9
干されたどろまみれになった服をみながら、ぼくはわずかな快感をおぼえる。
世の中に、あんなたのしいことがあったなんて知らなかったから。
みどりがぼくを呼ぶ声がよみがえってくるようで、ぼくはその服から目を離せない。
「しろ」
「しろ」
気付くと扉の前に母がいた。
髪の毛なんてぼさぼさで、化粧っけもまるでなくて、その姿は前までの母と同一人物だとは思えない。
ぼくは母をみて、きょうの朝言われたことを思いだす。
なかなか話をきりださない母にぼくはしびれをきらした。
「…母さんはかわったね」
「しろ…?」
「むかしの母さんはそんなんじゃなかった」
こんなこと、母を傷つけるようなことは言うつもりなんてなかったのに、ことばが堰をきってあふれでる。とめられない。
「しろ…母さん…どうすればいいの?」
母は一瞬にして床につっぷして泣きくずれた。
こんなに弱い母を、見たくなかった。
ぼくたちが過ごしてきた時を裏切られるような気がしたから。
「そんなの、しらない。母さんがかんがえなよ」
「…しろ……」
涙をぬぐって、さみしげに母は扉を閉めた。
静かな部屋のなかでまた自己嫌悪。
やさしいことばをかけてあげようと思った。でもできなかった。
母を責めることしかできない自分
母と父をどうしようもできない自分。
ぜんぶがぜんぶ、ぼくで、ぜんぶに激しい嫌悪感をおぼえた。
「…ごめんなさい」
もう母には聞こえないとわかっていても、つぶやいてしまった。
それがいまのぼくにできるせめてもの償いだった。
いつのまにかぼくのひとみからも、冷たい雨のようなしずくが流れていた。
もう、ほんとうにどうすることもできないのだろうか。
否、答えがわかっても、いまのぼくじゃそれはできない。
なぜかそんな気がした。