SECT.1 コリン大陸
「口を閉じろ、阿呆に見える」
アレイさんに頭をぺしんと叩かれて、おれはようやく口を閉じた。
街を行く間も珍しい光景ばかりで目を奪われてばかりだった。
なんて素朴で、明るい国なんだろう。
「不思議だね、アレイさん。ここにいると、おれの悩みなんて小さなことだって思えてきちゃうよ」
この国に住めば、本当ならヒトに触れられないはずのおれが、当たり前の生活をおくる事だってできるんだろう。
それに、遠く故郷に置いてきた子供たちだって――
獣人の子と人間の子が仲良く追いかけっこする光景を見て、なぜだかとても悲しくなった。
「こんな場所もこの世に存在するんだね」
「……ああ、そうだな」
おれがいったい何を考えていたのか、アレイさんにも伝わったのか、少しだけ寂しそうな声だった。
唇の間から洩れそうになる弱音を飲み込み、おれは前を向いた。
咥え煙草の不良医師がそれに気づいて振り返る。
「話にゃ聞いてたが、予想以上だ……驚いた」
ひねくれ者の医者が素直な感想を述べた。言葉通り、よほど驚いているのだろう。淡茶髪をがりがりとかきながら、不機嫌そうな面をしている。
天使と人間の間に生まれた彼、アーディンにもいろいろと思うところがあるのだろう。
「んで、これからどうすんの? まさか、未定って事はないんでしょ?」
そう言って振り向いたフェリスの首には、は青の護符。水龍ウィオラの加護。耐性には問題なく、さらに、使い魔持ちである事を示す。
この護符もまたかなり珍しいらしく、セフィラの神官セフィロトやリュケイオンのオリュンポスが国賓としてやってきた時くらいにしか使わないらしい。
おれはそのまま視線をアレイさんに向ける。
アレイさんの顔に、一度説明しただろうが、と書いてある。
「何となくは聞いたような気がするんだけど……ごめんなさい、忘れました」
先手を打って謝ると、お前は最近賢しくなったと褒められた。
賢しい、って褒め言葉だよね?
そう聞くと、アレイさんはため息だけ返し、シドが何とも言えない表情でこちらを見ていた。
ああ、また失敗したのかなと思う間にアレイさんはフェリスの問いに答えていた。
「ヴィウィラに向かう」
「ヴィウィラって何? 国王に会いに行くとかじゃなくって?」
「俺たちはただの観光客だ。なぜ国王に会いに行く必要があるんだ」
冷たく返答したアレイさんはため息をついた。
「ヴィウィラはソルアの中心部に広がる樹海のさらに中央にあると言われる場所だ。現世界にありながらその場所は龍界、龍界でありながらその場所は現世界。古より龍が棲むと伝承される場所だ。グリモワールを出る時、ライディーンから聞いた話だ」
「ライディーンって、『最期のレメゲトン』だよね。ディファンクタス牢獄からグレイスと旦那さんが助け出したヤツだ」
「そうだよ。ライディーンの母さんがソルアの出身なんだ」
グリモワール王国が焼失したあの戦争でライディーンは敵方の捕虜となった。そして、鉄壁と呼ばれるディファンクタス牢獄に幽閉された。それを知ったおれとアレイさんは、ライディーンを助けるため、牢獄を破ったのだ。
数年間幽閉されていたライディーンは弱り切っていたが、その瞳の力だけは失っていなかった。
そして、真っ直ぐな心を持つ紅髪の騎士は、おれたちにソルアへ向かうよう勧めた。ソルアにはきっと学ぶことが多い筈だ、と。
きっと幼少の頃から母にソルアの様子を聞いていたライディーンの頭の中には目の前の光景が鮮明に浮かんでいたのだろう。人間と妖の者が分け隔てなく暮らしているこのソルアの地をずっと思い描いていたに違いない。
一緒に行こうと誘ったのだけれど、彼は頑なに首を縦に振らなかった。貴方たちがいない間、きっとグリモワールの地と大切な人を守るから、と言って国に残ったライディーン。
今だって、ロストコインの収集という大仕事をおれたちから引き継いだために、国中を駆け回っていることだろう。
「あ、そうだ。アレイさん、ライディーンにお土産買っていこうよ。何がいいかな?」
「その前に、お腹空かない? オレっち、腹ペコなんだけど。最初にごはん食べようよ」
「この港の名物はスキィラとかいうカニらしいぞ」
「そうですね、長旅でしたし、一度落ち着いてからというのもいいかもしれません」
フェリスの提案に意外にもアーディンが答え、シドが同意した。
到底意見の合わなさそうな3人が合意したのは、全員、おなかが空いていたからに違いない。
そうでなければ、シドがフェリスの提案に乗ることなどまずありえない。
もちろん、おれもアレイさんにも反対する道はなかった。
何の変哲もない料理屋の片隅、余所者の男が4・5人も固まれば良くも悪くも目立つ。店内の視線を一堂に集めながら、おれたちは店の隅の席を占領した。
名物料理をアーディンとフェリスが適当に注文し、料理が運ばれてくるのを待った。
「でも、なんてゆーかさ、ソルア最大の港町にしてはかなり田舎臭いよね」
煤けた店内を見渡し、フェリスは肩を竦めた。
確かに、ここまでくる間に見た光景は、グリモワールの王都、リュケイオンで見たミュルメクスには遠く及ばない。これで最大の港、となると国全体が非常にこじんまりとした印象を受ける。
「発展する理由が違うからだろ」
咥え煙草のアーディンが煙と共に回答を吐いた。
「ディアブル大陸は何せ、でかい。ほんでもって気候の差が大きいせいで、海に恵まれた土地があり、肥沃な大地があり、痩せた田畑もあり、鉱山物資に優れた土地があり……と、まあ、資源に偏りがあるわけだ。偏った土地は人の密度を偏らせ、その偏りが交易を生み、結果として特化した都市や巨大な港町が出来上がるってわけだ」
まるで子供に講義でもするように、アーディンはすらすらと語った。
「コリン大陸はちいせえからな。偏りが少ないんだろうよ。年中温暖な気候と周囲は海、特殊な環境のせいで国交もほぼない、とくれば、わざわざ人が集まる必要がねえ。自分の好きな場所に居を構えて、好きなようにそこらの資源を貪ればいいだけの話だ。それに加えて『龍界』とやらがこれだけ身近なんだ。人間以外の力で生活を賄えるだろう」
本当に豊かな土地を持つ国なら、わざわざ人の集まる大都市を作る必要なんてないんだ。
なるほど。
おれは素直に感心した。
「アーディンはすごいね。なんだかすごく納得したよ。わかりやすかった」
「そりゃどーも」
何故かアーディンはわしわし、とおれの頭を撫でつけた。
くすぐったかったが、その手はとても優しかった。
アーディンはヤコブとアウラに似て口が悪いけど、やっぱり本当はとっても優しいんだろうと思う。
「それにしても本当に独自の文化の育った国なのですね。隔絶しているという割には他所から来た者たちを拒むわけではない。とても不思議です」
シドの問いにも、アーディンが答えた。
「隔絶させてんのはこの国じゃねえんだろ。この国に関わろうとしねぇ外の国さ」
ほんの少しだけ真面目な声で。
「だいたいそうだ。何か少し変わってるって言えば仲間外れにすんのは人間の得意技だろ。本人は別に、普通から逸脱しようとなんかしてねえってのにな」
そこで煙草を吸い終わったのか、床に落として踏み消した。
「……本当に、そうかもしれませんね」
シドは静かに答えて、胸元に下げた護符を撫でた。
シドが身につけるのは一般的な金色の護符。これは光龍ライラの加護。周囲の気から、持ち主を守ってくれるのだという。おれたちと寝食を共にしているシドは、決して耐性がないわけではない。むしろ、一般的に見てかなり高いと思う。でも、それを差し引いてもこの国を歩くには不足しているということだ。
ふっとおれは歌劇団の団長モーリの姿を思い浮かべた。
ニコニコと笑いながら不思議な予言を残す彼は、もしもこの国に来ていたら、いったい何色の護符を身に着けたのだろう?
一瞬だけ郷愁にふけったが、目の前においしそうな料理が並び、おれはそこで思考をやめた。