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クレア・シアト

作者: 川上大典

 「クレア・シアト」は10年以上前に書いた小説です。ラブクラフトや「ドグラ・マグラ」ではないですが、読後、賛否両論あった小説です。

 今朝、イハルの口から、夢を見たことをきかされた。

 僕はディスプレイに映るイハルの言葉に耳を傾けていた。

「もうすぐ、すべてが、本当になるよ」

 イハルは言った。スピーカーを通して流れてくる彼女の声は、少しだけノイズが交じっていて、しゃがれて聞こえた。

「あと、ちょっとの我慢だね」

 僕が言う。そうなんだ、もうすぐ僕たちは、現実世界へと旅立つ。

このカビ臭いコンクリートの壁でかこまれた部屋とも、もうすぐさよならだ。

僕はキーボードをたたいた。F・O・O・D『フード』そう、食べ物。

 ディスプレイ上にライムルが現れる。

イハルはライムルを両手でつかむと、おしとやかにゆっくり噛みついた。

「また、これかあ」

 ライムルのピンク色のお腹にかじりつきながら、イハルは言う。僕はライムルを食べたことがなかったから、実際のところはどうなのか解からなかったけれど、

まるまると太った毛の生えていない生物(バグが、生物なのかと訊かれても困るけれど)は、とても美味しそうに見えた。

「美味しそう? うそつきっ」

 イハルがまゆ毛をつり上げて言った。イハルは僕の考えていることが解るんだ。そうプログラムされているから。イハルを組みたてたのは、僕の父だ。

 父さんは優秀なヘルメット技師だった。

ヘルメット技師っていっても、外張りのセラミック職人じゃない。優秀な微細技術ナノテクノロジーの科学者だったんだ。しかも、希有な仮想人形創作のできるプログラマの一人でもあった。

この土地だけはくさる程ある広い世界に、十人にも満たないっていう希な技術屋だったんだ。だから、少しは自慢してもいいんじゃないかなと思っている。

 父親という役職としては、最低だったけれど。

 父さんが死んだ時の状況も最低だった。(だけれど、数年は困らないだけの貯えと、イハル、このぼろマンションを残してくれたことだけはあの父にしては上出来だったと思うし、感謝もしている)

 父さんは自分で組み立てた仮想人形に殺されちまったんだ。ミヲという女の子の擬似人格にさ。コンピュータの前で親父は全身をハサミで突いて脳を取りだしたんだ。

 僕が部屋に入ったときにはグリーンのリノリウムの床は、凝固した血液で染まっていやがった。血は黒みがかっていて、何年も洗っていないような野良犬の匂いがした。

 親父は事切れてた。左手にハサミを握りしめて。全裸だった。床に衣服と白衣が無造作に散乱してた。だけど銀製の自慢の眼鏡は、はずしていなかったな。

 よっぽど気に入ってたのか、ミヲを鮮明に網膜に残したかったのか。

 今となっては、解らないが……いや解明する手段はあるけど(ミヲを詳しく調べるとか)そんなことはどうだっていいんだ。死んだ者の過去をいじくりまわしても、どうせ父さんが生き返ることはないのだから。

 それに父はそれを望まないだろう。父さんは、ミヲと契りを結んでいたんだ。ミヲは妊娠していた。擬似人格の、コンピュータの中で生きる人形がまさか……とはもしや言わないよな。

 親父も僕も、からだは存在しないんだぜ。ブレインだけさ、本当なのは。あとは機械と人工臓器の寄せ集めだよ。そういえば豚も混ざってたっけ。まあどうでもいいだろ。

 人間として生きてる奴よりも何十倍も長生きできるんだ。

 まだ完全な人間との割合は半々ぐらいだけど。

 宗教の問題とか、色々とやっかいな倫理があるんだ。それで、戦争してる国なんかもあったりしてさ、嫌になっちゃうよな……。

 だから、僕とイハルは現実世界に行くことに決めたんだ。

現実世界ってどんなところかは知らないけれど、ここよりかは、はるかにマシだと思うんだ。

 最近は親父みたいな奴が増えているらしくて、人形とこどもを作ったという馬鹿の話をよく耳にする。

イヤホンから時々流れてくる簡易ニュースで。いつ戦争が起こるかわからないものだから簡易ニュースは必需品なんだ。

「おかわり、ないの?」

 イハルが言った。ディスプレイに目を向けると、イハルの足下に大量の水たまりが出来ていることに気がつく。正確には水じゃなくて、ライムルの体液だった。イハルは想像力が旺盛だから、些細なことにまでこだわる。

「いいのっ。気分の問題なんだから。ボクは生肉にかぶりついたときの感覚がなんとなく好きなの。それに君とちがって、ボクは本物の食べ物を味わえないんだから……」

 僕はキーボードをたたいて、水たまりを取り除いた。そして、椅子にすわったまま体を回転させる。

「だけど、僕はライムルの味を知らないよ」

 体がコンピュータの正面に戻ったので、僕はイハルの澄んだ、スカイブルーの瞳をみつめながら声をだした。

「いいっだ」

イハルがちいさな舌をだして悪態をつく。

「いいよ、いいよ。どうせボクは人形さ。バグを食べる以外ないんだ。パンもハムもチーズの味もわかりはしないんだあ」

 そう言うとイハルはワンピースの裾を握りしめながらうつむいて、薄いピンク色した唇をとんがらせた。

「イハル、かわいいよ」

 彼女のこどもみたいなしぐさに声に出して言ってしまった。まあ言わなくてもイハルには通じてしまうのだろうけど。

「なっ、なに、欲情してるんだよおっ。ボクは別に君に可愛いって言ってもらわなくても、自分でちゃあんと認識してるんだから」

 両手を上下に振りながらイハルがわめく。彼女の頬が朱色に染まってる。

「朱色になんか、染まってないッ」

 唇をとがらせながら、イハルが僕をにらみつけた。

「冗談だよ」

 僕はイハルの赤みがかったクリーム色のセミロングヘアを見つめて言った。

「うそ、ばっかり」

 彼女は小柄な顔をよこへそむける。

「じゃあ、冗談じゃないことにする」

「うー、ボクはユルナのこと大っきらいだもんねッ」

「うそ、ばっかり」

 僕は目を細めて彼女にほほえみながら言った。

 しばらくの間彼女は、アナログの記録ディスクで見た消防車のサイレンみたいに「うー、うー」うなっていた。


 ストリートに出ると、一気に気持ちが萎える。どこを見ても無機質な世界。

鉄くずで出来たマンション街、灰の地面、放射能に汚染された空気、玩具ドールの勧誘の群れ。まったく嫌になっちまう。

 僕が住んでるブロックは、半機械ヒューマンの居住地域だ。僕たちは肺を改造しているから、少しぐらい汚染された空気なんてなんともない。パーフェクトの奴らは土の地面の地域で暮らしてるんだ。

 僕らはいわば開拓者と同じだ。使われていないだだっ広い土地にタウンを作って、再利用しているのだから。

「ハイ、ぼうや」

 鉄くずビル通りの前の小塀にすわっていた玩具ドールがおりてきて、僕の傍らにまとわりつく。

「お姉さんと、いいことしない?」

旧世代の忘れ物は主人を何人も替えて、しまいには玩具に成り下がってしまった。

僕は早足に歩く。

「まってよ。どこ行くの?」

 黒髪を後ろでくくったドールが、ジーンズとシャツの間から覗かせているたて長のおへそをかきながら言った。

「ジャンク」

 そう僕が言うと、ドールはおおげさにパンと両手をたたいた。

「ドラッグ、ワクチン、ウィルス、レイ・ガンに軽パーツまでそろってるっ」

 ドールは僕の正面に立つと、ウインクして、小塀にすわってる仲間のドールを手招きして呼んだ。

「そんなのいらないよ」

「じゃ、なにが欲しいの?」

 僕はうつむき、そして、うわ目づかいにドールのグリーンの目を見て、

「ライムル」

 ぼそっと声をだした。

「ライムル。ぷっ、あははははっ……」

 腹をかかえながらドールがふきだす。

そのうち、ドールは地面にたおれこんでこぶしをたたきつけだした。

「なに?」

 黒髪のドールを指差して、仲間のブルーのロング髪のドールが僕にたずねる。

僕は苦笑し、首を傾げた。

 やがて倒れこんでいたドールが起き上がった。衣服についた灰をはらい落とす。だけど時々おもいだすのか、口に手をあてて小刻みに肩をふるわせた。

「ぼうや、ライムルは培養したほうがいいよ」

 黒髪のドールがほほえんで、やさしい声をだす。

「してるさ。ただ、ライムルの増殖が追いつかないんだ。家にはツインの大食漢が住んでいるから」

「ふーん。擬似人形が二体ね。わたしの親戚ってとこだけど、この待遇の差はどうだろう」

 黒髪のドールがちいさな唇の下に人差し指をあて、そっとため息をこぼす。呼吸機能までこのドールは処理しているのか。大分かせいでいるようだ。

「忘れ物としては少しだけうらやましいか、な」

 僕はブレインガードを取りつけていない。

「まっいいか。出して」

 黒髪のドールが体を半分ひねって背後に立っていたブルーヘアのドールに、手のひらを向けた。

 何がいいのかは解らなかったけれど、どうやら僕にライムルを売ってくれるようだった。

「はい。タダでいいよ」

 旧世代のコインのようなディスクを、黒髪のドールは僕に向けた。

「はらうよ」

 黒髪のドールは、「ち、ち、ち」と舌打ちしながら人差し指をメトロノームみたいに左右に振って、

「同族にはやさしくがモットーだから。ね、もらっといてよ」

 そして、ドールは、僕にディスクを放り投げた。

僕は両手ですくうようにキャッチする。

「ありがと」

「どういたしまして」

 ドールふたりは、ウインクすると、くるりとターンして後ろ手をふりながら小堀へと戻って行った。その途中、黒髪のドールがとつぜん振り返り、

「おおきくなったら、また来て」

そう言って僕にまた背中を向けた。

 僕の頬はきっと真っ赤になっていたに違いない。体中が熱くほてっていた。


 鉄くずマンションに帰宅したのは、昼すぎだった。時間という概念だけは、旧世代の頃と変わることはない。

お昼には昼食を食べる。これも変わらない。

 穴だらけの赤サビでおしゃれした階段を上がり、三階の部屋の前に立つ。セラミック製のドアは、このマンションにエレベータはないくせに、指紋認証式なんだ。

 ドアの端にあるくぼみを親指で押す。微少な電子音が鳴り、ドアがよこにスライドして開いた。

 室に入ると、僕は手にもったディスクの硬くうすっぺらい感触を確かめながら、まずミヲのいる部屋に向かった。ライムルには人格維持の要素があるんだ。

 あとでイハルがもんくを言うだろうな。僕は苦笑して、ドアのくぼみを押した。

ドアが開く。

「ミヲ」

 僕はひややかに言う。親父の入力したパスワードなんだ。

 コンピュータの電源が入った。パスワードは二重なんだ。だから、あとひとつ。

「ミヲ、あいしてる」

 ディスプレイがあわい光をはなち、舞台の幕が開くかのように、だんだんとミヲの姿が画面上に現れてゆく。僕の所持してるコンピュータは旧式の平面画像タイプなんだ。

 幾億のプログラム式の並列が螺旋状にディスプレイの中心でおどる。

 細ながい肌色の素足。親父の好みそうなくびれのあるウエスト。ゆたかとはいえないけれど、美しいピンと張った胸。白い腕、長い首。腰までありそうなつややかな金色の髪。

 小柄で瞳の大きな美術品みたいな顔。その顔にちょこんとうすいピンク色した唇がついている。

 ミヲの全貌が現れた。

 僕はミヲの瞳から目線をはずした。

 宝石みたいなミヲのうすいグリーンの瞳をずっと見ていると、気がおかしくなってしまいそうになる。

「おひさしぶり。もう来ないのかと思っていた」

 澄んだ彼女のメゾソプラノの声は、一瞬にして僕の視界からコンクリート壁を、パイプベッドを、ディスプレイを消した。

 彼女の声は麻薬よりもたちがわるい。父さんもやられてしまった。

「食事をもらえるの?」

 ミヲが首をわずかに傾ける。たぶん、目を細めてほほえんでいることだろう。

「うん」

 僕は言った。声がふるえていることに気づいて、僕はせきを一つした。彼女の目を僕は見ない。ミヲの首から肩のあたりを見つめていた。

「心境の変化はどうして?」

 彼女が言った。

「僕たちは、現実世界へ行くことに決めたんだ」

「……わたしは置いていくのね」

 僕は唾を飲もうと、のどを鳴らした。でも唾液なんて出ていなかった。

「うん」

 僕はうなずいた。

「あなたのお父さんを、わたしが殺したから?」

「ちがう」

 僕は彼女の目を見てしまった。

「じゃ、どうして?」

 ミヲの目から視線をはずすことはできなかった。僕は黙っていた。

「あなたの弟のせい?」

 ミヲは言いながらおなかを円を描くようにしてさすった。

 僕はまただまる。それから彼女のおなかを見、うつむいて、

「そうだよ」

 彼女は小さくため息をついた。

「……この子は、ちゃんと育てるわ」

 僕はディスクキャディに、ライムルのソフトをセットした。コンピュータ本体がディスクを取りこんでゆく。

「一気に全部たべてしまわないで、培養したのを少しずつ食べてね」

「ええ、そうするわ」

「弟の名前は、もう決めてるの?」

 僕はミヲのおなかを見ながら、やさしく言った。

「クレアに、シアト。どうやら、ふたごの兄妹みたい」

「にぎやかでいいね」

「ええ、そうね」

 ミヲは目を細めて笑った。僕の母さんもこんなふうに笑っただろうか。ふとそんなおもいが頭のなかに浮かんだ。

 僕はドアの方を向くと、

「父さんのこと、うらんでる?」

 彼女に訊いた。

「……なぜ?」

「ごめん」

「……あやまらないで。結局のところ、わたしがあの人を死なせてしまったのだから」

 僕はディスプレイの方へふりかえった。

「やっぱり、真相は違うんだね」

 彼女はだまっていた。

「父さん、心がよわかったから、たえきれなかったんだろ?」

「わたしがわるかったの」

「姉さんを犯してしまった罪悪感にたえられなかったんだ」

 彼女は悲鳴をあげた。

「あの人は、わたしのこと、愛してくれてはいなかったのよ」

 そう言った彼女の語尾はふるえていた。

「父さんは君のこと、あいしていたさ」

「やめて。早くこの部屋から出ていって」

 ミヲが怒鳴った。

「ごめん。でもさ、僕だってイハルにそんなことしたら死んじゃうと思うから……」

 彼女は泣いた。仮想人形だって、涙をながす。だから父も僕も愛したんだ。

「じゃ、もう行くから」

 ミヲに背をむけて言う。

「……さよなら、ユルナ」

「さよなら、姉さん」

 僕はミヲの部屋をでた。


 自室へ入ったとたん、イハルの抗議の声がとんだ。

「おそいっ」

 奥にあるコンピュータのディスプレイに目を向けると、イハルが両手を腰にあてて唇をとがらせている姿が見えた。イハルは青いおおきな瞳をつりあがらせて、僕をにらんでいる。

「おそい、おそい、おそいよッ。ボク、もうすっごくおなかすいちゃってるんだからね」

 イハルの顔のアップがディスプレイいっぱいに映り、イハルは頬をふくらませて一息にそう言った。

 どうやらライムルの繁殖がイハルの食欲に追いつかず、ライムルのオリジナルまで食べてしまっているらしかった。僕はため息をついた。ライムルのディスクは、今しがた姉さんにあげてしまっていたのだ。

「えええっ」

 僕の思考をイハルは読んだらしい。イハルはアップで、白くて歯並びのよい前歯をのぞかせながら、大声をあげて叫んだ。

「そんなあ」

 がっくりとイハルの膝がディスプレイ上の地面におちる。(イハルは想像力旺盛なのだ)ディスプレイの灯光が消え、画面が一瞬まっ暗になる。

 そしてパッとイハルの姿だけをライトが照らす。

まるでその様子は、舞台のスポットライトのようだった。

「……ボクはなんて不幸な星のもとに、生まれたんだあ」

 おおげさにイハルが宙をあおぐ。とたん、イハルの背後に星がひとつながれ、暗闇へと消えていった。

「イハル、容量つかいすぎ」

 僕は小声でつぶやいた。

 イハルはギロッと僕をにらむと、

「おなかすいたッ」

「あたりまえじゃないか」

 僕は怒鳴った。

 それから姉さんの部屋に戻った僕は、事情を説明して、培養されたライムルを数匹ディスクに移しかえ、自室へ戻った。

「うううッ、もうボクだめかも」

 イハルはうつぶせになって倒れていた。

「ごはん、持ってきたよ」

「ほんとッ」

 僕が言うと、イハルは飛び起きて、うるんだ瞳を僕に向けながら両手を組んだ。

「神さま、ありがとう」

 イハルが瞳をきらめかせながらおおげさに言った。

 僕はディスクをキャディにセットする。コンピュータがディスクをとりこみ、データを読みこんでゆく。

静かに規則的なテンポで機械音が鳴る。 僕は画面を指でなぞり、フォルダをひらく。

ライムルの培養室をだ。

 ディスプレイの片隅に、深緑色した培養基で満たされた槽が現れた。

本来ならこんなにおおげさな装置を表示しなくてもいいのだろうけど、これは僕の趣味でこのような形にプログラムを組んだんだ。培養槽のグラフィックだって僕の創作だ。そういった部分は、父ゆずりなのかもしれない。

 イハルがじゃまだなあといったふうに、よこを向き、頬を人差し指でかく。案のじょう、培養装置のなかにライムルは一匹も入ってはいなかった。

 僕は画面をなぞり、培養槽のなかにライムルを入れた。

培養基が泡立ち、だんだんと透明度を増してゆく。

 ボコンッ。

ライムルのおおきなピンク色の腹から、ねばりけのある球形の物体(といっても僕がそうなるように組んだのだけど)が次々と離合し、数個に分裂していった。

 またその数個の球体が個々に分裂し、あっというまに培養槽はライムルでいっぱいになった。

「ああッ、おいしそう」

 イハルが両手を組んで、瞳をきらめかせながら声をだす。

 僕はキーボードでフードと打ち、ライムルを一匹イハルの前へ送った。イハルは口元を手でぬぐうと、両手でライムルのウエストをつかんでかじった。

 一匹めを早急に食べおわるとイハルはみずたまりの中心におしりをつけて、膝をかかえ、

「もっと、たくさん入れてもいいよッ」

 目を細めて両頬にえくぼをつくりながら言った。

 僕はリクエストにこたえ、たくさんのライムルをイハルの周辺へ持ってゆく。イハルはライムルの山にかくれてしまったが、5分たらずの間に、すべてのライムルをたいらげてしまった。

「もう、おなかいっぱい」

 みずたまりを除き終わると、イハルは座ったまま両足をのばして、すこしだけふくらんだおなかをワンピースの上からさすった。

「それだけ食べたら当然なんじゃない」

 僕の声にイハルがべえっと小さな舌をだす。

「これで最後だから、いいの」

 イハルがほほえんだ。僕はかなしくなった。イハルの笑顔は澄んでいて、とてもきれいだったから。

「じゃ、そろそろいこう」

 ウインクしてそう言ったイハルの声は、とてもやさしかった。


  *


「今日からこの娘がユルナのお姉さんだよ。ミヲっていうんだ」

 僕がまだ十一のとき、(今から四年前のこと)父がコンピュータの前にひとりっ子だった僕をつれてきて突然いったんだ。

 僕は大きなディスプレイを見上げながら、こう思ったものだ。父さんは頭がおかしくなってしまったんだって。だって、どう見たって目の前のものは、家族だとは理解できなかったんだもの。

 たしかに人の姿形はしていたけれど、画面の中のおんなの子を自分と同じ立場において見ることなんてできなかった。

 記録ディスクなんかは見ることがあったけれども、それは別のせかいのことのように認識していた。画面のなかにこの人は生きているのではないと理解していたのだ。

 それなのに、父のこの一言だろ。僕の意識内にすぐさまこの出来事を認めることなんてできなかった。

 父さんは僕がまだ幼かったころ、母が死んでしまったあたりの頃から、研究に没頭しだしたんだ。親父はあの時からくるってしまったんだと、僕は思っていた。

 奇妙な生活はつづいた。

 父は自室にこもって一日中コンピュータをいじっていたから、僕にミヲとあそぶよう言ったんだ。僕はそれが嫌で嫌でたまらなかった。

 擬似人形のミヲを、お姉さんなんてとても思えなかったし、なによりこの状況を異常だと思っていた。

「ねえ、ユルナ、今日はなにをしてあそぼうか?」

 ある日、ミヲがそう言った。

 ミヲは裸だった。おおきな薄い緑色した瞳をほそめながら、僕にいつもえらそうに言うのだ。

 僕はもう限界だった。そして、ミヲにいじわるしてやろうと決めたんだ。

「ねえ」

「なに?」

「かくれんぼしてあそぼうよ。僕がどこかにかくれるから、お姉ちゃんは僕をみつけて。約束だからね」

 そういって、僕はドアへむかった。

 画面のなかに生きる擬似人形が、かくれんぼなんてできるはずがないんだ。

「あっ」

 ミヲの声がきこえたけれど、僕は見向きもしないで部屋から出ていった。

 翌日、ミヲの部屋にいってみると、ミヲは死んでいた。

 画面のなかから出るには、死んでしまうしかないと思ったのだろう。

 一瞬、僕の息がとまってしまって、後悔と恐れのためか、足がしばらく痙攣していた。その時はじめて、擬似人形のミヲを自分と同等に見ることができたんだ。

 父に泣きながら懇願すると、

「こんどは大事にするんだよ」

 僕をしかることなく、そういって、父さんはイハルをつくってくれた。

 死んでしまったミヲを研究するんだと言って、父はまた部屋に閉じ込もった。

 僕はイハルを、ミヲ姉さんの分も大切にしようと思ったんだ。

 イハルはこどもっぽかった。父さんが僕の過去の行為を懸念して、そう作ったようだった。だけど僕はそんなことは気にしなかった。

 毎日を僕とイハルは一緒にすごした。イハルは僕の部屋に置いてあったのだ。一緒にゲームをしたり、記録映像をみたり、外であった出来事を話したり、けんかしたときも多々あった。

イハルの服をつくってプレゼントしたりもしたんだ。そんなふうにして時間は流れていった。僕とイハルには、絆ができていたと思う。

 そんな時、あの事件が起こったんだ。

 ミヲ姉さんと親父の関係は知らなかった。

二ヶ月前に、姉さんを復元させたことを親父からつたえられた。僕は驚いた。そのあと、僕は恐怖にふるえた。僕が姉さんを殺してしまったのだから。

何度あやまってもこの感情は消えることはないと思った。僕はかくごを決めた。

 僕は姉さんの部屋のドアを開いた。

 セラミックのドアが横にスライドする。暗い姉さんの部屋に、コンピュータの画面だけがひかりを放っていた。僕は下唇をつよくかみながら、顔をあげたんだ。

 姉さんの、前とかわらないままの姿があった。姉さんのうす緑色の瞳と僕の目が合った。

「ユルナ、みつけた、よ」

 姉さんはそう言って、ほほえんだ。僕はなみだをふいた。

 そんなだから、僕はいぶかしんでいたんだ。姉さんが父さんを殺したと言っても、ウソだっておもっていたんだ。

「わたしのおなかのなかに、あの人のこどもがいるの」

 姉さんの言葉を、僕はガラス一枚へだてたような感覚のなかで聞いた。

 この時、僕は現実世界へ行くことを、漠然とだけど、考えたんだ。


  *   


 今朝、イハルが、僕に夢をみたと言った。

「ボクね、ユルナと手をつないで、ほんとうの地面の上をあるいている夢をみたんだ」

 イハルはディスプレイの中で僕に手をのばした。そしておろす。てをつなぐことなんてできないから。

「どうして、こんなにも近くにいるのに、ボクたちは触れられないのだろう。コードをつないでこどもをつくることはできるのに、本当に触れ合うことはできないんだ」

 僕はイハルの言葉を、黙って、うつむきながらきいていた。

「ねえ」

 僕は顔を上げて言った。

「現実世界へいってみない?」

 イハルが目をおおきくする。

「なに、それ?」

 ワンピースの端をつかみながら、イハルが声をだした。

「僕とイハルが手をつないで、一緒に歩いていける場所だよ」

「行く、ボクぜったい、そこに行くよ」

 イハルがむねの前で両手を組んで、とびあがった。

 だけど、次の瞬間、イハルの表情にかげりがさす。僕が悲しんだからだ。僕の気持ちはイハルにつたわってしまうから。

 それでもイハルは現実世界へ行くことに同意したんだ。

「ボク、それでもいいよ。だってユルナと手をつなぐことができるんだものッ」

 おたがいの気持ちは決まったのだ。


  *


 イハルに食事をさせた後、僕は現実世界へいくための準備をした。といっても、姉さんの部屋のドアを開かなくさせることだけだったのだけれど。

 僕たちが行った後、姉さんだけはなんとしても保護しなければならないと思っていたし、それが弟としての家族としての責務だと考えていた。

 ライムルは、姉さんがうまくコントロールしてくれれば何十年だってもつだろう。自家発電だってある。だからこのドアさえしっかりと閉塞すれば、姉さんたちは寿命をまっとうすることができると思う。擬似人形は短命なのだから。

 銀色のドアを僕は塞ぐ。

 開閉装置をこわし、ドアのあったくぼみにセメントをぬる。乾燥すれば壁になるだろう。姉さんの部屋のドアをセメントで埋めたあと、僕は自室へ戻った。

 イハルはめずらしく後ろをむいていた。背中をまるめて、ディスプレイ上の地面に座っていた。ここからじゃ解からなかったけど、イハルは膝をかかえているようだった。

「そうだよ」

 僕に華奢な背中をむけたままで、イハルが言った。

「ミヲさん、ちゃんと生活してゆけるのかな?」

 小さな声をだしてイハルが言う。

「姉さんは、僕よりつよいから」

「……うん」

「姉さんのこども、ふたごらしいって」

 イハルは背中を規則的にちいさく前後にゆらしながら、僕の話しを黙ってきいていた。

「名前だって、ちゃんときめていたんだ。クレアに、シアトっていう名前なんだ」

 体をひねってイハルが僕の立っている方を向いた。

「ほんとに、ミヲさんって、つよい人だね」

 語尾をふるわしながら、イハルはそう言うと、瞳を袖でふいた。イハルの着ているワンピースはいつも長袖なんだ。

「自分のこどもに、ユルナのおとうさんとお母さんの名前をつけるんだもん」

「うん」

 僕はうなずいた。

 姉さんはそういう結論をだしたんだ。

「ボクはよわい自分が情けないと思ってる」

「そんなこと、ないよ」

「でも、ボクのせいでユルナは命を絶とうとしてるじゃないか」

 イハルが叫んだ。

 僕は、イハルのわずかに赤くなった双眸を見つめたまま、

「だったら僕だって、イハルにあやまらなくちゃ……」

「……ごめんなさい」

 イハルはうつむいて謝った。言いあったってどうなるわけでもない。

「もう、思い残すことはない?」

 僕は訊いた。

 イハルが首を左右に振る。イハルの髪がゆれる。

「むこうに行ったら、ユルナといっぱい遊ぶんだから。ほんものの地面をユルナと手をつないであるいて、くうきもすってみたいな。ライムル以外のものを食べて、おおきいベッドにユルナと一緒に横になるの」

 僕は目をほそめて笑った。

 イハルもほほえんだ。


  *


 室内は乾燥していて、すこし肌寒かった。部屋に窓はない。だから外は明るいのか暗いのかすらもわからない。

 部屋の天井の蛍光灯がともっている。白くてひかえめな明かりは、リノリウムの床に反射して、室内を淡くみどりいろに染めていた。

 僕はコンピュータの前で後ろ手を組んで、かるく足幅をひろげた状態で立っていた。

 イハルが画面のなかで、すこしだけふくらんだ胸に片手をあてて、おおきく深呼吸した。イハルは空気を吸わない。

「いいのっ。気分の問題なんだから」

 べえっとイハルがピンク色した舌をだす。

 僕は悩んでいた。

 先にどちらから行くべきなのだろうか。同時に、とはできそうにない。

「ボクから、行く」

 イハルの言葉をきいて、僕の呼吸が止まる。さっきまでは実感のなかった想いが、急にあたまのなかに浮かんだのだ。

 僕は、イハルを殺せるのか?

 ここで僕は息をすった。

 イハルを見ながら、僕は想像してしまった。自分がどんなに残酷で最低な奴なのかを再認識した。さっきから手のひらに、ひっきりなしにべとついた汗が浮かびあがってくる。

 意識とは関係なしにふるえる足を僕は必死に抑えていた。

「ユルナ、大丈夫だから」

 僕はイハルの目を見れないでいた。イハルの細い美しく伸びた素足を見つめていた。

「ユルナができないのならボクは自分で……」

 その瞬間、僕はイハルの目をにらみつける。

「ユルナのこと、だいすきだから、いいんだよ」

 イハルが僕の目をみつめたまま、表情無く言う。

 僕の呼吸がまた止まった。すぐに息をすう。胸が激しく動悸している。

 僕はイハルが好きだよ。

「うん」

 イハルが目をつむって、顔をすこしだけ上向ける。そして、腕を広げる。

 その瞬間、僕は現実世界を見たんだ。

 ほんものの地面の上に、イハルが立っている風景。

 僕は半ば呆然としながら、コンピュータ前の椅子に腰をおろし、本体に、シャツのポケットからとりだしたディスクを入れる。

 本体がデータを読みこむ。規則的に小さな機械音が鳴り、やがて止まった。

 画面を見る。

 ディスプレイにはあおじろい微光だけしか見えなかった。

 僕が入れたウィルスは、イハルを消しさっていた。

 いちばん愛した人を僕は殺してしまった。

 僕のあたまのなかに、虫でも住んでいるのか、さっきからヴーンという低音が鳴っていた。

 なにも考えられない。

 それは一瞬だったのかもしれないし、長時間だったのかもしれない。僕は椅子から立ち上がろうとした。でも、おしりがあがらなかった。もう一度、意識して立ち上がる。今度はちゃんと立ち上がれた。

 僕は透明なもやに包まれたなか、クローゼットの所まで歩いて行き、開いて、その中に唯一はいっている銀色のハサミを手にとった。

 ハサミのとがった刃の先に、くろずんでかたまった血がついていた。

 僕は踵をかえし、コンピュータの前まで行くと、立ち止まって、両手で持ったハサミを自分の胸につきさした。僕は目を閉じる。そして自分を突く行為をなんべんも繰り返す。

途中、頬をついたはずみで簡易ニュースのスイッチが入った。

「……と、こどもをつくるという行為が多発するなか、擬似人形を廃止する法案が制定されました」

 僕はハサミを頭に突き刺していた。何度も、なんども……。


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