第三話 動く道 1
何かがおかしい。今日はいったいどうしたというのか。
ヘアピンカーブの入り組んだ大貫峠は、道が狭く車は離合しにくいため、地元の者でも滅多に通らない。余程観光コースに飽いた物好きか、人の目を嫌うカップルが、ふらりとやって来る他は、大抵、バイクの走り屋である。
柴田は、普段は税務署に勤める傍ら、週末にはあちこちのコースに出かけて、バイクレースに出る。ネットで参加しているバイク仲間で開催するレースには、時間と金が許す限り出場していた。
今回も、大貫峠で、少し慣れた者同士で行うレースが開催された。柴田はその主催者の一人であり、レースの参加者でもある。
一般車は、この峠を使わず、下のトンネルを使って横断するのだ。
いつものように、峠に繋がる出入り口2箇所に配置を置き、万全を期する。最近は、この手のレースの掛け金も上がり、観客もつくようになっていた。
柴田は、調えたばかりのバイクの威力を確かめたくてうずうずしていた。このタイムレースに1位になれば、数十万の金を手にすることができる。参加者6名は、あちこちのレースで顔を合わせるベテランでもある。負けるわけにはいかなかった。
コースは1本道しかない。
籤引きで走る順を決める。柴田は4走目になった。1分間隔で発車する。出来るだけ追い越しにかかる危険を避けるためでもある。
1走目が発車した。2走目・・・柴田は、快調に発車した。
ヘアピンカーブを道いっぱいに使いながらスピードを落とさずに曲がることがタイムを左右する。柴田のバイクは軽快なエンジン音を轟かせ、新しいタイヤは順調な走りを見せる。3走者のエンジン音が聞こえ、背中が見えた。上り坂なのにブレーキを多用しながら走っている仲間を、柴田はスイっと抜く。狭い道だから、抜くにも技法を使う。相手は、抵抗を見せずに抜けた。2走者の音を捉えた。もうすぐ頂上になる。下りはブレーキを使わずに加速する最も技術が物を言う場面になる。頂上前で2走者を抜き、下り出してから1走者を捉えた。
ぐんと追いつき、追い越そうとした。1走者の男は、抜かれまいと抵抗を見せる。抵抗は、事故のもとになる。柴田と相手の事故を隣り合わせにした心の駆け引きが始まる。1走者が柴田の牽制に失敗して、ヘアピンカーブのガードレールに激突した。柴田はその隙に、1走者を追い抜いた。
誰も柴田を抜ける者も、迫る者もいない。
爽快な気分の中に、1走者の事故が少し気になる。そこまで過激にぶつかったわけではあるまい。柴田は、軽快なエンジン音を轟かせて走る。
もう、そろそろゴールが見える頃なのだ。
このコースの距離を計測したのは柴田であり、ゴール位置は、柴田が路面にチョークでラインを引いたのだから、よく覚えている。
ゴールはいつまでも見えず、ヘアピンカーブはエンドレスに繋がっているような気がする。
何かが、おかしい。
トンネル上の数キロだけが峠になっており、頂上もただの通過点に過ぎない。登って下る。下りの方を少し長めにコース設定をしているだけだが、何故、一向にゴールが現れない?
何かが、おかしい。
柴田は、止まり、エンジンを切って、耳を澄ませ、周囲の景色を見回した。鳥の鳴き声が聴こえただけで、聞こえるはずのバイクのエンジン音が全く聞こえない。携帯を取り出したが、電波が届かない。柴田は、舌打ちをして、引き返した。
頂上を目指し、下る。先程1走者を抜いた位置には誰もいなかったし2走者を抜いた場所にも記憶がある。
もしかしたら・・・ガードレールにぶつかったアイツが、重症だったのかもしれない。
柴田は、恐る恐るスタートラインまで走って来た。
まるで、嘘のように、すべてが蛻の空。あれほど集まっていた関係者もギャラリーもいない。峠の入り口で見張っていた人もいない。峠の下には、トンネルに通じる道を車が普段どおり横行している。
は?何なんだよ?いったい。
柴田は、ゆっくりと峠をバイクで走った。柴田のバイクのエンジン音だけが響く。
もしかしたら、俺を待って、ゴールに誰かが待機してるかもしれない。この山では、誰の携帯も電波が届かないはずだからな。
柴田は、峠を走る。
絶対に、おかしい・・・
頂上から下りに入ると、ゴールも峠の出口もないのだ。延々に緩やかに下るだけ。
柴田は、舌打ちをして、頂上を目指し、一般車が横行しているトンネルからゴール方向の峠の入り口を目指そうと思って、走った。
悪戯んなよ・・・
今度は、頂上が現れないのだ。何故?登っても登っても、頂上が見えない。延々と同じヘアピンカーブが続くだけ。柴田は、ムキになって登り続けるが、同じである。頂上は出てこない。
閉じ込められた?
頂上と、ゴールまでの峠の道に、柴田は閉じ込められたのだ。
嘘だろ?あり得ねーし。こんなことって・・・。
柴田は、ガソリンだけは走るだけ忠実に減っていくメーターを忌まわしく見て、バイクを止めた。
道ではなく、周囲の山に目を向け、景色を見ていた。
晴天であり、アスファルトの割れ目から雑草が芽を出しているのが見える。山は濃い緑の葉を茂らせた木々に覆われている。
出口がない。という以外に、何もかわったことがない。
柴田は、荷物を仲間の車の中に置きっ放したことを後悔していた。何度も会ったはずの連中だが、ネット上で知合った架空のニックネームで呼び合っていた関係に過ぎない。何もかもがまやかしだった。全て架空の世界だというのか。これは。
柴田は怒りに似た感情を燻らせ、天を睨んでいた。
突然、道の下から、ふうふうと息を切らせながら、眼鏡をかけた冴えない中年男が歩いて登って来た。登山ではなさそうな、サラリーマンの仕事着のような格好。山なのに革靴を履いている。
「柴田さん、こんなところにおいででしたか。」
「・・・誰だい?あんたは?」
「あ、あたしは、早田と申します。」
早田は、愛想笑いを浮かべた。
「・・・ちょっと待てよ。早田さん、あんたは、どこから登って来た?」
「どこからって、この峠の下ですよ。ニックさんが、大怪我をされましてね。救急車で搬送されました。」
ニック?ああそうか、1走者のHNはニックって言ったっけ。大怪我?
柴田は、しまったという顔をした。やはり、重症だったか。
早田は、愛想笑いの目を深刻そうにしながら、
「今日のレースは中止です。私は、それをあなたに伝えに来たのですよ。」
「中止?冗談でしょ?俺は1位だったんだよ。」
「え?柴田さん、皆さん、既にゴールされていますよ。セナさんとライトさんが、ニックさんを運んで来たんです。順位なんて、ありませんよ。強いて言うなら、セナさんとライトさんですよ。さあ、もう、皆さん、それぞれの宿泊所へ戻られました。柴田さんも、どうぞ。」
セナ、ライト、ニックというのはネットを介して知合った、一緒にレースをしていた仲間の名前だった。柴田は、ジョーという名で登録している。この男は、柴田だけ本名で喋った。
「・・・宿泊所?・・・どうぞって、何です?」
怪訝な顔をしている柴田に、早田は困ったような顔をした。
「・・・どうか、なさったんですか?柴田さん。私は、山荘四奏館の早田ですよ。今日、あなたがお泊りになる宿の者です。お荷物は、お預かりしています。さぁ、どうぞ。」
「どうぞって、何だよ?俺は、バイクで、あんたは歩きだろ?・・・俺はあんたを乗せないぜ。」
「あー、滅相もございません。お客さんに乗せてもらうなんぞ、とんでもない。私は、このまま、山道を降りますので、柴田さんは、この道をまっすぐ下って下されば、案内が出ておりますので、わかりますよ。」
出口があるのか?と、聞こうとして止めた。
「・・・この道は、あんたのいう山荘に繋がっているのか?」
「そうです。この道をまっすぐ下ると、左折するところに、案内表示をかけています。じゃ、お待ちしていますね。」
早田は、道の全くない木々の生えているだけの山肌へ、ガードレールをヒョイと飛び越えて、降りて行った。
柴田は、早田の背中をしばらく見てから、バイクに跨りエンジンをかけた。
変な宿に泊るワケないだろ?とにかく、急いで道を抜け出そう。
早田の言ったとおり、道沿いの左折の脇道に、山荘四奏館の木製の看板がかかっていたが、柴田は素通りして、峠の出口へと急いだ。しかし、行っても行っても、さっきと同じ、峠の出口は見つからないのだ。そのうちに、ガソリンのメーターがEを示した。いつの間にか、日が落ち、夕日がオレンジ色に空を染め、沈もうとしている。
チクショウ・・・
柴田は、Uターンして、山荘四奏館へと向かう。ものの1.2分も走らないうちに、右折の看板が現れた。
どんなトリックを使ってるんだ?
・・・行ってやろうじゃないか。
その山荘に、どうしても俺を呼びたいらしいな。
柴田は、右折した。
続きます。