〈10〉 稽古
『少し長い稽古期間』とはいうが、それはたったの十日。
佐吉は稽古開始前に話の筋を頭に叩きこんだ。
演ずる二役は台詞が少ないが、両方とも今回が初役である。
一番稽古時間を必要としたのは、『阿古屋』
源頼朝を狙い、姿を消した悪七兵衛景清を探す源氏。
景清の恋人である傾城阿古屋が詮議のため、引き立てられてくる。
詮議をするのは、二人。
一人は秩父庄司重忠。
分別のある正義感あふれる人物。
もう一人は、岩永左衛門致連。
意地の悪い人物。
景清の詮議のため、岩永は拷問で阿古屋の口を割らせようと意気込むが、
一方の重忠はある意外な方法で詮議を始める……
佐吉が演ずるのは、意地の悪い『岩永左衛門』
拵えは赤っ面。悪者である。
この人物、台詞は自分では言わない。
「人形振り(※1)はやったことあるか?」
人間が人間の動きではなく、人形浄瑠璃の人形の動きをする。
「いいえ。初めてです」
そう答えたが、実際は少し違う。
自分が人形ではなく、人形遣いとして出たことはあった。
勿論、顔を見せない黒衣として……
思い出したくないので、佐吉は言わなかった。
「早速竹本さん(※2)と黒衣達に挨拶に行って、稽古だ」
「はい」
「よろしくお願いします」
「よろしく頼みますよ。佐吉坊ちゃん」
『岩永左衛門』を操る黒衣二人は藤翁の弟子だった。
慌てて佐吉は止めた。
「坊ちゃんはやめてください!」
「いいや。将来は藤屋のお嬢の婿殿だ。坊ちゃんだよ」
冗談もそこそこに、早速稽古に入った。
初めての人形振り。動きを皆で確認しながらの稽古だった。
すると、熟練の黒衣二人はあることに気づいたようだ。
「……ほんとに初めてですか?」
佐吉は平静を装った。
「……何か気になりますか?」
「今まで人形振り初挑戦でここまでできる人、一人もいませんでしたからね。ねぇ?」
「あぁ。見たことない」
「そうですか……」
理由を聞かれたくない。
その思いが顔に出ていたようだ。
ずっと黙って見ていた藤翁が、佐吉に手招きした。
「ちょっといいかな?」
佐吉を稽古場の隅に連れていくと、小さな声で聞いた。
「後見の経験は?」
「いいえ……」
少しの間ののち、低く彼は佐吉に言った。
「……黒衣の経験ならあるのか?」
佐吉は腹をくくり、正直に答えた。
「……はい。でも、人形の方の黒衣の方が長いです」
驚く藤翁。
「なぜ後見でなくて、黒衣を? しかも人形の方に?」
「顔が見えんからです……」
「顔が見えんって……」
「舞台にどうにも立てんくなった時、こっそり黒衣にしてもらいました。
でも、すぐに弟にバレて、あかんようになりました」
母に佐吉憎しで育てられた腹違いの弟。
兄が黒衣をやっているのを知ると、鼻で笑った。
さらに、一目も憚らず、舞台上で足蹴にした。
佐吉は耐えた。
しかし、最後の手段であった黒衣の地位を奪われ、舞台に立つことは出来なくなった。
さらに、手伝っていた裏方の仕事も禁じられ、どうにもならなくなった。
「人形遣いの家の友達が助けてくれました。そこで、基礎から仕込んでもらいました」
佐吉が着物の裾をぐっと握りしめたのを、藤翁はしっかり見ていた。
芝居が好きで仕方がない。それゆえ、御曹司でありながら黒衣に身を落としてまでも
舞台に立ちたかった。
「……もうその辛い思い出は忘れるんだ。お前さんを大阪に返すことは絶対にしない。
ずっとここにいるんだ。わかったな?」
「すんません……」
同情を買いたくない。
憐れみで、置いてもらいたくない。
己の芝居で、認めてもらいたい。
そう思う佐吉だったが、今は仕方ない。
「これで、お永が婿に選んでくれたら万々歳なんだがな…… 」
「それだけは何とも……」
藤翁はふと何かを思い出したようだった。
笑みをこぼしながらつぶやいた。
「さては、先代の藤右衛門に似たかな、お永は」
「お祖母様ですか?」
佐吉が江戸に来る二年まえに亡くなったという、先代藤右衛門。
藤翁の妻。
「あれはな、人生のほとんどを男で通したんだ」
「へぇ……」
「男としては、全然面白くなかった。寝る時しか顔を拝めないんだからな。だが、役者としては最高だった。心底惚れていた。藤右衛門に……」
佐吉は感銘を受けた。
役者として惚れ、女として惚れる。
はたして、お永はその対象になるのか。
そして、もしそうなったとき、自分は彼女に見合う男であり、役者であるのか。
期待と不安が入り混じっていた。
「まぁ、お前たちはまだ若い。頑張れよ、まず第一の課題。お永の顔を拝めるように」
その日の夕方、稽古場に永之助が現れた。
「佐吉兄さん。お疲れ様です」
「お、どないした? 今日はもう終わったんか?」
「はい。出番最初の演目で終わりなんで。あ、そうだ!」
風呂敷包みをごそごそと探し始めた永之助。
「どないした?」
「ちょっと待っててください…… あれ、どこやったかな……
あ! あった。兄さん、休憩行きません?」
お誘いに、佐吉はすぐ乗った。
「せやな。行こか」
二人は稽古場を抜け出て、母屋の庭の縁側に腰掛けた。
「兄さん。はいこれ」
永之助から手渡されたのはみかん。
「どないしたんや、これ?」
「三河屋のお瀧ねぇさんからもらいました。」
「お瀧さんって、雪太郎兄さんの?」
「そうです。新婚ほやほやの若奥さま」
「仲ええんか?」
「外に友達あまり多くないんで、仲良くさせてもらってます」
「この商売してると、遊べんもんな」
忙しいということは、仕事が有るという事。
仕事が有るというのは、人気が有るという証拠。
「でも、外の友達、観に来てくれるんちゃうか?」
「はい。でも、若手花形の時くらいです。お父さんたちが出るのは難しいから嫌だって」
佐吉の口から大きな溜息が漏れた。
「『難しいから』って言うやつ、こっちにもおるんか?」
「え? 大阪もですか?」
目を丸くする永之助。
どうやら西も東も変わらないようだ。
「年々増えて来よる。かなわんわ……」
「こっちもです。世話物なら簡単だから、そこから入ればいいのに、食わず嫌いな子も多くて……」
「『何言ってるかわからへん』やろ?」
「そうです。『意味がわからない』とか『眠くなる』とか言うのもいます」
二人で溜息をついた。
いくら芸を磨いても、観てもらえなければ意味がない。
客が減っては、芝居をやれない。
「なにがあかんのやろな」
「わたしたちには、当たり前で、難しいとかの次元じゃないですもんね」
「このまま首傾げててもあかん。かといって、客寄せでウケ狙いの演目ばっか掛けとったら、滅びる演目が出てくる……」
「危機ですね……」
「何か手を打たんとなぁ……」
佐吉は何か言いたげな永之助の眼に気付いた。
「あ、その顔は、何か良い案があるんじゃねぇか?」
「はい、兄さん、最後もう一度」
答えの代りに師匠から江戸弁の指摘が入った。
「あんじゃあねぇか?」
「はい、さっきより良くなりました」
「で、考えは?」
なぜか渋る永之助。
佐吉は聞きたくて仕方なかった。
「聞かしてくれ。な?」
不安げに永之助は言った。
「……笑いませんか?」
「わらわへん。言ってみ」
その言葉に気を許したのか、永之助はやっと語り始めた。
「わたしたち若手で、一から十まで企画運営するんです」
「若手花形とは違うんか?」
「はい。掛ける演目、配役、指導を仰ぐ先輩方、すべて自分たちで決めます。
演目の世話物には新しい演目を作って掛けるんです。その新しい本は、若手の狂言作家に書いて貰います。背景画も、若手に頼みます。後見も、黒御簾さんも、すべて若手でやるんです」
あっけにとられ、ポカンとする佐吉に、不安そうに永之助は聞いた。
「……やっぱり笑いますか?」
「いいや。一気に聞いて、驚いただけや。笑うヤツおったんか?」
「……はい」
暗い顔が佐吉は気になった。
しかし、彼は全く笑えなかった。
「どこに笑える要素があるんやろな。それ、やりたいわ。いや、やれるで絶対」
「……そうですか?」
「手伝うさかい、やろうや」
「ほんとですか?」
「せやけど、まずは仲間増やさんとな。その笑ったやつにしか話してないやろ?」
「……はい」
「絶対みんな協力してくれるはずや。そんな笑ったやつはほっとけ。な?」
「……はい」
苦しそうに返事をしたのが、またも気になった。
しかし、それ以上に彼女の計画の魅力が勝っていた。
「今すぐは無理やけど、今のうちから帳面にまとめて置くんや。永之助の考えを。
それにな、名簿も作ろ。賛同してくれる人。参加してくれる人。きっちり纏めるんや。
口だけやったらあかん。目に見える物をまず最初に作るんや」
言い終えたとたん、今度は永之助がぽかんとしていた。
「兄さん、すごい……」
「なにが?」
「才能ありますね。兄さん中心にやれば、もう鬼に金棒です!」
「そうかい?」
そうキザってみたが、またも師匠から指摘が入った。
「はい、もう一回!」
佐吉が永之助に向ける感情。
それは『女』に対するものとはほど遠かった。
それは『自分になつく、可愛い弟』に対するものであり、
『志を同じくする者』に対するものだった。
(*1)人形振り≪にんぎょうぶり≫
人形浄瑠璃から歌舞伎になった演目=「義太夫狂言」の中で、俳優が人形の動きをまねて演じること。女形の方が多い。
(*2)竹本さん
竹本連中
歌舞伎の「義太夫」をする集団




