廃人の末 4
官能シーン、残酷シーン在り。ご注意ください。
岩本氏は志乃によって、化け物に適応して行くことを歓びます。
果たして、夕餉の膳が運び込まれるまで、岩本は起きていた。ずっと耳を澄まし、匂いをたどろうとしたが、現実の五感には何も察することができなかった。死に絶えたような静寂。遠い瀬の音、遠い小鳥の囀り、さわと竹林を渡る風の音。澄んだ空気、それ以外の気配をすべて消し去っていた空間。
座敷の戸が開けられたとき、夕餉の膳を持った仲居がいた。
「は、起きていらっしゃったので?」
「そんなに驚くことはないでしょう?」
「失礼しました。」
「うまそうな膳ですね。どんな料理人です?僕は、お会いできませんか?」
「は?それは…女将にお尋ねくださいませ。」
「そうしましょう。」
仲居はいつになく、動揺しているように見えた。
今まで曇っていた脳が、ここに来てやはり、シンシンと冴えているのだ。
「岩本さん、こんばんは。」
「ああ、早田さん、今日はお休みだったそうですね。」
「仲居さんから聞きましたよ。遊歩道を上がって滝まで散歩に行かれたそうですね。」
早田はいつもの愛想笑いを浮かべておらず、真剣な目をしている。
「はい。早田さんに、僕は感謝しているんですよ。ここに、連れて来てくださって、僕は、嘘のように回復しましたよ。」
「そのようですね。」
早田は、目にいつもとは違う光を見せて、岩本を見ている。岩本も、こんなにしげしげと早田を見たのは初めてのような気がした。
「そろそろ、帰りたくなったんじゃありませんか?岩本さん。」
「ずっと甘えていて申し訳ないのですが、早田さん、僕は、帰りたくないんです。このまま、ここに居たいと思っているのです。」
「ほぉ…」
早田は険しい顔をしたまま、岩本を凝視している。
「ここで、働きたいと、女将さんに申出てみようと思っているのです。無理な話は承知ですが。僕は、ここでしか、生きられないような気がするんですよ。」
「うむ…」
「ここに来るまでの僕は、実に、死人でした。」
早田が真剣な目をして聞いているので、岩本は続けた。
「ここに来て、初めて、生きていることを嬉しいと思いましたよ。」
「…なるほど。」
早田は、普段のように夕餉にも酒にも手をつけず、岩本の顔を凝視していた。気だるそうにぼそりと曖昧な発音で喋っているのか唸っているのかわからなかった男が、今は明瞭に、自称まで変えて堂々と喋っている。まるで別人である。早田は、岩本の変容振りに黙って頷いた。
「こんばんわー。」
玉枝の声がして、艶やかな着物を纏った玉枝が座敷に入って来た。
「こんばんは。」
志乃の声が続き、二人は座敷の戸口のところで並んで座った。
「すぐる様…働いていただくことに致しましょう。」
志乃の声が優しく響く。
「それでは…志乃さん・・・。」
「さて、祝いの膳でございますねぇ。どうぞ、すぐる様。人としての最期の膳でございますよ。ごゆっくりの堪能くださいませ。私は、後ほど参ります。」
志乃が、玉枝を連れて、去った。
「岩本さん、私が、付き合いましょう。どうぞ、お食べなさい。」
岩本は、膳を見ると異常な空腹を感じ、ガツガツと飢えたように平らげていく。いつもとは違い、酒を注がず、早田が一口も膳に箸をつけないことも、最後の膳といわれたことも、岩本は不思議とは思わなかった。すべてを平らげた後で、やっと人心地つき、岩本が満腹の溜息をついたときに、早田が、低い声で話し出した。
「この四奏館は、実は字が違うんですよ。死に送還する館。と、書きます。山荘の前に掲げた看板を読み、不吉さを感じて踵を返す者には、危害を加えぬという善意の名とでも言うのですかね。ふふふ。――ここは、昔、神社があったんですよ。千年ほど里人はずっと鬼を閉じ込めたこの地に、神社を祭って、鬼を封じ込める祈りを続けていました。それが、急速な過疎で、ついに、祈りを知っている血筋ごと絶えてしまったわけです。」
「鬼が、再び蘇ったと?」
「そう。封印の祈りを知る者すべてが死に絶えてしまったのでね。」
「鬼は、本当にいたんですね。」
「・・・私は、鬼に魅入られた、かつての人間です。私は下界で馴染めなかった人間なのです。ここに引き寄せられるように、急な探究心を出して彷徨って来てしまった。そのまま、私は、玉枝に恋慕して居つきました。適応したのですよ。」
早田は、ニッと笑った。
「そして、送者になりました。」
「送者?」
「狩をして、生餌をここに持ち帰る、送る者ですよ。」
「僕は・・・あなたに狩られたんですか。」
「…あなたは、死にたい人でした。一人で死ねぬ愚かな人間。それが、あなたでしたね。」
「…あなたに狩られながら、僕はどうして死ねなかったのでしょうか?」
「もちろん、食うつもりでしたよ。何せ43歳。あなたの魂は多くの寿命を残していましたからね、我々にとっては極上のご馳走だったのです。」
「我々?寿命がご馳走?」
「温い血、精気、霊気…人間は寿命も長く極上の餌です。」
「我々は、毎夜毎夜、あなたに牙を当てました。」
「は?」
早田は真剣な目をしたまま、喉の奥でクックックと笑った。
「ところがね、あなたは、我々の精気を奪うのですよ。」
「僕が?」
「志乃はあなたに吸われるのを承知で、あなたに褥を共にしながら、あなたに血をね、飲ませてきたのですよ。我々の中で、それが出来るのは志乃だけですからね。」
「僕が、志乃さんの血を?」
「我々の血などを飲めば、人間などひと時として生きてはおれません。恐らく、身を焼く猛毒でしょう。」
「では、僕は?」
「…あなたも適応したんですよ。フフフ。ごく稀に、いるのです。私や、あなたのような体質の人間がね。・・・人間の世界で異端児されていた人間。実は、化け物だったと、いうわけですよ。」
「僕が…化け物?」
「人間からすれば、化け物ですよ。人間を餌にしている者など、人ではありませんからね。」
岩本は、早田の話を受入れながら聞いていた。
「では、僕が血を吸った志乃さんは?」
「あなた、見たんじゃありませんか?棕櫚の間の、男。」
「死人のようだった、あの男?」
「急遽、私がお連れしたんですよ。28歳の、希望に満ち溢れた青年をね。喰わなければ、化け物の変化には古い血を持つ志乃でさえ苦しんでしまいます。」
「あれが、28歳の青年?」
「そうですよ。志乃が喰った餌です。」
「餌…。」
岩本は、唇の端をきゅっと吊り上げて笑った。
ふふふふ
なるほど、そういうことか。
「仲居は、ヒサエと言う名の仲間です。まだ日の下を歩ける者です。私と同じ。ヒサエはこの館の仲居をし、私は、餌を運んでくる送者です。…あなたも、送者に、なれますが…」
早田はチラと上目で岩本を見た。
「・・・死ねませんよ。」
「ここで仕えられれば、死にたいなど思うものですか。」
「では…試練を、あなたに与えましょう。・・・これはね、私どもの善意であり、神、いえ、神と崇められた鬼の意思です。」
「試練?」
「一人…餌が要ります。」
「…私に、狩って来いと?」
「まだ、あなたは人間です。志乃の血で妖の力を持っていますがね。人間だけが、日の下を歩けます。人間には、怪しまれません。」
岩本は、早田がここへ吊れて来られた時のことを考えていた。
「あなたには、これがまだ札束に見えるでしょう?」
早田がいつの間にか取り出しているアタッシュケースを開いて見せた。ビシリと並んだ札束は、紛れもない壱萬円札だ。
「ふっふっふ。これが、惑わせの力ですよ。これを、お持ちなさい。」
早田は、アタッシュケースを岩本に渡した。
「金の威力は、人間にしか利かぬもの。ただし、この金とその頑丈になった体で、人間の世界で生きても良いのですよ。」
「えっ?」
「心配要りません。これは木の葉などではなく、正真正銘の札束です。人間に認識させることが出来ますが、機械には無理です。正真正銘の札の幻惑です。」
「こ、これで…?」
岩本には、ずっと縁遠かった札が、ぼんやりとだが、岩本にとって価値がまるでない、モノにしか見えない。
「運転手は、我々の仲間ではないが、金で黙っている人間です。車を使って人里に降りれば、あなたは我々とは無縁に、その金を使って生きていける。幻惑と言えど、人間の目には消えることのない金なんです。機械が認識しないだけで。使い方次第ですよ。運転手のような人間だらけですからね。」
岩本は、早田の目を見た。既に腹は据わっている。
「なるほど。試練というわけですね。」
早田は真剣な目のまま頷いた。
腐っていたような脳が、今は、志乃のお陰で覚醒している。このまま、人間の世界でも暮らせ、餌を連れて戻れば、ここでも生きられる。
岩本は、笑った。
化け物であることを知らなかったとき、人の世で生きる力を持っていなかったのに、化け物であることを知った今になって、人としても、化け物としても生きられるというのか。
会って見たい。鬼に。僕にも見えるのだろうか。
夜、志乃がスルリと岩本のベッドに入って来た。
「志乃…僕は、餌を連れて戻って来るよ。」
志乃はクスリと笑った。
「すぐる様…志乃が、恐くないの?」
「恐い?何故?」
志乃の目を覗きこんだ岩本の目には、真っ赤に光る瞳が映った。岩本はその瞳が、ルビーのように美しく見えた。
「僕は、嬉しいんだよ。志乃さん。」
志乃は岩本にしがみついた。
「私を、鬼にした男に、逢わせましょう。あなたは、与弥太に気に入られるかも知れません。」
「与弥太?」
「人間たちが、夜蛇神と畏れた男鬼です。」
「志乃も、昔は人間だったの?」
「忘れてしまうほど、ずっと昔に、玉枝と同じ、この里で生れたような記憶があります。人の姿の与弥太に、身も心もすべて捧げました。」
志乃は紅い目を潤ませて言う。岩本は不思議と嫉妬は涌かず、与弥太という鬼に会いたいと思いながら目を潤ませた。
「うふふ・・・与弥太が呼んでいますわ。すぐる様・・・。」
志乃は、山荘の奥へ導く。厨房横の納屋の奥の扉は、地下へと続く真っ暗な岩窟に繋がっている。人間である岩本には岩窟に入った後納屋の扉を閉めてしまえば、暗闇にしか見えない。側面は狭い岩窟壁、素足に触る床は湿った岩のようにゴツゴツしている。志乃に手を引かれるだけが頼りだが、岩本に恐怖感はなかった。
地下道はどんどん下りに傾斜をしている。空気は動かず、頬に当たるのは自分が歩くことにより澱んだ空気を突っ切って起こる風だけ。
続きは、早田氏と夜蛇神の狩のシーンです。