道化
「それはもう恋だね、恋」
目を輝かせながら前のめりに、嬉々とした表情で知子が言った。
「いや、そんなんじゃないよ。友達だよ。ただの友達」
私はうんざりしながら、友の冷やかしを否定する。
「だって毎日夜に会って遊んでるんでしょ?毎日でしょ?それはただの友達って言わないよ。よ、この不良娘!」
知子が両手を口元にあて、メガホンの様にして叫ぶ。
「あんたはおやじか」
「いいじゃない。あんたそんな話、昔から一切なかったんだからさ」
知子が口を尖らせる。
確かに私には昔から浮いた話のひとつもなかった。そんな私だからこそ、知子には今の状況が嬉しく、また茶化し甲斐があるのだろう。
「あんたに好きな人っていたことあったっけ?」
「さあ、どうだったかなあ」
「どうだったかなあってあんた、自分のことでしょ。そんなんだから……。あんた、あんたの知らない所で結構人気あったりするのよ?」
知子が呆れた顔で指摘したが、まさかそんなことはあるまい。
それにその台詞なら、そっくりそのまま知子に返したい台詞である。
どれだけの男子が物陰からこの色恋に鈍感な美少女のことを恋する瞳で見つめているのか、この子は分かっているのだろうか。
「あ、でもあんたの好きなタイプってマサル丸というよりも、風雲寺善太郎だもんね」
「まあ『ジュブナイル』でいうと、確かに風雲寺善太郎が一番だけど…………」
「あたしは勿論サミダレだけどねえ」
知子は嬉しそうにそう言うと身もだえした。
この子が現実の恋愛に全くもって疎い原因は、この『サミダレ命』が一端を担っていると私は常々考えている。
正直なところを言うと、私は彼のことが、嫌いではない。
ただ、そういうことはよく分からないのだ。
普段から考えないし、なにより面倒くさい。
昔、好きになった男の子がいた気がしたが、結局その子とはどうなったのだろう?告白したんだっけ。引っ越していったんだっけ。よく思い出せない。最近物忘れが激しいような気がする。まあ、しかし、よく思い出せない程度の思い出。そういうことだろう。
今の私に大切なのは恋でもなく、思い出でもない。ただ、死ぬことだった。
夜になり、私は死ぬために学校へ向かう。いつもの時間に家を出た。
家を出て角を曲がった時に後ろから気配を感じた。
彼だろうか。
後ろを振り返ると、そこには全身を覆うコートを着て、ハンティング帽を深く被りマスクを着け、サングラスをかけた中年男性と思わしき人物が立っていた。
――なんだ、彼ではないのか。
そこで、ここ何日かで背後の気配に関して敏感になっている自分に気がつき、苦笑いする。
私が少し大げさに振り向いてしまったので、後ろを歩いている只の通行人である、全身を覆うコートを着て、ハンティング帽を深く被りマスクを着け、サングラスをかけた中年男性と思わしき人物を驚かせてしまったかもしれない。
私のことを不審に思っただろう。
申し訳ないことをした。
私は角を曲がる。
後ろもついてきていた。
私との距離は先ほどよりも少し縮まっている。
少し歩くスピードを上げる。
後ろもスピードを上げた。
なかなか私と息の合う全身を覆うコートを着て、ハンティング帽を深く被りマスクを着け、サングラスをかけた中年男性と思わしき人物である。
「…………」
ううむ。
実はさっきから一つの仮説が頭の中に浮かんではいるのだが、どうだろうか。
後ろを歩いているのは、とても不審な人物で、ひょっとしたら変態の人なのではないか、という仮説だ。
考えているうちにも私とその人物の距離は詰められていく。息遣いまで聞こえてきたような気がした。私の背筋がゾッとなる。
私は我慢出来なくなり走りだした。その途端にも、後ろから私とほぼ同じリズムの足音が響いてくる。
――あ、これは……変態の人だ。
仮説が確信へと変わる。私は最早、恐怖で後ろを振り向く余裕もなくなってしまっていた。
とにかく逃げなければ。
角を曲がり、いつもの学校前のまっすぐな道へ出る。
そこで目に飛び込んできたのは、上下黒のジャージ、ニット帽を被ったいつもの後ろ姿だった。
私は思わず安堵のため息をついた。
助かった。
彼はまだ私には気づいていない様子だ。
私は彼のもとまで走った。後ろの変態はまだ追いかけてきている。
捕まってなるものか。
ラストスパートだ。
そして私はとうとう彼に追いついた。
良かった、これで助かった。
その肩に手を置く。
彼が振り返った。
「やあ。どうしたんだい?」
そこには、いつもの彼と同じ格好をした、見たことないおっさんが立っていた。
「誰だよ!」
私はそのおっさんを思いっきりぶん殴った。
おっさんは吹き飛び、傾斜を転がり、川に落ちた。
「紛らわしいことすんな!誰だよ!」
私は川を流されていく見知らぬおっさんに思いっきり悪態をついていた。
なんだか、もう驚きよりも先に突っ込みが発動していた。
どうでもいいが、人を殴ったのは生まれて初めてだった。
しかし、何故彼と同じ格好のおっさんがいたのだろうか。
一体どうなっているのだ。
「ははあ」
そこで私は合点がいった。
ということは…………こいつか。
私は後ろを振り返る。
そこにはコートにサングラス、マスク着用の変態男が黙って立っていた。
私は服装で彼が中年男性だと決め付けていたが、実際には顔はよく見えていなかった。
つまり、誰かが変装していても分からなかったということだ。
手の込んだことを…………。
私は彼に近づく。そして、帽子とサングラス、マスクを乱暴に剥ぎ取った。
その正体が、口を開く。
「ふっ、バレちゃあ仕方ないな…………」
それは…………見たことないおっさんだった。
「だから誰だよ!」
思いきりぶん殴った。
変態なおっさんは吹き飛び、傾斜を転がり、川に落ちた。
「全くわけがわからない!何なんだよ、本当に。『ふっ、バレちゃあ仕方ない…………』ってなにさ!意味深なこと言うなよ。バレたもなにも、もともとあんたなんか知らないよ!!」
それから私は「死んでしまえ」的な意味に値するいくつかの、ある程度のレベルで汚い言葉を、仲良く川に流されているおっさん2人の姿が見えなくなるまで放ち続けた。
怒りと驚きと勢いとで、おかしなテンションになっているのが自分でも分かったが、留まることは出来なかったし、その気もなかった。
そしてその後、彼はいつもの格好でいつものように「やあ」とやってきた。
私が何度彼を問い詰めても彼は「さあ」だとか「なんのことだか」と言ってはぐらかされ、結局私は変態なおっさんを川に流した手柄と何の罪もないおっさんを川に流した罪とで「プラスマイナスゼロの女」に認定された。
その日はブタ○ントンをした。
まさかあの懐かしいレトロゲームがあんな結果になるとは、というぐらい破天荒で波乱万丈な凄い結末になった。
その後2人で川原に座り、缶コーヒーを飲んだ。
時刻は十時を回っていたが、それは私達にしてみればまだ早い時間だった。
「ねえ」
「なんだ」
「あなた何者ですか?」
私はずっと聞きたくて聞けなかったことを訊ねた。口に出すのは思ったよりも簡単だった。
彼はうーんとうなり、黙りこくり、しばらく経ってから口を開いた。
「一体何者だと思う?」
「とりあえず絶対暇人です」
「とりあえずから結構ひどいすね」
彼は苦笑いを浮かべる。
「だって、毎日毎日、こんな本当にしょうもないこと色々よく考えるなあ、本当にしょうもないなって思います。こんな天下一しょうもない武道会で上位に選ばれそうな多種多様なしょうもないことなんて、全くもってやる意味も分からないですし」
「ちょっと……それ以上はやめて。泣いちゃいそうだから」
気付かないうちになにやら彼に精神的ダメージを与えてしまっていたらしい。彼は頭を抱え、そっぽを向いていた。よく分からないが、傷つけてしまったようだ。
「あ、でもそれに毎日付き合う私のような者も、よっぽどクズな社会に一抹の貢献すらしていない、暇人だと思いますよ。本当、今の私なんかに比べたら、コンビニのレジに置いてある確実にその時勤務していた店員の実力によって犯人検挙率が左右され、そもそも本当に実用向きなのかどうか買い物する度に毎回考えてしまう防犯用カラーボールの方が、もし強盗が入ったらと不安におびえる店員の、本当に藁をもすがりたい心の支えとなっている分、よっぽど役に立ってますよ」
「あんたフォローのつもりか知らんけど、よくそんなに自分と防犯用カラーボールのことボロカスに言えるね。それにそれ、フォローじゃなくて、俺とあんた共倒れなだけだから。俺もあんたも防犯用カラーボール以下だから」
一々注文の多い男だった。
それから彼は少しの間の沈黙を私と分け合い、口を開いた。
「俺は……そうだな。道化だ」
道化と、彼は言った。
「道化って、ピエロですか?」
私の問いに彼が首を横に振る。
「あれは道化師。おどけてるのが仕事さ」
「じゃああなたのは?」
「……使命、とか?」
「いや、とか?って聞かれても……」
私の言葉に彼が笑った。
「……よく分からないです。まあ、つまり使命でふざけてるわけですね、あなたはいつも」
「そう、ふざけてるの。道化だから」
「あんまりおふざけが過ぎるとまた警察に捕まりますよ」
「そんなん知るか!」
驚いたことに、彼は全く懲りてなかった。
「じゃあ、なんの意味があるって言うんですか?これに。意味なんてないじゃないですか」
私は更に追及する。
「あんた今幸せかい?」
「幸せ……じゃないです」
質問を質問で返され、言い返そうかと思ったが、口から出たのは彼からの問いに対する答えだった。
だって私は死にたいのだ。
死にたい人間が幸せなはずなかった。
私の答えを聞いて、彼が体を起こす。
「そうか、それは結構。まあ、俺は道化だ。人を楽しませるだけの存在だ。あんたには、幸せにはならなくても、楽しくなってもらわないと困る」
結局「道化」というものの意味はよく分からなかったが、彼が面白いのは確かだ。
「そりゃ、楽しいといえば楽しいですけど……」
「死にたくなくなるほどじゃあないか?」
「そう死にたくなくなるほどじゃあ…………って、え?」
彼の言葉に、私は思わず顔を上げた。