〈01〉 期待と恐れ
千秋楽の二日後、『藤右衛門』が稽古場に現れた。
「おはよう。今日からしばらく舞の基礎特訓ね。みっちりやりますから」
特訓を受けるのは、勿論佐吉と三太。
二人とも、『酷い』との評価を藤屋の頭領に頂いてしまった。
「先生、よろしくお願いします」
やってきた先生は、年配の女性だった。
「はいはい。よろしく。お藤ちゃんも一緒にやる?」
「はい。もちろん」
五日間休み無しの舞踊の徹底的な基礎特訓が行われた。
「よし。二人に頑張ったご褒美あげよう!」
最終日の夕方、藤右衛門は満面の笑みを浮かべた。
「え? なんですか?」
「吉原行こう。みんなには内緒だよ」
驚きの内容に、二人は声も出なかったが、
いそいそとついて行くことにした。
「三太は、初めてかい?」
「あ、いや、兄さんがたに連れられて、この前……」
「馴染みの子はいるの?」
「いえ……」
「じゃ、今日は一緒に茶屋遊びしましょうね」
「はい」
「佐吉は、永之助と二人で一緒に身請けするんだって? 吉野を」
佐吉は返答に困った。
確かに、永之助にはそう誘われた。
しかし、永之助は仮にでも、許嫁である。
そして、問いかけてくる人は、一家の長であり、将来の姑になるかもしれない人である。
どう答えるべきか、わからない佐吉。隣で青ざめている三太。
そんなことを知ってか知らずか、藤右衛門は笑って言った。
「怒らないよ。身請けして、奥さんにしても」
「え!?」
ありえない言葉が返ってきて、佐吉と三太は声を上げた。
佐吉は、そんなこと想像もしなかったという驚き。
三太は、いよいよ見放されたか、という絶望にも似た驚きだった。
「ただし、お永が佐吉をお婿さんにしたいって言ったら、ダメ」
「はい…… もちろん……」
三太はほっと胸をなでおろすと、まだ大丈夫と自分に言い聞かせた。
一方、佐吉には想像もつかなかった。
女のお永が自分を男として好いてくれることが。
「……吉野は幼馴染だってね。大阪からこんな遠くまで来て大変だろうに」
そういう藤右衛門の顔は曇っていた。
やはり根は女である。
「……幸せになれればいいけど」
茶屋の座敷に上がった三人。
藤右衛門は女将に慣れたそぶりで命じた。
「夕影と、吉野を、あと、同じ店の子を何人か。お願いできる?」
「はい。ただいま、お待ちください」
ほっと一息着く間もなく、突然座敷は騒がしくなった。
芸者たちや太鼓持ちが乱入してきたのだった。
「おや、藤さま! お久しぶりですね! こないだの阿古屋ほんと素晴らしかった!」
ゴマをすりすり太鼓持ち。わかっている藤右衛門は笑って対応した。
「あんた観に来てないでしょう」
「意地の悪い。おっと!」
彼はあっというまに芸者衆に押しのけられた。
「……藤さま、最近忙しかったんですか?」
「さみしかったんですよ」
「次はいつお見えに?」
女たちには優しい藤右衛門。
「そうそう。忙しくて来れなかったんだよ。
また近いうちに来るから、ね?」
「ほんとですか?」
「約束!」
華やかな芸者遊びが繰り広げられるかと思ったが、
彼女たちの仕事はここではない。
太鼓持ちは彼女たちを誘導し始めた。
「さぁさぁ、ねぇさん方、あちらのお座敷が目的地ですよ! 行きますよ!
御大尽がお待ちかねですよ! 藤さま、またどうぞご贔屓に!」
どうやらほかの座敷に行く前に寄っただけのようだ。
しかし、それだけ人気があるという証拠。
「……どう? 藤五郎兄さんより、私のほうがモテるでしょ?」
自信たっぷりの笑みだった。
否定しようがない。目にも明らかだった。
「はい。すごいです……」
「そういってる間に、来たようだね」
佐吉と三太は藤右衛門の敵妓がどんな女か興味津々。
そして現れた途端、びっくり仰天した。
「……お久しぶりでありんす、藤さま」
「に、兄さん…… 太夫や……」
「ほんまや……」
藤右衛門の敵妓は、最上位の太夫だった。
びっくり仰天の二人をよそに、藤右衛門は夕影太夫の手を取り、隣に座らせた。
「久しぶり。元気だった?」
「あい」
気づかぬ間に、佐吉の隣には吉野が座っていた。
「……佐吉さん、どうなんした?」
人前である。吉原の遊女らしく振舞う彼女だったが
佐吉の一言で、お志野に戻ってしまった。
「……ねぇちゃん、夕影さんって、太夫なんか?」
「……こら、ここでねぇちゃん言わんといて!」
クスリと太夫に笑われ、吉野に一瞬で戻った。
「そうでありんす」
「いいよ、自分の言葉で。ね? お夕」
「はい。藤さま」
「お夕は武家の出、お志野は上方の出、言葉はいろいろな方が面白い」
遊びなれたと見える藤右衛門の余裕さに、佐吉は感心していた。
女遊びは芸の肥やしになる。とはよく言ったものである。
お座敷遊びを楽しんだ後、それぞれと二人きりに。
「……今日はどないする?」
ドキッとしたが、佐吉は再びやんわりと断った。
「ええわ。ねぇちゃん、毎晩忙しいやろ? たまには休んでや」
「ええんか? ほな、お話しましょ」
うれしそうな彼女の様子に、佐吉もほっとした。
「お永ちゃんは、相変わらずなん?」
「せや。可愛い弟や」
「そうか……」
佐吉は、お志野に聞いてほしい話があった。
「今度な、お父はん、江戸に来るらしい……」
「え? 仕事で?」
「せや。三月もこっちにいてるらしい」
「よかったやない。お父さんに甘えたらいいやないの?」
それもしたかった。しかし、その魅力以上に己を捕える感情があった。
「でもな、俺、怖いんや……」
「なんで?」
「お父はんな、俺にな、いくつかお役をみっちり教える気でいてるらしい……」
「それが、どないしたん?」
「お爺様が、そうやった…… 病で、先がもう長うないてわかったとき、お父はんに
いくつかお役を教えたんや……」
お志野は何も言わなかった。
どう答えていいか、わからなかった。
「兄さんは違うって言うけど、怖いんや……」
父に教えてもらえなかった。
やっとその機会が来た。
なのに、背後に言いようのない恐怖が付きまとう……
「佐吉ちゃん。会ってから考えなさい」
しばらく考えていたお志野はそういう結論を出した。
「え?」
「会ってから、顔色見て、様子見て、そこから心配しなさい」
「せやけど……」
「いまから心配してもあかん。身を削るだけや。寝よ!」
そしてすぐさま部屋の明かりを消してしまった。
「真っ暗や! なんも見えん!」
突然でびっくりの佐吉を、お志野はからかった。
「寝るだけだからいいやないの。なんもかんがえんと、寝なさい!」
その日が来た。
朝からそわそわする佐吉と三太。
「どないしよう……」
あっちへうろうろ、こっちへうろうろ……
「あきません。落ち着いて!」
そうたしなめる兄弟子は、腰かけてはいるものの、貧乏揺すり。
「兄さんこそ、落ち着いてないやんか!」
ああだこうだ二人で言ってると、ついにその時が来てしまった。
「佐吉。お父さん、みえたわよ」
お藤に呼び出され、二人は客間へと向かった。
襖に手を掛けた佐吉は、兄弟子を振り向いた。
「兄さん…… 怖い……」
「へたれはあきません。大丈夫やから、しっかり!」
意を決して、佐吉は客間に入った。
「失礼します」
「お、久しぶりやな。佐吉」
目の前に、別れた時となにも変わってない父が居た。




