自殺少女とジョギング少年
一時期、巷で流行った噂がある。
それは「神様のカード」という噂。
神様が突然目の前に現れて、一枚のカードを引かせるという荒唐無稽な話。
何十枚もあるその中から選んだ一枚、それは運命を司るとも、未来を暗示しているとも、はたまた死を宣告しているとも言われ、様々な憶測が飛び交っていたが、その真偽は定かではない。
それは何故かと聞かれたら、この世に神様など存在しないからだと私は断言しよう。
そもそもの噂の根本が間違っているのだから、その枝葉である物語が破綻を迎えるのは当然のことであった。
神様なんていない。故に、そんな存在から選び取るカードに意味なんてある筈もなかった。
何故私はこんな噂話を今思い出したのだろうか。
ただ、なんとなく頭をよぎったのだ。
まあ、そんなことは私にはもうどうでもいいのだった。
もうこの世の何もかもが嫌になったので私は死ぬことにした。
――屋上から地面へと飛ぶ。
それではみなさん、さようなら。
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『ラブ・コメディ~天使のキスで道化は目を覚ます~』
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目が覚めたら、私はベッドの上だった。
私の家の、私の部屋のベッドだ。
どうやら寝てしまっていたようだ。
学校から帰ってきた私が鞄を机に投げ出し、制服のままベッドへと飛び込む。正直よく覚えていないがそういうことだろう。
半覚醒状態のまま体を起こす。妙に生々しい夢を見たような気がする。
学校の屋上から飛び降りる夢だ。
夢の中での、自分の体が物体と化し、落下していく感覚を思い出す。
心臓が凍りつく、残酷な快感。
しかしまあ、夢ではない。あれは現実なのだ。
あと数時間後の私に起こる私の現実だ。
何故なら現実の私もあの夢の通り死のうと思っているのだから。
死にたい。
その感情で私の頭は支配されていた。詳しい何かがどうということではない。そんなことはどうでもよかった。とにかく死にたかった。死ぬ為に死にたい。ひょっとしたらどこを探しても詳しい何かなど見つからないのかもしれない。そんな確信に近い推測、推測に近い確信。私は病気なのだろうか。
きっと、病気なのだろう。
あえて理由を挙げろというのならば、この世界はいづらくて仕方がない。現実という地獄から早く解放されたい。それがここ最近私が常に思っていることだった。
そう思った瞬間、そんなことが理由ではなかった気がすると、自らが自らを否定する。
言葉に出来ないもどかしさを感じるが、誰かに理解して欲しいことでもないのだ。
私の死は自己完結で十分だ。自分の死を誰かに分かってもらいたいと思うほど私はロマンティックではないし、死んだ私を逆さまにして振っても、カラカラと空っぽの音しかしないことぐらい、自分が一番理解していた。
私は今日、本当の自由を手にする。ただそれだけのことだ。
死に場所は決めている。私の通っている高校の屋上。私の生まれ育った町が一望出来る、素敵な場所だ。
学校はとっくに終わっている時間で、生徒は一人も残っていない。
残業している教師が何人かいるかもしれないが、その程度だろう。
屋上には鍵が掛かっていて、その鍵がどこにあるのかも私は分かっていないのだが、そんなことはどうでもいい。とりあえず学校に行ってみればなんとかなるだろうと楽観的に考えていた。
遺書も書いた。制服の内ポケットに忍ばせてある。何を書いたのかは、よく覚えていない。夜中遅くに眠い頭を揺らしながら書いた文章だからだ。かといって今更読み返す気にもならなかった。
部屋を出た。誰もいない居間を通り抜け、玄関へと向かい、外へ出る。
私の家から学校までは500メートル程の距離だ。角を右に曲がって、更に突き当たりを左に曲がり、それから直進で200メートル。
左手には川原、右手に廃ビル。川原は道よりも下に位置し、草が生い茂った傾斜を降りた所に川が流れている。周りには住宅もなく、閑散としている、まっすぐな道だった。
これでこの道ともお別れだ。
そんなに好きな通学路でもなかったが、妙な感慨に襲われ、ゆっくり周りを見回しながら歩く。優しい風が私のスカートを静かになびかせる。
今にして思えばそう悪くない道だったのかもしれないと、それこそ今にして思う。そんな事を考える余裕まで生まれていた。
ふと後ろを窺うと、通行人がいた。
薄暗くてよく分からなかったが、リズミカルに体を上下させて移動しているので、ジョギングでもしているのだろう。
校門までの距離はあと100メートル。
既に学校が見えてきていた。
一階のある教室に電気がついている。職員室だ。やはり教師が残っているのだ。
――さあ、どうやって侵入して、どうやって屋上の鍵を入手しようか。
そんなことを考えながら歩いていると、後ろから小さく足音が聞こえてきた。先ほど見かけたジョギングをしている者が近付きつつあるようだ。
あちらは走っているのだから、どのみちいずれ追いつかれてしまう。
私はいつでも進路を譲れるように道路の右側に体を寄せた。そして首だけ軽く振り向き、左後ろの足音の主を確認する。
その人物は、ニット帽を被り、黒の上下ジャージという出で立ちで、まさしくジョギングに勤しむ人のそれであった。
私は歩みを進めながら、まだ少し遠くにいるその影を眺めていた。
そこで私はある違和感を感じる。
古くに設置された外灯の灯りだけに照らされた夜道で、まだ彼の顔もしっかりと見ることが出来ない距離なのだが、それでも、それだけ遠目に見てもその男性の様子はおかしかった。
なんと言うか、走り方が変なのだ。
妙にカクカクしているというか、肩に力が入っているように見える。
ともかく普通にジョギングしている人間と比べて、無理な体勢で走っているように思えた。
そして、違和感を感じると同時に私の中には少し懐かしい感情も芽生えていた。
どういうことなのだろうかと、不思議に思う。
怪我でもしているのか。
そんな時に走っても怪我の治りは遅くなる。怪我を庇って別の部位が故障する恐れもあるし、何も良いことなどないものを……。
そう思うが、私には関係ない話だ。
何の口出しもする気はない。怪我している状態で走ろうが、夜の学校で自殺を図ろうが、そもそも個人の勝手なのだ。
そうこうしているうちに彼は私の2、3歩後ろの距離まで詰めてきていた。
そこまで近付いて初めて、さっきから私が感じていた違和感の正体に気が付いた。
――この人……走り方がおかしいんだ。
右手と右足が、左手と左足が同時に出ているのだ。
なるほど、そこで懐かしさの理由にも気がついた。小学生の頃に似たような光景を見たことがある。運動会の行進で、緊張のあまり手と足が同時に出てしまう生徒が何人かいたが、まさに今私の横を通り過ぎている彼がその状態だった。
しかし、また一体どうしてそんなことになっているのか。ひょっとして彼は緊張しているのだろうか。
どうやら彼自身もそのことが気になっているようで、不思議そうに首を傾げながら何度も矯正しようと、一旦止まっては、また走り出す。
その動作を繰り返すのだが、何遍やっても上手くいかない。まるで右手と右足、左手と左足を見えない紐で括っているかのように、右足を出せば右手が、左足を出せば左手が出てしまうのだ。
益々首を傾げる彼。
私は――思わず笑ってしまった。
目の前で困っている彼には大変申し訳ないが、その何度も挑戦しては手と足が同時に出て、あれ?と首を傾げる一連の動作が、私にはじわじわとボディーブローの様に効き始めていたのだ。
彼は一旦走ることを諦め、落ち着いてまず歩く所から試みてみるが、同じだった。
私はそれを後ろから眺めながら、彼が何でそんな動きになるのか、全く分からなかった。
歩くという行為は、右足を出す時に、右手を引けばいいのだ。そうすれば自然に左手が前に出て、次に左足が前に出る時に右手が自然に出る。こんな当たり前の事を説明している時点でそもそもおかしい事この上ない。
彼が道端で止まる。
一旦深呼吸をして落ち着く。
ゆっくりと右足を出しながら、左手を出そうと意識しているようだ。左腕が震えている。それは左腕が頑張って前に出ようとする意志のように感じられた。良い感じだ。そのまま右足が地面に着地するのに合わせてその左手を振れば、「歩く」成功だ。
彼の右足が地面に着いた……と同時に出ていたのは、結局右腕だった。
「…………!」
彼が地団駄を踏んで悔しがる。
それを見て私はますますおかしくてたまらない。既に彼とは距離を置いた位置に留まり、口元を抑えてニヤニヤしながら眺めていた。
こっそりビデオカメラで映像をおさめて、家で何遍も見ながら爆笑したい気分だった。
後ろでそんなことを私が思っているとも知らず、怒りとともに大地に足を振り降ろす彼。
その足がふとした拍子に静止した。
「…………」
じっと自分の足元をしばらく見て、そこで何かに気付いたかのように、ポンと手をうった。
そして、次の瞬間彼は履いている靴を脱ぎ出した。右足を脱ぎ、次に左足という順番だった。
一体どうするのだろうか。私は彼の挙動に注目した。
すると次に、さっきまで右足に履いていた方の靴を左足に、左足に履いていた方を右足に履き直し出した。
…………?
一体、何のつもりなのだろうか、私には彼のやっていることの意味に皆目見当もつかなかった。
そうやって靴を左右履き替えた彼はもう一度大きく深呼吸をしてから、右足を前に出した。
すると――左手が前に出る。
次に左足を前に出すと――右手が前に出た。
その動作を繰り返す。
――歩いた。
私は感動を覚えた。
人が歩いている。ただそれだけの事でこうも心が揺れるものなのかと驚いた。人は凄い!と、自分でもよく分からない感動の仕方をしていた。
どういう事なのだろうか。何故彼は変な歩き方を克服出来たのか。
そして私はこの後、彼の口から放たれたその答えに、衝撃を受ける事となる。
「ふ…………なるほどな、靴が左右反対だったって訳か…………」
…………!?
その一言だけ呟くと、彼はそのままご機嫌に走り出し、その姿はあっという間に夜の闇へと消えていった。
後に残された私は立ち尽くす。
彼の残した台詞について考察を始める。
つまり……「靴が左右反対だったから、右足が左足の動きを、左足が右足の動きをしてしまい、結果、歩行に障害をきたしていた」のだと……。そういうことなのか?
……そんなことがあり得るだろうか?いや、聞いた事がない。
その話が真実ならば、人間は己の肉体よりも、その身に纏う衣服類に支配されているということになるではないか。
つまり、彼が野球帽のツバを後ろ向きにして被り、わんぱく少年を気取ろうとすると、たちまち体が帽子のツバに反応して、前に進もうとしても後ろに後退することとなり、彼が宴会か何かでふざけて頭にパンツを被ろうものなら、迅速に且つ正確に反応した身体により、彼は逆さ立ちの生活を強いられることとなり、もし彼がボクサーで、グローブを左右間違えて装着した場合、相手ボクサーは彼の右フックを受けて「今日のヤツの左フックは切れてるな……」と思い、左ストレートを受けて「来たか。伝家の宝刀、ギャラクシーライトストレートが」と思い込むこととなる。
人間の意志が物により支配される。
考えただけでゾッとする。
――まあ、そんなわけないか。馬鹿馬鹿しい。
私は推測を一瞬で否定する。
そんなの考えられない。
だが考えられないと言うならば、そもそも靴の左右を間違えて履くという所業もよっぽど考えられない事態である。
まだ靴の履き方も覚束ない、小さな子供が間違えるか、バラエティ番組で高○純次が小ボケとして靴左右反対で登場する、ぐらいでしか見たことがなかった。
彼は一体……何だったのだ。
彼の必死な動作を思い出すと、私の口許は自然と緩み、笑いがこみ上げてきた。
私は夜の風に吹かれて、しばらく思い出し笑いに耽る。
なんだか、肩の力が抜けてしまった。
ふとさっきまで彼が立っていた場所を見ると、何か小さな物体が置いてあることに気がついた。
それは缶コーヒーだった。
触ってみるとまだ温かい。
私は躊躇いもなくフタを開けると、中の液体を口に含んだ。
甘くて、おいしかった。
そして、私は踵を返してそのまま今来た道を戻ることにした。
家に帰って遺書を机の一番上の引き出しに入れ、ベッドに身を投げる。目を瞑ると、ロボットみたいにぎこちなく歩く男の姿が浮かんできて、私は笑った。
まあ、焦らなくてもよいだろう。
――とりあえず、死ぬのは、また明日。