父親か」

「糸が落ちたのは家の庭の池です。朔夜どのを家に入れなかったのはあなたなのですから、あなたの責任ですわ」

 義母がきっぱりと言い切ったので、朔夜のほうが驚いた。

「いえ、わたしがもっと早くに糸を追っていれば良かったのです。やはりわたしの責任です。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

 朔夜は再び頭を下げた。

「糸、こちらにいらっしゃい。すぐに湯を用意しますからね」

 義母がそう言って糸の体に手を伸ばすと、先ほどは朔夜から離れようとしなかった糸が大人しく祖母に抱かれた。義母はそのまま奥へと入っていった。

 義父とふたりでとり残されて、朔夜は気まずい空気を感じた。義父は険しい目つきのまま朔夜を見ていたが、ふいにボソリと言った。

「おまえに貸せる着物など家にはないぞ」

 朔夜も着物のあちこちがグッショリと濡れていた。

「もちろん、わたしはこのままで大丈夫です」

 朔夜はすぐに答えたが、義父は表情を変えぬまま言った。

「おまえは背が高すぎる。小さいだろうが史靖ので我慢するんだな」

 朔夜は目を瞬き、それから首を振った。

「いえ、本当にわたしのことは気になさらないでください」

「一度家に入れてしまった以上、そのままで帰せるか。我が家の恥だ」

 義父の声が大きくなり、朔夜は三たび頭を下げた。

「すみません」

 さらに朔夜をしばらく睨んでから、義父は朔夜のすぐ脇にある飾り棚を指差した。

「それ、糸が忘れていったものだ。持って帰れ」

 見れば、高価そうな壺に寄りかかって明らかに場違いなうさぎのぬいぐるみが座っていた。

「はい、すみません」

 朔夜は慌てて、だが慎重にそれを手にとった。そういえば屋敷から出て来たとき、糸は手に何も持っていなかったと朔夜は思い出した。

「あの、義父上」

 朔夜はそう呼んでしまってから「太政大臣さま」と言い直すべきかと考えたが、義父が咎めなかったので続けた。

「いつも糸を可愛がっていただいてありがとうございます」

「孫だから仕方ない。おまえに礼を言われるようなことではないわ」

 言葉のわりに、義父の声は穏やかだった。そのことに励まされ、朔夜は思い切って言った。

「糸が生まれて、わたしも父親になって、ようやく自分が義父上に対してどんなに申し訳のないことをしてきたのかがわかりました。ですが、わたしには琴子が必要で、もう義父上にお返しすることはできません。だから、わたしのことはどうでもいいので、琴子のことは許してもらえないでしょうか」

 義父はジッと朔夜を見てから口を開いた。

「だが、琴子はおまえが一緒でなければ来ないのだろう」

 朔夜が言葉に詰まると、義父は溜息を吐いた。

「次からは琴子も連れて3人で来い。そうすれば、おまえのことも少しは考えてやる」

 そう言って義父が奥へと入っていくのを、朔夜は呆然と見送った。


 どうやら唯子は夫の着物の中から黒っぽいものを選んで朔夜に貸してくれたようだった。だが色よりも、脛まで覗く丈よりも、朔夜は着慣れない絹の感触に居心地の悪さを感じていた。

 どうせなら門番あたりの着物を借りたかったが、義弟のものを貸してくれたのは義父なりの心遣いなのだろうと思うと、朔夜は言い出せなかった。

 家族の居間らしい部屋では暖炉が焚かれ、朔夜と糸の濡れた着物がその周りに掛けられていた。朔夜はそこで温かい茶を振舞われたが、初めての味で美味しいのかどうかもよくわからなかった。

 冷静になってから改めて部屋の中を見回せば、屋敷の外観ほどに豪奢な印象はなかった。しかし一見落ち着いて見える重厚な家具やさりげなく置かれた調度品の価値などやはり朔夜にわかるはずもない。

 しばらくすると、義母とともに糸が部屋に入ってきた。従姉の着物を借りた糸は怪我もなかったようで、すっかり元気を取り戻していた。

「父上がお家の中にいる」

 走り寄って朔夜の膝に乗りながら糸が無邪気に言うので、朔夜は苦笑した。

「ほら、糸、お祖父さまにせっかくいただいたのに忘れたら駄目だろう」

 朔夜がそばに置いておいたうさぎのぬいぐるみを差し出すと、糸は嬉しそうに胸に抱き寄せた。

「うさぎさん、濡れなくて良かったね」

 糸の様子を見つめながら、義母が口を開いた。

「琴子もあの池に落ちたことがあったのよ。糸よりも小さい頃だったから本人は覚えてないかもしれないけど、それこそ旦那さまの目の前でね」

「そうだったのですか」

 朔夜は目を見開いた。

「あの子も、何かに気を取られると夢中になってしまうところがあったから。あの時は蝶々だったかしら」

 そういえばそうだったと、朔夜は出会ったばかりの頃の14歳だった妻の姿を思い出した。将来彼女と夫婦になって娘を持つなど、まだ考えもしなかった昔のことだ。


 半乾き程度になった着物を着て、朔夜は糸とともに葛城家をあとにした。

「糸、いつも言ってるけど、走っていてもしっかり周りを見なければ駄目だ。今日みたいなことがまたあったら、父上は耐えられない」

 手を繋いで隣を歩く娘に、朔夜はゆっくりと言い聞かせた。

「はい、父上。ごめんなさい」

「それにしても、さっきはいったい何を見つけて走り出したんだ?」

 朔夜が訊くと、糸は首を傾げた。

「わかんない」

「そうか。まあいいや。お祖父さまが次は母上と一緒においでって言ってくださったよ」

「父上も行く?」

「うん。父上も行くよ」

 朔夜が答えると、糸は歓声をあげて飛び跳ねた。

 琴子に今日のことを話したらどんな反応をするのだろうか。糸が池に落ちたと知れば、やはり怒るかもしれない。

 それでもきっと、次は琴子も一緒にあの屋敷を訪ねてくれるはずだ。

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