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バナナ

 人は生きている瞬間に既に何かを殺していると、どこかの国の学者がテレビで言っているのを聞いたことがある。正にその通りだと私はモニターを見ながら頷いたものだ。

 当然、私だって誰かを傷つけ、食いものにして生きていることには変わりない。

 人を非難出来ないのは分かっている。


 そのことに気づいてしまった。


 いや、実を言うともうずっと前から薄々気がついていたのだった。

 気がつかない振りをしていた。

 卑怯で矮小な自分をまっすぐに見つめることをしなかった。そのことが更に自らを愚鈍な存在へと変貌させていった。

 だから早くこの世界から逃げ出そうと思った。

 そう、それが私が死にたい理由。

 それが、私が死にたい理由……だったのだろうか?

 その通りだという気もするが、そんな事ではないという気もする。

 そもそも、私自身が死に理由を付ける事自体、無意味な様な気がしてならない。

 そうだ。理由などいらない。

 必要なのは私が死ぬという事実、それだけだ。


 そういうわけで、今日こそ死ぬ。


 昨日は突然に奇天烈な状況と遭遇してしまって、少々興が削がれてしまった。


 うん。まあ、正直に言おう。


 心が愉快な気持ちになってしまったのだ。

 その心境に、自分でもよく分からない動揺を覚えた。

 ほんの少し死が遠ざかった様な気がしたのだ。

 だから昨日は死ぬのを見合わせた。

 別にどうしても昨日死ななければならない訳ではなかった。

 それだけの事だ。


 ただ、絶対に誤解しないでもらいたいのは、私が死ぬという決定事項は変わらないという事である。

 私は死ぬ。

 その事実さえぶれなければ全くもって焦る必要はないのだ。

 私は机の引き出しから遺書を取り出すと、制服の内ポケットに入れて、家を出た。

 


 そして私は昨日と同じ時間に、同じ場所にいた。学校へと続く道は相変わらず人気がなく、校舎は今日も職員室のみ灯りが点っていた。


 さあ、どうやって屋上の鍵を入手しようか。


 うちの高校の屋上は少し前まで、普通に開放されていた時期があった。危機管理が激しく追及される今の世の中ではなかなか珍しい学校の部類に入るだろう。田舎の高校の日和見主義、危機管理不足、更には昔からそういうものなのだという慣習も手伝い、危険性はないと学校側が楽観視していたようだ。

 だが、それがここ二、三年で屋上に厳重な施錠がされるようになった。

 真偽の程は確かではないが、一人の生徒が自殺を図った、という噂だ。

 だがそれは屋上ではなく別の教室だったそうだが、それでも学校側として、危険が想像出来る様々な所に措置を取らないわけにはいかなかった。

 そんな事件があったにも関わらずそのまま暢気に屋上を開放し続けて、保護者や教育委員会からクレームが上がらないわけがない。学校としては当然の対処と言えただろう。

 しかし、それにしたってもう二年以上前の噂だ。どこまで本当かは分からないのだが、ひょっとしたら生徒の自殺などではなく、この物騒なご時世に学校側が進んで安全性を考慮して取った事前策を、人々が歪曲に伝えて生まれたエピソードなのかもしれない。

 どちらにしろ今の私にとってはいい迷惑以外の何ものでもなかった。


 気がつくと私は校門まであと二十メートルといった所まで歩みを進めていた。

 そこで後ろに気配を感じる。振り向くと、人影が近づいてきていた。


 上下黒のジャージにニット帽。


 正直言うと、ある程度予想はしていた。

 ジョギングをする場合、時間帯とコースが毎日決まっている事は多い。今日もこの時間にここを通る可能性は高いと私は思っていた。ここ二日の話なので、それこそ断定は出来ないが、ひょっとすると彼は毎日この道をジョギングするのが日課なのかもしれない。

 もうすぐ死ぬ私と、生きて自らを鍛える彼、一体なにがどこで間違って自分はこうなってしまったのか、そんな二人について判然と考える。勿論、考えることに意味などなく、私自身、全く答えなど求めてすらいなかった。

 私は昨日と同じく道の右側に寄り、彼に道を譲る。彼の今日の足取りに昨日の様な違和感はなかった。きちんと靴を間違えずに履いてきているようだ。しっかりと地面を踏みしめて進んでいた。


――ありがとう。昨日はなんだか笑わせてもらったよ。


 遠ざかる彼の背中に向かって心の中で呟く。そしてこれが彼との最後の別れだ。

 もう二度と会うこともないだろう。


 その時、彼の走る延長線上に何か小さな物体があることに私は気がついた。


――なんだろうか?


 暗くてよく見えないが、少し黄色がかった物体が彼の五、六歩先にあるようだ。灯りもろくにない薄暗い夜道である。注意せずにいると気が付かなかっただろう。だが、よく見ると確かに存在する。暗闇にぼうっと鈍い光を放つ物体が、そこにはあった。


 それは……形状、色、存在感からして、確実にバナナの皮だった。


――なんであんな所にバナナの皮が。

 私は不審に思った。

 普段から歩いているこの道。

 確かにこれといった見所もない何の変哲もない道だが、それと同時にゴミや空き缶の類が転がっていることも基本的にはなかった。地域の清掃が行き届いているのと、そもそも人通りが少なく、清掃の必要性もさほどないというのがその理由だ。

 しかし現在、そんな人畜無害である筈の道にポツンと横たわるバナナの皮。

 すぐ後ろにはジョギング中の彼。そしてどうやら彼はその存在にはまだ気がついていない様子だった。変わらぬスピードで軽快に弾む足取りからそのことが窺える。


 …………まさか。


 嫌な予感が私の頭をよぎる。 


 まさか、踏むわけが……。

 私は首を横に振って、突如浮かんだその不安を打ち消す。

 今のご時世、バナナの皮を踏んで、転ぶ。

 まさかそんなことがある筈ない。

 昔の漫画やドラマならいざ知らず、バナナの皮で滑るなんてこと……ありえない。


――気がつけ。


 いつのまにか彼に念を送っている私がいた。それも仕方がないだろう。彼は自分が靴を左右反対に履いていても気付かず、挙句にはその所為で歩行に障害まできたしてしまうほどの逸材なのだ。そんな彼がバナナの皮と対峙した時、何かが起きてもおかしくはない。


――気がつけ。


 私は彼を真剣な眼差しで眺めながら願った。

 暗闇に神々しく光るその黄色い物体に注意を払うのだ。

 私は固唾を飲んで彼の一挙手一投足を見守っていた。

 難しいことではない。少し下を見たらそれで気がつく。本当に一瞬で解決する問題。簡単な話だ。 

 そんな簡単なことなのに、彼の視線はずっと真正面を見据えて離さなかった。しっかりと腕を振り、呼吸もリズミカルでとても綺麗なフォーム。スタミナ切れで顎が下がる心配もないだろう。ジョギングとしては完璧なクオリティ。だが、その姿勢が今確実に仇となっている……。


 バナナの皮まであと2、3歩。彼は未だ気づく気配が…………ない。

 しかし、諦めてはいけない。まだ希望はある。

 普通に考えればこのまま彼の足がちょうどバナナの上に着地する確率の方が低い。道は横にも広く、彼がそのままスルーする可能性の方が明らかに高いのだ。私はその高い可能性に賭けてみることにした。知らぬが仏で終わればそれでよし。


 と、私が考えていたまさに次の瞬間に起きた出来事は、そんな私の配慮を一瞬で灰にしてしまう、残酷なものだった。

 

 私の見ている目の前で、彼は完璧と言ってよいほど丁度良い踏み切りで、バナナの皮を踏んだのだ。


 次の瞬間――彼の体は宙に浮いていた。


 まさに「ふわっ」といった感じである。

 両足を自分の頭程の高さまで投げ出し、飛ぶ男。私はその体勢、表情、飛び散る汗をまるでスローモーションの世界の中から眺めているかの様な冷静さで見ていた。

 そのゆっくりとした世界で私には思考する時間が与えられる。


 まず彼はバナナを踏んで滑った。

 これは間違いない。

 軽快な足運びの下に存在した悪意ある物体のおかげで彼は後ろのめりに滑り、体が宙を舞っているのだ。 

 まずそこまでを冷静に判断する。

 いまだ彼は空の住人である。

 しかしこのままでは危ない。

 普通に歩いて滑ったのではない。それならまだ滑って転んで尻餅をつくぐらいですむ。家に帰って尻にシップを貼ればすむ程度だ。

 しかし彼はスピードが乗った状態の勢いのまま滑り込んでしまった。このままでは頭から地面に落ちてしまう。それを案じさせるように、彼の今の空中での状態は足が上、頭が下と逆さづり状態だ。そのまま落ちたら、頭がコンクリートに激突してしまう。


――危ない。


 咄嗟に叫ぼうとして私は口を開いた。

 しかし……。


「――せい!」

 

 掛け声と共にふわっと、男性が地面に着地した。

 頭からではない。

 見事足から。

 宙返りだ。

 滑った勢いを利用して一回転してのけた。


「…………」

 私は驚きのあまり開いた口が塞がらなかった。

 これは凄い。

 私は仰天して、立ち尽くした。

 勿論、当の本人もびっくりしているのか、目をぱちくりさせている。

 驚きながらもなんとか両手を体の外へ開きポーズを取ってみせた。セーフという意味だろう。凄まじい運動神経と状況判断能力に私は感動を覚えた。


 しかし、この日、彼はとてつもなく運が悪かったのだろう。


 不運をものともしないその人並み外れた運動能力、ポテンシャル、そして強運の三つを支払ったとしても、相殺してくれない程にこの日彼は運が悪すぎた。

 彼の着地した足元、そこはダンボールの上だった。それもちょうど彼の両足が収まる大きさ、50センチ角程のダンボール片。彼が空中で一回転した時、無理な体勢から回った所為だろう、体が左に流れた様だ。道からかなり左側に着地している。そう、傾斜のある川原沿い、まさにその傾斜上のダンボール上に彼は立っていた。


「あれ?」


 自然の摂理として、ダンボールが傾斜に沿って流れ出す。彼の体はセーフのポーズを取ったまま、ゆっくり動きだした。

「お、お、これは……」

 そして、彼の体はそのまま傾斜をサーフィンさながらに滑り降りていった。

「うわーーーーー!!」

 最初はゆっくりだったスピードにもすぐに勢いがついた。まるでスキーのジャンプの助走の様に猛スピードで傾斜を滑降していく。その運動神経と、たまたましていた両手を体の横に開く「セーフ」のポーズのおかげでなんとか彼はバランスをダンボール上で取っていた。

 だが、その行く先に待ち構えるは川。

 その流れはここ何日か降り続いた雨の為だろう、急流となっていた。


 川の手前が少し盛り上がっていて、ちょうどジャンプ台の様な役目を果たす。

 ふわっと彼の体は今一度空中に投げ出された。

 必死に手足をばたつかせ、空中で平泳ぎを試みる彼。


――ル○ンⅢ世か、と私はつい心の中で突っ込んだ。


 しかし漫画と違い、重力には逆らえない。次の瞬間、ザブンと、川へ、落ちた。

「うわーー。たす」 

 たすけてと言おうとしたのだろうが、あっという間のスピードで流されていった彼の言葉は、一瞬で聞こえなくなった。

 いまやそのまま下流まで流されている彼のサイズはこちらから見て豆粒程度だった。彼が視界から完全に消えてなくなる時、漫画やアニメでキャラクターが吹き飛ばされ、画面上から見えなくなった時に用いられる『キラン』といった星の特殊効果が見えた気がした。

 それは彼がバナナの皮を踏んで滑ってから、三十秒足らずの出来事だった。 

 今ではまるで何事もなかったかの様に校門前の道はあっという間に静けさを取り戻していた。


…………一体何だったのか。


 まるで夢でも見ていたのかと錯覚するほど突然に起き、突然に終わった出来事だった。

 私は、彼が踏んだ謎のバナナの皮の元へとゆっくりと近づいた。

 まさかそんな事が起こる筈はないと思っていたことが目の前で起きた。

 まさかこの平成の時代にバナナの皮を踏んで滑って転ぶなど、そんな古典中の古典、が、こんな夢も希望もないシリアスで競争社会な現代に最早存在しているわけがない。何度も言うが、漫画ではないのだ。

 頭がこんがらがってきたのでここで今起きたことを一度整理してみることにした。

 彼はバナナの皮を踏んで滑った。そのピンチを見事ニャンコ先生顔負けの一回転でまぬがれたものの、その着地点にダンボールがあり、サーフィンさながら傾斜を滑り降りていった先には川が流れていてそのまま急流に呑み込まれてフェードアウトした。

 それが今私の目の前で起きた「現実」である。


「…………」


 ありえない。馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しすぎる。

 何故だか頭が痛くなる。何故痛いのか?そんな馬鹿馬鹿しすぎて信じられない漫画な出来事が目の前で現実に起こったからに決まっている。

 私は彼が流されていった場所の手前まで近寄ると、バナナの皮の近くに、ある物が置かれていることに気がついた。

 それは缶コーヒーだった。


――昨日も確か……。


 そう思いながら私はまだ温かい缶コーヒーをポケットに入れた。


 そして、落ちているバナナの皮を手に取った。


 見ると、そこにはくっきりと彼の靴の跡が残っていた。


「…………!」


 そこで我慢の限界だった。

 お腹の底から笑いが込み上げてきた。

 私は道端の真ん中で大爆笑し始めた。

 わけが分からなかった。

 本当に、一体なんなんだ。

 笑う。しまいには笑い過ぎで立っていられなくなり道を転がり、地面を叩き、笑い転げた。


 そのまま三分間程笑い続けた。


 やっと落ち着いた私は川原の傾斜に座り込み、ポケットからさっき拾った缶コーヒーを取り出し、飲んだ。甘くて美味しかった。コーヒーを飲み終えると立ち上がり、学校に背を向けて、歩き出す。


 家へと帰りつくと、部屋の机の引き出しを開け、内ポケットに入れていた遺書を放り込んでベッドに飛び込む。 



――さあ、死ぬのは、また明日。

 

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