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夜蛇神伝説  作者: 津那
2/10

第二話 廃人の末 1

 山荘と呼ぶには華やか過ぎる。

 過疎となり幾年も過ぎた村をゆっくり通り過ぎた後、両脇にブナの森が迫りかつて舗装されていた道が落葉と潅木の伸ばした枝で狭くなっている筋を進む。駅まで迎えに来てくれたワゴン車の車体に枝が当たってゴツゴツとした音がする。雑木の森の中に、手入れの行き届いた見事な竹林が見えた。ワゴン車は竹の葉が敷き詰められた空間に静かに停車した。

「さ、どうぞ。」

 草臥れた背広、何年も座り続けて擦た尻部を覗かせて、早田は中腰で岩本を振り向いた。銀縁眼鏡の奥で愛想笑いをしている。岩本は、早田の後に続いてワゴン車を降りた。

 竹林を竹垣で切り取ったような石畳の道を歩く。竹林を風が渡りさわと竹葉を揺らす。澄み切った空気と贅沢な静寂を感じながら、岩本は早田の後を黙々と歩きながら、やはり俯いていた。

 竹林の奥には、竹林に溶け込むような和荘が姿を見せた。

 山荘と呼ぶには華やか過ぎる。

 年代を感じさせながら、丁寧な手入れを続けている荘厳たる構え。分厚い藁葺き屋根、板壁、木枠ガラスの引き戸は重かった。打ち水を撒いた石床に立つと、三つ指を突いていた女将が

「いらっしゃいませ。ようこそ、岩本様、早田様、お待ちしておりました。」

と、しっとりした声で言いながら顔を上げた。俯いていた岩本は、ふと女将の顔を見て唸った。

 庸子さん…

 密かに想い続けた人妻の顔がそこにあった。よく見れば、庸子ではないことがすぐにわかった。似ている。岩本は、また俯いた。

 女将は挨拶をしただけで、すぐに女中に変わって、岩本が見ると早田の背の先に、小柄な女の和装の背が見えた。二人の荷物を持って足音を立てずに優雅に歩いている。藍染の織模様の品のある着物は、素人の岩本が見ても山荘と呼ばれる旅館の仲居が仕事着にするには華やか過ぎる。 磨き上げられた古く黒く日に照らされると茜色にも見える床板を歩く我の化繊の靴下の垢染みが醜く惨めになる。

「見事な庭ですな。」

 早田の特徴のない声に、岩本は猫背の背のまま俯いていた顔を庭に向けた。木枠に嵌められた透明硝子が続く右手には、竹藪の景観に溶け込むような石庭がある。岩本はまた俯いた。

「こちらの藤の間が、岩本様のお部屋でございます。」

 仲居に案内された部屋は、畳敷きの座敷に、洋間の応接セット、その奥に部屋付きの岩風呂、板間の脱衣場を経て畳の寝室となっている。贅を尽くした部屋の造りと調度の見事さに呆然としていた岩本の耳に、

「早田様は、こちらでございます。」

と、仲居が案内して去っていく声が聞こえた。岩本は、早田と違う部屋だということに、意外な気がしたが、宿を手配したのは早田だったから、早田がそれを希望しているのだろうと納得して、湯気を立てている岩風呂をチラと見て脱衣場に立った。とろりとした泉質に全身の毛穴が広がり、「うむ」と声を漏らした。

 岩の隙間からとろとろと湯が湯船に流れ落ちている。少し温めの湯に、ジワリと芯まで寛ぎながら、岩本は目を閉じた。


 何もかもを失っていた岩本すぐるが、数え切れぬほどの自殺未遂を繰り返した挙句、また、同じ、麻宮病院の6人部屋に横たわっていた。また、大量の睡眠薬を飲んで、眠りにつきながら、ふと覚醒した。恐ろしくなって、救急車を自分で呼び、麻宮病院に運ばれた。救急隊員も同じ家から同じ人間を同じ理由“自殺未遂”で運ぶので、同じ病院に連絡をとり、受ける病院も同じ。

 患者の間にも、自殺未遂常習者の岩本すぐるのことは知れ渡っていた。

 胃の洗浄だけで、岩本の処置は終わった。市販の睡眠薬の多飲では死に至らないことを十分この病院で知らされていたにも関らず、同じ過ちを繰り返してしまった。岩本は病院の自宅より清潔なベッドに横たわり、6人部屋の人の気配を煩わしく思っていた。昨夜遅くに処置をされてそのまま病室で朝を迎えていたのだ。

「おはようございます。」

「おはようございます。ぐっすり眠れましたか?」

「庸子先生、今朝、ちょっと腹の調子が悪くって・・・後で診察してもらえますか?」

「わかりました。あとでお部屋に伺いますね。」

「待ってますよ。庸子先生。」

 岩本は、開け放たれたドアの向こうから聞こえる会話に聞き耳を立てていた。6人部屋の廊下側のベッドに横たわりながら、庸子先生の声が聞こえた瞬間から、部屋が急に静かになり、そわそわとベッド周囲の雑多をしまいこんでいる同室の男たちの行動に気付いていた。――多分、庸子は、俺の部屋に来る。――岩本は、自信に満ちた気分で、目を閉じた。

「岩本さん、おはようございます。具合はどうですか?」

 岩本は、ゆっくり目を開けた。

 朝日の中の、ベッドの境に渡しているクリーム色のカーテンから差し込むゆるい光を浴びて、岩本の主治医、梅塚庸子が、岩本のベッドへ近付いて来た。弱弱しそうに庸子を見上げると、庸子は岩本の顔を可愛らしい顔で覗き込んだ。

「顔色はいいし、少し栄養失調というところかしらね。ちゃんとお食事していなかったでしょ?」

 岩本は頷く。

「昨夜、胃の洗浄の処置をしています。薬剤は消化されていなかったので、腸の方は洗浄していません。…どうして、通院の時に言ってくれなかったの?」

 精神科医の庸子のもとに、岩本は2週に1度の割合で通っていた。庸子の顔を見たくて、声が聞きたくて、岩本は通院の日が近付くとそわそわして何も手につかなくなるのだ。長い待ち時間の後、庸子に診察室で会うと、何も言えなくなってしまうのだ。

 自殺を試みてしまった岩本に、庸子が少し悲しそうな目をしてくれている。岩本は、それだけで胸がいっぱいになるのだ。目が覚めて庸子の顔が傍にあり、自分を見詰めている。それだけで、僅かな幸せを満喫できる。

「庸子先生に会いたかったんじゃねーのかい?」

 容赦のない忍び笑いが、同じ病室から沸く。岩本は自分と庸子の二人っきりの空間を覗き見されたような、穢されたように、苛々が顔に出る。庸子は、岩本の変化を見逃さなかった。

「後で、ゆっくりお話ししましょうか?」

 夢のような庸子からの申し出に、岩本はかすれた声で頷く。

「はい。」

「午後に、呼びますから、診察室へ来てください。」

「はい。」

「退院の、準備をされていいですよ。」

「えっ?」

 庸子は、にっこりと微笑む。

「…痛っ…」

 顔を顰めて胃部を押えて、岩本はくの字に体を曲げた。庸子が心配そうに見ていると思うと、岩本は自然に汗が噴出し、痛みにもがきながら、本当に苦しくなって来ていた。

「消化器科の受診を午前中にされた方がいいですね。」

 庸子は、岩本の背にそっと華奢な手を添えると、優しい声で言い、カーテンから出て行った。庸子が部屋から出ると、同室から、非難の溜息が聞こえた。

「あーあ、庸子先生に見てもらえると思ったのになぁっ。」

 若い声が叫ぶように言う。

 岩本は、くの字に体を曲げたまま、目を瞑って転がっていた。しばらくして、看護師が来て、岩本に「診察ですよ」と、声をかけて車椅子に岩本を乗せた。くの字に体を曲げたままの岩本を、待合室の裏側を通って、診察室へ連れて行った。

 見慣れた診察室だが、庸子の部屋ではない。岩本は、ぎょろぎょろと目を動かして、様子が違う部屋を注意深く見ていた。岩本が入ったドアとは別のドアから、3人の医師が入って来た。1人は庸子だった。2人は男の医師で、1人が岩本に笑顔を向けていた。

「岩本さん、こちらは今里先生です。勉強熱心で、素晴らしい功績を沢山出されて、岩本さんが頼りにするには心強い先生です。」

 庸子の柔らかな声が、岩本に残酷な紹介をした。今里は、席を岩本にすすめ、自分も腰を下ろした。

「岩本さん、あなたのことは梅塚先生からよく聞きました。今後は、私があなたの主治医になります。ゆっくり、お話しを聞いていきましょう。こちらは、消化器科の坪井先生です。胃の調子が朝にぶり返したようですが、今、まだ苦しいですか?」

 岩本は、黙って俯いた。

「岩本さん、口を開けて診せてくれますか?」

 坪井が、岩本の横に座って言う。岩本は石のようにぴくりとも動かなかった。唇を噛締める。

「うん。やはり精神的なものですね。」

 今里が合図を送ると、坪井と庸子は連れ立って出て行ってしまった。岩本は庸子の後姿をじっと見送った。

「…梅塚先生のことが好き?」

 今里の声に、岩本は動揺を隠せなかった。

「わかるよ。彼女は魅力的ですからね。患者さんにも大人気ですね。」

 今里の真面目な声に、岩本は、今里の顔をじっと見た。

「梅塚先生のことをそんな風に思っているなら、心は健康なんですよ。ちょっと落ち込みやすい状態ですけどね。…恋は、何も恥ずかしがることはありませんよ。…ただね、恋してる相手が主治医だと、なかなか言えないことってあるでしょう?あなたは不本意な顔をされたが、やはり、主治医は交代した方がいいと思いますよ。私は、あなたが梅塚先生に恋していることを非難しません。」

「俺は、別に、梅塚先生のことは、何とも思ってません。それに、あっちにはその気ないし。噂だけど、結婚して、子供もいるって聞いてるから。そんな人に、俺は、何も思ってません。」

「これは、失礼しました。私は同じ男として、勘違いしてしまいました。私が、彼女を素敵だなあって思っていますのでね。」

「えっ?…先生は、結婚されてるんでしょう?」

「ええ。していますよ。」

「じゃあ、何で、何で梅塚先生のことを、庸子さんのことを、素敵だとか、言えるんです?」

 ムキになる岩本を、今里はじっと見ていた。

「俺は、結婚しているくせに、庸子さんのこと、好きだとか、かわいいとか言ってる連中が許せない。俺が、ここに入院して来るのを、庸子さんに会いたいからだとか言う連中がいるが、俺は、そんなんじゃない。あの人は医者で、俺のことなんか何とも思っちゃいないんだ。あの人には旦那も子供もいるんだ。俺は、そんなんじゃない。」

 岩本は、憤慨を今里にぶつけながら、立ち上がり、拳を振り回していた。

 こ、殺してやる。この善人面した卑劣男め・・・

「ぐぅぅ・・・」

 岩本の獣のような濁った目をじっと見ながら、今里は厳しい目のまま、穏やかな声でさらりと言う。

「あなたの誠意は、梅塚先生にお伝えしておきましょう。」

「何で、伝えるんです?あの人は、俺を捨てて、あんたに任せてるんだろう?俺が嫌いになったんだろう?だから、あんたに代わったんだ。」

 岩本は、ガクッと肩を落とした。

「じゃあ、伝えてください。…俺は、死にます。」

「2.3日、入院しましょうか?夕方、カウンセリングを受けに来てください。」

「いいですよ、俺は、死にますから。」

「死ぬって言っている患者に医師ができることは、残念ながらいくつも選択肢がないんですよ。」

 今里は優しい顔で言いながら、電話のボタンを押した。すぐに、男の看護師が2人、診察室に入って来て、有無をいわせずに岩本を連れ出した。スタッフの通り道のようなところを歩かされて、2重扉の建物に入った。狭い個室に通された。小さい明り取り窓には格子があり、白い壁にパネル式のTVが壁に埋まっている。ベッドのところで拘束を解かれて、注射を打たれた。


 パネル式のテレビが癒し映像を延々と映し出して時間の経過がわからなくなっていた。

 ぼんやりとした頭が、だんだんと冴え、人寂しくなった頃、岩本は庸子のことをいつものように考えていた。死ぬと言ったことも、主治医が今里に代わったこともすべて忘れていた。

今里が現れた。

「気分は、いかがですか?」

 誰だ?こいつは?

「こんにちは。私は、あなたの主治医の今里です。」

「主治医?・・・あの人は?」

「あの人とは?・・・お忘れですか?私が、ずっとあなたの主治医でしたよ。」

 そうだったのか・・・

 岩本は見知らぬ医師を、ぼんやりと眺めた。 

いくつか他愛ない会話をした後で、岩本は4人部屋に移された。

 大人しく穏やかな患者たちは、ピタリとカーテンを閉めたまま、個の世界に浸っているようで、岩本も静かに寝転がった。

 幾日か、誰と会ったのかわからないうちに経ち、退院を翌日に控えた晩、岩本は言いようのない寂しさに襲われた。独りで狭いアパートに帰り、することもなく、多くの人のざわめきの中での孤独。話しかけて来るのは買物に言った先の売り手だけ。言葉に乗って相手の薦める商品を買えば一瞬にしてその関係は終わる。いろいろと質問事項を考え付くままに話しかけると応じてくれるものの、他の接客の邪魔だと言わんばかりに邪険にされるのだ。近所の顔見知りも、挨拶をするだけで終わり。挨拶以上に話しかければ、相手は途端に怪訝な顔に変わり、次に岩本の顔を見ると、逃げるように顔を背ける。放映っ放しのTVは独り言を延々と続ける。そんな家に帰りたくなかった。病院にいれば、誰かがいる。暇な患者もいる。

 岩本は、ベッドに転がったまま、膝を抱えて丸くなり、目を閉じた。

 庸子・・・

「岩本さん、岩本さん…。」

 自分を呼ぶ声に、岩本は目を開け、耳を澄ませた。消灯時間を過ぎ、寝息が聞こえる中に、かすかな声で呼ぶ声がする。岩本は素足で床に降り立ち、カーテンをそっと開けてみた。

「こんばんは。」

 同室の早田が、灰色の品のあるパジャマを着て、同柄のスリッパを履いて、銀縁眼鏡の奥から優しそうな笑顔を向けた。早田とは少ししか話していないはずだが、と、怪訝な顔をした。

「夜分にすみません。」

 早田は声を落として言うと、

「ちょっと、散歩しませんか?」

「散歩?」

「屋上にね、行ってみませんか?私も、明日、退院でしてね。ちょっと寂しくなったものですから、付き合ってくださいよ。」

 岩本はジャンパーを着込み、素足のまま履き古したスニーカーを履いて早田に並んで歩いた。誰かに誘われると、怪訝に思いながらも従ってしまう。そうやって、誰かが馬鹿だと言えば馬鹿だと思うし、生きてるのか死んでるのかわからないと言われれば、そうかと思って死のうとしてしまう。

 こいつは、誰だ?俺は、どこに行く?

 早田の背を見ながら、岩本はペタペタと歩く。

ナースステーションの横をこそこそと通り過ぎるときに、不思議と見咎められなかった。何故か、それに腹が立つ。

 あまりに無防備ではないか。患者への注意力が散漫なのではないか。看護師が一人しかおらず、パソコンに集中していて、廊下をこそこそと歩いた岩本たちに気付きもしなかったのは、職務怠慢ではないのか。

 早田は慣れた様子で階段を上がり、屋上に続く扉を押した。岩本が初めて行った屋上には、鉄格子がまるで巨大な檻のように張り巡らされた洗濯干し場だった。

「岩本さんも、明日、退院でしょう?」

 七三に分けた髪は白髪交じりで、草臥れた生真面目なサラリーマン。声は小さく少しオドオドとしていて、出世できないタイプだろうと岩本は推察していた。

「私は、旅行が趣味でしてねぇ、行き先は一つなんですが、実にいいところなんですよ。岩本さんは、旅行は、お好きですか?」

 岩本は、黙っていた。

「旅行と言いましてもね、行きつけの山荘に2.3泊でもすれば、それで十分なんです。相手さえいればね、いつもそっとお連れしているんですよ。」

 早田は愛想笑いのような微笑を浮かべて、岩本を振り向きながら話す。岩本は早田の斜め横顔をチラチラと見るだけで、決して目を合わせないし、相槌も打たなかった。無言で無表情のまま、背中を丸めて突っ立っていた。早田は薄ら笑いを浮かべたまま続ける。

「私、明日、退院なんですよ。岩本さんも、明日、退院でしょう?」

 岩本は黙っていた。

「ご一緒、しませんか?その山荘。」

 岩本は黙っていた。

「私の趣味ですのでね、お連れさせて下されば、交通費も宿泊費も私が負担させてもらいます。ただ、その素晴らしい山荘に、是非、あなたをご案内したくって。それだけなんですがね、いかがでしょう?」

 岩本は黙っていたが、内心大いに動揺していた。早田の顔を食い入るように見詰めている岩本に、早田は愛想笑いのような微笑を向けたまま続ける。

「生きる希望がない…失礼ですけれど、そうお考えじゃありませんか?」

 岩本は怪訝な顔をして早田を睨むように見た。

「その山荘の名前、四奏館と言うんです。音楽の四重奏の意味なんですがね、三味線と太鼓と笛と唄。ちょっと粋でしょう?」

 岩本は黙っていた。早田はヘラヘラとした顔を岩本の目の前に見せて、一層声を落として言う。

「梅塚庸子先生…私、彼女が大好きなんですが、現実片思いですよ。それがね、彼女にそっくりな女性がいるんですよ。その山荘の女将です。」

 早田は喉の奥でかみ殺したような笑い方をした。

「そっくりな人?」

 岩本は唸りに似た声で聞き、もぞもぞと早田を見上げた。

 片思い?・・・そうだ。コイツは、まともなことを言う。

「ええ。正真正銘の独身でして、過疎になってしまった山里で、両親から受け継いだ山荘を、妹さんたちとひっそりと守っているんですね。健気な話でしょう。」

「…急に、そんなことを言われても、俺は…」

「こんな話、同室の人に話せますか?お互い、明日、退院すれば他人同士なんです。だから、話せるんじゃないですか。・・・庸子先生に、ひっそりと恋をしてるなんて話をね。ふふふ。」

「はぁ…」

「庸子先生に似た女将の笛がまた、見事でしてねぇ。…でも、私は、女将の妹御の方に、ちょっと惚れてしまってるモンですから・・・似てるんですけどね、やはり、色恋は相思でないと、ねぇ。」

 岩本は、特徴のない早田の顔を眺めるように見ていた。理解できないが、庸子に似た女のいるところに案内しようと言っているようなのは、うっすらと理解できた。

「この世に未練のない男が、癒しに行くには、絶好の隠れ家なのです。…私は、気に入った方をお独りだけ、お連れするのが趣味なのです。私の趣味に、同調してくれるような方をね。」

「それが・・・俺…ですか?」

「言っておきますけれど、そこは淫売宿では決してないので、品位ある遊び、本当に女将が気に入って楽しんでくれる、それだけですよ。美味い料理といい天然の湯と、もてなしの宴、それだけです。」

 早田が愛想笑いではなく、生真面目な区役所の事務員のような口調で言う。岩本は、納得した顔で頷いた。

「もちろん、そうです。俺は、下品なことなんか、庸子さんに対しても思ったことがありません。」

「そうでしょうとも。」

 早田は大きく頷いて、岩本の肩を両手で掴んだ。

「そういう方だからこそ、お誘いしているんです。誘った以上、金のことはご心配しないでください。手ぶらでいいんです。浴衣も手拭も揃っていますからね、身ひとつでぶらりと行きましょう。」

「で、でも、俺・・・そんな・・・早田さんに悪いですよ。」

 岩本は、おどおどとした顔で早田を覗き込む。

「大丈夫です。あなたが、そういう遠慮深い人だから、お誘いする価値があるんです。いいですか、この話は、内緒ですよ。私の秘密の趣味なのですから。」

「もちろんです。」

「では、出発の日は3日後、この病院の裏の公園に来てください。早朝、発ちましょう。遠いですからね。6時、早いですが、いいですか?3日後の朝6時、この病院の裏の公園ですよ。」

「わかりました。」

「くれぐれも、家族にもご内密に。」

「わかっています。」

「さ、冷えましたね。病室に戻りましょうか。」

「はい。」

 早田が先に立ち、二人で並んで病室に戻ったが、早田が手洗いに立ったので、ナースステーションの前を、岩本一人で通った。

「あら、岩本さん、どこに行っていたんです?」

「お、屋上です。」

「屋上?…今度から、行くときは声かけてくださいね。」

「はい。」

 岩本は病室に戻りながら、看護師に腹を立てていた。

 気付かなかったのはそっちの怠慢じゃないか。

 いつもならば、立腹したら些細なことでもずっと延々と気になって眠れないものだが、早田の提案のことを考えると、興奮して久しぶりにわくわくした。庸子に似た女、それも独身の女が、過疎の山里でひっそりと山荘を営んでいる…何かの予感が全身に満ちて、岩本は心地いいまどろみに落ちていった。

 

 翌朝、心地いい目覚めの朝を迎えた。カーテン越しに、看護師が早田に体温計を渡している声が聞こえ、岩本は昨夜の早田の提案を思い出して含み笑いをしていた。

 今里の診察を受けてから、病室に戻ると、早田のベッドは空になっていた。身支度の道具も、ほぼ病院からの借り物で済ませていた岩本は、介護士に戻した後で、運び込まれたときと同じ格好のまま、退院した。

 二日後の朝が、待ち遠しい。

 その思いは、岩本に初めての希望を与えた。


 約束の前夜、岩本は時間が気になって眠れぬ夜を過ごした。

 約束の場所に5時半に到着し、霜柱の降りた公園をウロウロと歩き回った。着古したジャンパーの下にセーター、木綿のズボンを穿いて、下着を2枚だけ持って来た。そういえば、何泊するのか聞いていなかったが、話の中で早田が2.3泊もすれば気分が変わるといっていたことを思い出して、2枚の下着を持ってきていたのだ。

 公園には時計がなく、岩本も時計を持っていなかったが、ひょっこりと顔を見せた早田が、「きっかり6時です。」と言って笑った。

「お待ちになりましたか。」

「いえ…。」

「出発、しましょうか。」

 岩本は、早田の半歩後ろをのそのそとついて歩いた。早田は、草臥れた灰色のスーツを着ていた。2.3言、誰にも秘密を漏らさなかったかということと、しばらくの留守で家は大丈夫かというようなことを確かめるように聞いただけで、あとは、無言なことが多く、駅に到着すれば、切符を2人分購入して岩本に1枚を渡してくれた。

 普通列車で東京駅まで行き、特急に乗り換える。JRに乗るのも、遠出をするのも、旅行に行くのも、遥か昔のような気がする。

 岩本は古い追憶に浸りながら、記憶の底の苦痛だらけの記憶を、慌てて封じ込めた。いつもの最悪の自己嫌悪に落ちてしまう。

いいことなど、なかったのだ。何一つ。今までは。

 寂しくて切なくて、辛いのに、人と関わることを拒んでいた自分。関わってくる相手に対して猜疑心以外の気持ちが生れない。そして、やっと自分が心を許そうと思った時、相手は、無口と無愛想を尽くした岩本に対して、背を向けた。

 悪循環。

 わかっているが、後悔する以外に手はないのだ。次第に悪口を言われるようになっていた。何かがあれば疑われる。誰も彼もが岩本に背を向ける。

 岩本は、恐れ続けた。周囲に女が集まってヒソヒソと話していれば、自分の悪口だと思い、女が自分の方を見ていれば自分の醜さを嘲っているのだと思い、誰かが笑っていれば自分のことを笑っていると、思った。

 常に苛々し、棘々しく怒っていた。自分を理解してくれる人など、いるはずがない。それが、堪らず切ない。

 初めて自殺未遂をしたときに、運び込まれたのが、麻宮病院だった。自宅にあった大工道具の鑿を自分の腹に突き立てて、その痛みに混乱した。自分で刺したのに、強盗に刺されたと騒ぎ立てた。支離滅裂な供述に、警官が岩本を狂人として扱ったのだ。あのとき、唯一優しくしてくれたのが、梅塚庸子だった。

 岩本は、過ぎていく列車の窓の景色を見ながら、ぼんやりと考えていた。

 庸子・・・

 刺した傷は極浅かった。縫合を終えた岩本に、主治医になったと、庸子が言った時、岩本は全身の毛穴が総立つのを感じた。女神だと思った。言葉も眼差しも声も優しく、知的で、颯爽としていて、女優のように美しい。自己嫌悪に浸っていた岩本に、

「あなたは何も悪くない。」

そっと見詰めて言う仕草に、卒倒しそうなほどの眩暈を覚えた。「苦しかったのですね。」

優しい声に、思わず涙が溢れた。何でも受入れてもらえる、そんな気がした。この美しいひとに・・・

 俺だけの女神のつもりだった庸子に、男も女も患者が群がり、庸子は誰にでも真意を込めて優しく接するのだ。

 何度めかの入院の時、隣のベッドだった若い男が、庸子の名を呼びながら自慰をしているのを知った時、そいつを殴り殺そうかと思った。

 俺の女神が穢される。

 たまらなく嫌で、岩本が男の看護師に、そっと隣の男のことをチクッたのに、ベッドを替えられただけで、相変わらずそいつの主治医は庸子だったし、回診もそいつのところにも回っていることを知って、愕然としたものだ。

 あの後で、知ったのだ。庸子に医師の夫があり、大きな子供がいるということを。夫の医師は外科医で、大学病院の偉い医者だとか。子供が有名私立の学校に通っているとか。

 虫唾の走るような話を聞いたとき、それを自分の自慢話のように話している糞婆どもに殴りかかってしまった。滅多殴りにして、糞婆の一人を血だらけに成敗してやっただけなのに、岩本は拘束され、小さな明り取り窓のある狭い個室に放り込まれて、壁のパネルの癒し画像を延々と見たのだ。

 2週間に1回の通院で、庸子に会えるという思いだけで、岩本は生きていたのかも知れなかった。それなのに、岩本に一度庸子は何も言わずに看護師に伝達をさせて、学会に行ってしまっていて、代わりの医師が診察したのだ。学生のような若い医師が、不貞腐れ続けた岩本に、事務的に対処しようとしたから、岩本は、その後2ヶ月ほど行かなかった。

 その後で、突発的な自殺未遂を起こした。市販の風邪薬を多量に飲んだのだ。嘔吐と下痢と睡眠障害で、もがいていた岩本は、自分で救急車を呼んで、麻宮病院に入院した。あの時、病室で庸子が悲しそうな顔をしたのだ。

「次、乗り換えですよ。岩本さん。」

 せっかくの妄想をぶち壊すように声を掛けた早田を、岩本はジロリと睨んだが、さっさと出口に向かう早田に、岩本は慌てて従った。

 駅名を見ても、ここがどこだか、岩本にはさっぱりわからなかった。ガランとした駅だが、周囲にはビルが林立し、どこかの地方都市なのだろうと思った。

「そろそろ、お昼ですからね、駅弁を買ってきましたよ。」

 ぷんと、鼻をくすぐる匂いに、岩本の腹は思い出したようにぐうとなった。そう言えば、いつから何も食べていなかったのだろうか。

 早田について半歩後ろからのそのそと歩き、駅の中を移動した。

 早田は時刻を見て、路線を確認しながら歩いている。岩本は何も考えずについて行く。

 そういえば、早田とは、いったい何者なのだろうか。

 岩本は、ぼんやりと考えながら、早田の後をのそのそとついて行く。特急と書いてある電車に乗る。どこに向かっているのかも知らない。

早田は、愛想笑いを浮かべて、

「弁当を、食べませんか?」

 そう言って、ビールを差し出した。岩本は、早田に習ってもそもそと弁当を開けた。

「早田さん、どんなお仕事なんですか?」

「ああ、私?ソウシャですよ。」

「ソウシャ?」

「ええ。」

 早田は、ニコニコと笑っている。ソウシャとは、何だろうと思ったが、岩本は、「ああ・・・」と知ったフリをして、頷いた。

「私も、聞いていませんでしたね。岩本さんは、どんなお仕事を?」

「あ、いや、俺は…ここんとこ、少しだけ、失業中です。」

 食べかけた飯が喉で詰まった。

 ここんとこ、だけか?いいや。

 いつから、仕事をしていないかさえ、よくわからなかった。親父が残したあばら家に住み、親父の残した僅かな金を使った後、どうやって暮らしているのか、考えたことがない。銀行には、減ったはずの金がいつの間にか増えていて、岩本は何も考えずに使っていた。時々、福祉の係りとかいう区役所の役人が来るが、いつも怒鳴って追い返していた。

「それは、大変ですね。ま、こんなご時世ですから・・・」

 早田は、もしかしたらいいやつかも知れないと、岩本は思っていた。責めるようなことも、詮索することも言わない。

「美味いでしょう?この弁当。私、この煮物が好きでしてね。」

 味の甘辛い里芋を頬張りながら、早田がニコニコして言う。

 岩本は、ビールを久しぶりに飲み、美味しい弁当を食べると、眠くなった。


「岩本さん、乗り換えですよ。」

 早田に、揺り起こされて、飛び起きると、早田が前を進んでいる。寝起きの極端に悪い岩本は、苛々する間もなく、早田にのそのそとついて行く。いったいどれくらい、乗り換えたのだろう。ここは、どこなのだろう。駅のホームには、駅名が書かれてあり、行き先と乗り場と時刻をアナウンスする声が響いているが、岩本には理解ができなかった。

 早田に続いて乗車する。

 乗り合わせた老婆が、みかんをくれた。早田とニコニコして食べた。果汁が迸り実に美味いと思った。

「どこへ行くんえ?ほぉ?四万十さん?そんならいい時期じょ、鮎食べるんえ?」

 早田が愛想良く話しているが、岩本には、四万十や、鮎というものにも何の関心も湧かなかった。

「そちらさんは、えろぉ大人しな。」

 岩本は、その言葉にピクリと反応をした。大人しいとは、悪口を言っているのに違いない。喋られない人間を大人しいと馬鹿にする人間の言葉だ。

「沈黙は金や言うのん知らぬのえ?男シは、だんまりがええんじょ。」

「あっはっはぁ、あんシぁお父さんのこと引き合いにしてぇ。可笑しい。このヒトの旦那さんが、おっしゃべりでおっしゃべりで、煩いもんだから、こんなこと言って…うふふ。」

 老婆は、そう言って岩本にすっと蜜柑をもう一つ寄越した。岩本は黙ったままそれを受け取って食べた。

 岩本が老婆の言葉を理解しようと悩んでいるうちに、老婆たちは降りて行った。

 怒ったり、訝しんだりすると、岩本はいつも眠くなるのだ。

 早田に起こされた。

「着きましたよ。岩本さん。」

 早田は、すたすたと降り、岩本はのそのそと従った。


次は、岩本氏が四奏館へ到着し、庸子によく似た女性に逢います。

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