初会話
家で私は考えていた。
ここ数日の出来事。
あれは、本当に夢でも見ていたのではないのだろうか。
――いや、そんなはずはない。
私は自分の考えを否定する。
そう、缶コーヒーだ。
あの缶コーヒーの甘さだけは夢ではなく、現実に私が感じた味に間違いなかった。あれが夢だなんて、あの優しい甘さが夢だなんて、それこそ、そんな残酷な現実ってない……。
でも、もうそんなことはどうでもいいのだった。今日こそ、私は死ぬ。
毎度毎度へんてこな現象に邪魔されてはたまらない。
――どんなことがあっても私は今日、絶対死にますから。
そう心に、敬語で誓った。
そして例のごとく、私は死ぬ為に学校の前のまっすぐな道を歩く。
相変わらず閑散とした道だ。
今日は風もなく、雲もなく、月が空に綺麗に映し出された夜だった。
その時、背後から気配を感じた。
――来たか。
この人は、一昨日は川に流され、昨日は警察に捕まりと、踏んだり蹴ったりにも関わらず、何故懲りずにまたここにやって来るのだろうか。まずその根性がまったくもって理解不能だった。
昨日飛び散った筈の上下黒のジャージにニット帽。
同じ物を持っていたのだろうか。
まるで昨日の出来事などなかったのかと錯覚してしまうほど、変わらぬ服装だった。
自然と彼のことを考えてしまう。
いけない。
私は頭をぶんぶんと振る。
もう、関係ない。私は、死ぬのだ。
今日はもう振り回されない。昨日も一昨日も、このバナナマンに道を譲った後におかしなことは起きた。
だから――もう道は譲らない。
私は私の道を行く。
私の一世一代、死への行進は邪魔させない。
私は少し早歩きで進む。
彼は普段、そんなに速いスピードで走ってはいない。早歩きで前を歩いていれば、先に校門までたどり着くのは私だ。
後ろから彼が近づいてくる足音もまだ聞こえてこない。
振り返らずに前を向いて進む。
そうこうしている間に私は校門までたどり着いた。
やった。
こんな簡単なことだったのだ。
思い返してみれば、ここまでの道のりが長かった。
ここまで辿り着く前に、奇天烈なイベントが発生して、私の死ぬ気を失せさせた。
でも今日こそ、今日こそ私は死ぬのだ。
このまま振り返らずに校門を抜けよう。
彼の生命力に当てられてはいけない。そんな気がした。
だがそれと同時に、でも最後に一度だけ振り返っても……いいのではないか。
どこからかそんな気持ちが湧いてくる。
もうここまでくれば勝利は目前。その前にここ三日間大変な思いをした彼をねぎらう意味でも。そして、私の今日までの人生を振り返る意味でも、それぐらいは大丈夫ではないか。そう思った。
――ほんの一瞬だけだ。
そう心に誓い、私は後ろを振り返った。
だがそこには、上下黒のジャージでニット帽を被った彼の姿はなかった。
いや、正確に言うと、いるにはいたのだが。
いや、その。かと言って服が飛び散っていたわけでもなく…………いや、しかし、今回はこれどういうことだ?
まあいい。状況をそのまま説明しよう。
振り返って私が見た光景。
いつの間にか彼は、グレーのスーツを着て赤のネクタイをしめ、肩までかかる長い髪のカツラを被っていた。
いつ着替えたのだ……。
確かに今日は追い抜かれない様に少し早足で学校に向かって歩いていた。
だから私が見ていない間に着替えることは、物理的には可能だっただろう。
いや、確かに可能は可能だったわけだが、だが…………一体何の為に?
彼はもう走っていなかった。この三日間、ジョギングをしていたことが幻だったかのように、ゆっくり大股で歩いている。髪をかき上げ、川原や、廃ビル、なんの面白味もない風景を見渡しながら、嘘くさい笑顔でうんうんと何度も頷き、夜の道を歩いていた。
――何なのだこれは。
そこに、突然川原を駆け上がってくる人影が現れた。
それは学生服を着た生徒達だった。
男子生徒二人が追いかけっこをしながらグレイスーツでカツラの彼の横を通り過ぎていく。
彼はそれを見て、笑いながら「こらー、前をむいて歩かんかー」等といった注意を促す。
今度は後ろから女性徒の集団が礼儀正しく挨拶をしていく。
彼も「おう、おはよう」とにこやかに返す。
そして更に、廃ビルの割れた窓ガラスの中からも人影が飛び出してきた。
金髪ブロンドの外人女性が二人、ランニングシャツに短パンの装備で現れた。
というか何故廃ビルから外人さんが……。
季節感の欠如したあまりにも寒々しい格好をした外人女性二人は、カツラの彼にすれ違いぎわに挨拶をした。彼の方もわざとらしいオーバーリアクションで挨拶を返す。
うん…………これは、もう間違いない。あれだ。
あれのオープニングだ。
最近は放送されていないが、もう何十年前から始まり、長くシリーズが続いた、某国民的有名学園ドラマのオープニングだ。
そのオープニングの再現が何故か夜の八時、人気のない薄暗い高校前の閑散とした、ロケーションとしては確実に最悪なこの道を舞台に行われていたのだ。
私の脳は意味のわからなさ加減のリミッターをとっくの昔にオーバーしている。
三年B組バナナマン先生だ。
生徒や先生、ジョギングをする人々の数はどんどん増えていっている。気がつくとカツラの先生(もう、これは確実にあの先生の格好なので、先生と呼ぼう)の周りには十数名近くの人だかりができていた。
そして、私にぐんぐんと近づいてくる。
その集団がゆっくりと攻めてきた時、私は確かな恐怖を感じた。
集団は皆、私のいる校門を目指して歩いてきているのだ。
――どうする?どうすればいいのだ?
逃げようにも、足がすくんで動けない。
そうこうしている間にも集団はどんどん距離を詰めてくる。
あと5メートル。
3メートル。
1メートル。
私の目の前を。
通る。
「先生おはようございます」
「うむ、おはよう」
気がつくと私は、先生に挨拶をしていた。
彼も間髪入れずに返してくれる。
それは、私と彼が初めて会話をした瞬間だった。
そして、そのまま彼と彼を取り巻く数十名は、既に学校も終わり、完全に閉まっている校門を平気な顔でよじ登り、皆でわいわいと電気の消えた校舎へと消えていった。
遠巻きに彼の「今日の一時間目は、ドッチボールだこのやろー」という声が聞こえ、「やったあ!」という生徒たちの歓声がフェードアウト気味に聞こえた。
気がつくと、あたりは元の静けさを取り戻していた。
そして、校門の前にはいつの間にか、缶コーヒーが置かれていた。
缶コーヒーを拾い、石ころを蹴飛ばして家路をたどりながら、私は叫んだ。
「一時間目、ドッチボールってなんだよ!それとどうでもいいけど外人さんも一緒に校内に入っていくのは設定上おかしいよ!なんでだよ!!」
そう、綺麗なお月様に向かって突っ込んでいた。
そして、現象はこの夜を境に段々とエスカレートしていった。
次の日は、廃ビルや川原から衣服や皮膚が血にまみれた人間(ゾンビ?)が現れるのをバナナマンがどこからか用意したハリセンで片っ端からどついていくという、全く意味の分からない催しだった。
最終的には大量発生したゾンビ達の数に押され、彼は廃ビルの中へと引きずられていった。
「ノー!サノバビッチ!」という彼の下手糞な英語に一瞬ムカッとした。
また次の日は、彼が落ち武者の格好をして、ただハンバーガーを食べているだけだった。落ち武者がムシャムシャとハンバーガーを次から次へとパクつくのを一時間近く見せられるだけで、それ以上何も起こらなかった。
帰路につきながら、私は「……今回は正直イマイチだったな」と思ったが、家に帰りベッドに入った瞬間に「武者がムシャムシャ食べる」という今回の趣旨に気が付き、あまりのくだらなさ加減につい笑いだしてしまい、上手く寝付けなかった。
――――――――――
「そこまで来ると、もう分けわかんなさ過ぎってのを通り越して、出会いだよね出会い」
知子はそう言った。
「出会いって。殆ど会話したことないんだよ?」
そう、私は彼とまだ会話を殆ど交わしていない。某有名教師ドラマの教師役をやっていた彼に「おはようございます」と声をかけた、あの一回きりだった。
それを聞いて知子がやれやれと、首を振る。
「あんたも相変わらず奥手だねえ。ねえ、その人って、どんな顔してるの?」
「その人って?」
「主犯格。3年B組バナナマン先生」
主犯格、なのか。まあ、確かにどんなバリエーションでも必ず参加しているレギュラーメンバーは彼だけだ。
「うーん、普通かな」
「おっさんじゃないんだ」
「おっさんじゃない」
そう答えると、知子が身を乗り出してきた。
「『ジュブナイル』のサミダレとどっちが格好良い?」
「サミダレ様に敵うわけないでしょう」
そりゃあ、完全無欠のサミダレ様と比べられたら彼も可哀想だ。
「それもそうだね」
確かに、と頬に指を添える知子。
「じゃあ、マサル丸とは?」
「うーん……微妙だけど、そのセン」
知子の耳がピクっと動く。
「ほほう、つまり、ワンパク系ですな」
「ですな」
2人で顔を見合わせてニヤリとした。
まだ幼さが少し残る、浅黒い顔をした顔。いつも薄暗い場所でしか見ることがないから、精細な部分までは分からないが、悪戯好きな猫の様な、切れ長だけど、次の瞬間には真ん丸くなる瞳は印象的だった。
確かに、タイプで言うなら「ジュブナイル」のマサル丸だな……。
「そんなに年も離れていないと思う。高校生か、上でも大学生とか、そのくらいじゃないかな」
「……ひょっとしてさ、あんたの気を引きたいとか、そんなんじゃないの?」
そう言って知子は茶化すような視線を私に向ける。
バナナマンが私を?なんだかピンとこない。
「まあ……確かに気が引かれないかと言われたら、そりゃあ引かれるけど。でも、同時に引くし……。尋常じゃないくらい引くし。だから、知子の言ってるようなのとは違うと思う」
あれで私の気持ちをどうこうしたいというのならば、彼はとてつもないセンスの持ち主だ。
シュールにも程がある。
「でも、もう終わるよ、あんなの。ある日突然なくなるの。そんなもんだよ」
そう言う私に知子はちっちっちと人差し指を左右に振って否定した。
「いや、私の予想ではここからもっと、色々と盛り上がっていくと思うな」
「なにさそれ。色々ってどういうこと」
「色々は色々だ!私には分かる。知子は何でも知っている子だからね」
「なにそれ、わけ分かんない。そんなことないよ。普通にある日いなくなっておしまい。そうなるに決まってるじゃん。それでおしまい」
そう、根競べじゃあないが、私には確固たる意思がある。
私があの場所に向かい続ける限り。
その内彼は来なくなっておしまいだ。
そして、私の人生も、おしまいだ。
私は死ぬのだ。
しかし、私の予想は外れる。
知子の言った通り、更に事態は盛り上がっていくことになるのだった。