突風
そして次の日の夜も、私は学校の屋上へと向かっていた。
勿論、死ぬ為である。
別段、死に場所に拘りがあるわけではないのだが、何故か頭の中では屋上以外の死に場所を認めていなかった。
家を出て、道を歩く。
肌寒い夜の道中、周りには人気もなく、空に映る月明かりが私を照らし続けていた。
校門まで続くいつものまっすぐな道についた時、後ろに気配を感じた。
もう見なくても分かる。
上下黒のジャージにニット帽を被った男。
その名もバナナマンだった。
――昨日あんなことがあったのに、今日もよく走るな。
というかよく生きていたものだ。そう思いながらぼんやりと、近づいてくる影を眺めていた。
私は昨日、一昨日と同じく少し体をかわし、彼に道を譲る。
颯爽と私の前を走り去る彼。
昨日は突然の不幸に見舞われてしまった所為で大変だったろう。しかしその走りに迷いはなかった。
――さようなら、バナナマン。昨日は笑わせてもらったよ。私にとって貴方は最後のヒーローだった。
心の中でそう呟く。今度こそ二度と会うことはないだろう。
さて、と私は再び学校に向かって歩き出した。目の前にはバナナマンの後ろ姿。
今日道を譲った時に初めて顔を見てみたが、結構若かった。私よりは年上だろうが、そんなに上ということもないだろう。浅黒い肌に人懐っこそうな瞳を覗かせていた。
――彼みたいな人間は死にたいだなんて思わないんだろうな…………。
彼の背中を見ながらそんなことを考えていたその時、どこからともなく強風が吹いた。
その瞬間――服が飛び散り(これは何度考えて言葉を探しても「飛び散る」としか表現しようがない)彼は一瞬で全裸になった。
……………………。
……………………。
……………………。
……………………。
――――――え?
見事に全裸だった。
全く意味が分からなかった。目を疑う私だが、揺るぎない現実は目の前に、しっかりと存在している。
そう。彼は全裸も全裸、素っ裸なのだ。
それは一瞬の出来事だった。
私は目の前で彼を眺めていたのだ。
本人が自分で脱いだわけではない。瞬きの間に全裸になれる人間を私は知らない。
それに、風が吹いた瞬間に、私ははっきりと見たのだ。
彼のジャージがまるで紙かチーズのようにいとも簡単に裂け、ジャージの上着左腕部分は北、トランクス右半分は南西、ニットは北北東へとでもいうように、各々が意思をもった魔法の布の様に方々へ散っていく姿を。
そして残ったのは全裸でランニングシューズを履いた男。
私は驚きのあまり、悲鳴を上げることさえ忘れ、彼を凝視した。
後ろ姿の為、その全体像は窺えないが、まあ、間違いなく、全裸だった。
見間違いだとか、そんなレベルではない。
実は裸の着ぐるみを着ていました等というつまらないオチでもない。
今、ここで断言しよう。目の前にいる彼は――全裸であると。
ジョギングをしていたら突然服が飛び散り全裸になったのだ。本人の驚きといったらないだろう。
一体彼に何が起きたのか。それは全く分からない。強風の為?かまいたち?いやまさか。私の服は無傷だ。
原因はともかくとして確実に神は彼に過酷な試練を与えた。
人は突然全裸になったら、どのような行動を取るのか。取るべきなのか。
明日は我が身かもしれない。
私は、この後の彼の一挙手一投足に注目することにした。
どうするバナナマン。
今日は今日でバナナマン。
この後の彼の行動に、私は驚愕する事となる。
私の心配を嘲笑うかのように、彼は全く何事もなく自分のペースを守って走り続けていたのだ。
――まさか…………。
そんなまさか……。ひょっとして…………自分が全裸になったことに気がついていない?
そんな、まさか?
確かに彼は一昨日、靴を左右履き間違え、昨日は目の前に転がっているバナナの皮に気づかなかった。それを鑑みるに彼の眼球はかなり重度の節穴であることは決定的に間違いない。
間違いないのだが……。
いくら節穴だからといって、自分が全裸になっていることに気がつかない程壊滅的なレベルの鈍感な人間が、この世界に存在するだろうか。
そこまでたどり着いた者を最早私は人間とは呼ばない。それは聖人だ。
私の困惑などはお構いなしにセイントバナナマンは軽快に、そう、軽快に何事もなかったかのように月明かりに照らされながらジョギングを続けている。
いや、気付いていない彼にとっては、本当に何事も起きていないのだろうけど。
いくらちょっと薄暗いからって…………気がつくだろう。だって、全裸なのだから。
ちょっとスースーするとかのレベルではないだろう?
ちょっと体軽くなったとかのレベルではないだろう?
ちょっと開放的になったとかのレベルではないだろう?
体の感触で体感出来なくても、長袖のジャージを着ているのだから、ちらっと手首を見た時点で、あれ?俺のジャージは?となってもいいものを。
彼は校門を突き当たり左に曲がる。そこを真っ直ぐ進むと駅前にたどり着く。この時間ならまだ人がたくさんいるだろう。そこを全裸で……。ちょっと待て。全裸なんだぞ、全裸。ちょっと……。
「いや、気づけよ!!!」
私の心からの叫びなど、 全く意に返すこともなく、全裸のジョギング男は街の光の中へと、消えていった。
後には綺麗な月明かりと優しいそよ風だけが残った。
気がつくと私は校門の前まで来ていた。門の下には、ある物が置かれていた。缶コーヒーだ。
私はそれを拾い上げポケットに入れると、校門に背を向け、歩き出した。
「本日午後8時過ぎ、駅前商店街のアーケード街を、全裸の少年がランニングしているという通報が入り、まもなく到着した警察に取り押さえられました。少年は取り調べに対し『ジャージを着て走っていたと思っていたのだが、気がついた時には全裸になっていた』と供述しており、警察は、この少年が普段から薬物を常用していた疑いをかけ、家宅捜索を…………」
そのニュースを聞きながら、私は自室のベッドで息も出来ない程笑い転げた。
彼には大変申し訳ないが、我慢出来るわけがなかった。
しばらく笑い転げ、落ち着いてから私はポケットからすっかり冷めてしまった缶コーヒーを取り出し、飲んだ。甘くて、美味しかった。
内ポケットに入れていた遺書を机の引き出しに放り込んで、またベッドに飛び込む。
――とにもかくにも死ぬのは、また明日。