〈08〉 家の芸
若手花形歌舞伎の千秋楽の幕が無事降りた夜、佐吉は父と酒を酌み交わした。
三日後には、次の公演の初日が開ける。束の間の休息。親子二人きりの夜だった。
「ようやった。まだまだやけどな」
「ありがとうございます。精進します」
あそこが行けない、ここが悪いと、ダメ出しをいくつかされながら飲む酒はあまり旨くはなかった。
しかし、父の教えは喉から手が出るほど欲しかった物。
一言一句聞き漏らすまいと、必死に聞き入る佐吉に酒の酔いは回らなかった。
「次は見る稽古や。わかったな」
「はい…… しっかり勉強させて頂きます」
祖父も得意とし、父も得意とする芳野屋の演目。
江戸に来て、藤屋に身を寄せている状態の人間が演ることは無いかもしれない。
でも、父は自分に教えようとしている。
「……役と俺の年齢が離れすぎた。現実味がない。それにあれはもう体力的にキツイ。今回が最後や」
「一世一代、ですか?」
「江戸で、やで。大坂でもやる。あっちの御贔屓さんたちが怒るさかい」
確かに。上方の大看板が江戸に三ヶ月も居る時点で、大坂では不満が溜まっているだろう。
上方の演目を、江戸で演じ納めるなんてすれば、贔屓にしてくれている人たちが怒るのは尤もな事。
「そうですね……」
「一世一代としとけば、客寄せにもなるしな」
襲名、初お目見え、初舞台、初役…… いろんな節目がある。
一世一代はもう二度とその役者がその役を演るのを見られない。寂しいけれど最高の芝居が観られるに違いない。そういう期待も有って、客が入る。
「怪我のないよう、お勤めください」
「わかっとる。お前にもっと教えてからやないと、死ねんわ!」
元気な父の様子に佐吉は安心した。
父の跡は継げない。名前も貰えない。でも、芸の真髄は少しでもいいから教えて欲しい。
「ちゃんと見るんやで。ええな?」
「はい」
「上手、下手、客席、思いつく限りのとこから見るんや」
「はい」
目に焼き付ける。記憶に残す。
同じ役がいつか出来るように。
次の日、佐吉は真昼間から吉原に居た。
置屋の玄関で、出迎えに来たお志乃には呆れられた。
「こんな早いうちから、こんなとこ来ててええの?」
「すぐに初日で当分来れん。でも、ねぇちゃんに渡したいもんあったから来た」
「ここでねぇちゃん言わんといて!」
「なら、部屋行こうか、吉野」
思いっきりキザって江戸弁で言ったが、お志乃は鼻で笑った。
「はいはい。行きましょか、お客さん」
二人でお志乃の部屋へ向かった。
「はい、ねぇちゃん」
佐吉はすぐに懐からそれを取り出して手渡した。
「なんやろな。……塩昆布? おおきに。嬉しいわ。すぐお茶淹れるわ」
「ありがとう」
懐かしい味に、子供の頃を思い出した。
「ねぇちゃん好きやったもんな」
「食べ過ぎてようおかあちゃんに怒られたわ……」
楽しい思い出ばかりが浮かんでは消えた。
しかし、二人とも大人になってからはいい思い出があまりない。
古い話にキリをつけ、これからに目を向けた。
「佐吉ちゃん、次はなにやるの?」
「『女殺油地獄≪おんなごろしあぶらのじごく≫』お父はんが与兵衛、お吉は藤右衛門のお兄さんや。……与兵衛をこっちで演るのはこれで最後やて言うてはる」
「一世一代か。よう見とかんとなぁ」
「うん。お父はんにもキツう言われとる」
「で、お永ちゃんと佐吉ちゃんは何役やの?」
「永之助はおかち。俺は小栗八弥。初めて馬に乗れる!」
うれしくてしょうがない様子の佐吉をお志乃は笑った。
「あれ? 乗ったことなかったん?」
「一人で乗ったことはない。お祖父さまの実盛の時に、太郎吉で乗ったらしいけど、全く覚えてない」
まだ実の母も生きていた、祖父も健在だった、その頃は普通の御曹司扱いをされていた。
「そうか……」
「……脚は何度もやったけどな。小栗判官の鬼鹿毛≪おにかげ≫の後脚、碁盤の上に乗って、前脚の人を抱きかかえんとあかんやろ。あれは本当にキツくて怖かったわ」
普通はそんなことを御曹司なんかにさせない。相当な苦労を大坂で味わった佐吉の江戸での栄典をお志乃は心から喜んだ。
「小栗が乗る馬の脚から、馬に乗る小栗になったやないの。出世やわ。おめでとう」
「ほんまや。気づかんかったわ。ありがとう!」
日陰から、日の当たるところへ出ていく幼馴染をほほえましく思った。
「佐吉ちゃん、頑張り」
「うん」
「……さぁ、長居はあかん、もう帰り」
夜の世界に引き止めてはいけない。そう思うお志乃は、そっと彼を突き放した。
「じゃ、また、来るわ」
そんな気持ちなど気づかない佐吉は、意気揚々と廓を後にした。




