第一話 竹の宿
官能を含むホラーです。
残酷なシーン、官能シーン在り。ご注意ください。
幾つもの山に登って来た東山にとって、四国山脈は国内最後の山脈となる。東山は、敢えて四国を残していたのだ。四国山脈は遍路の道でもある。定年を迎えた後で、妻とゆっくり廻るつもりであった。
同期入社の後、社内の派閥が異なり出世街道まっしぐらだった岡崎と違い、二流大出の気安さからか、東山は仕事ではコツコツと無難に刺激も出世もないが、穏やかに時を重ねた。仕事より、家庭での父であり、息子であり夫であり、妻と母の不仲や、父の介護などの煩わしさより、仲間と山に登る爽快さだけを生き甲斐にしていた。
厳格な山ほど燃える。
父が逝き、母が床に伏してから、妻は母にも優しくなった。二人の息子にも嫁が来て、家を出て行った。留守がちな東山の居場所は薄く、かつて6人の葛藤を囲んでいた家がひどく広く感じていた。
岡崎が、常務の椅子から転がり落ちた。岡崎の派閥の頂点は副社長で、彼が勢力を増した別の派閥からの突き上げを喰らい失脚したのだ。旗頭を失った派閥でも、岡崎は副社長の腰巾着として常に出世を重ねていたから、常務まで登りつめた。東山にとって、雲上の人となりながら、何故か岡崎は東山だけとは陰で付き合っていた。
岡崎が、出向に出された下請け会社は、四国土佐に本社を持つ中小企業だった。出向とはいえ、クビにならなかったのがマシな程度で、岡崎の有能さ故の一時的な処分だと、東山は見ていた。
岡崎は、いつしか四国霊峰や海の美しさに惹かれるようになり、登山を始めているという。
岡崎は、登山好きな東山を、四国四万十川源流に誘った。
妻とゆっくり廻るという密かな夢は、母に似て、愚痴と辛辣な嫌味を言うようになった妻を前にして、薄れた。
まあいい。
東山は岡崎の招きに応じ、四国行きを決めた。
登山道が完備され、標高600m程の山は、日帰りの観光的な要素も含んでいる。ちょっと登るのに適した山だった。上の展望台からの景色が抜群であり、登山者の中には若い女性もいるという。
岡崎の家に泊った翌朝、二人で軽装で出発した。
東山には、写真の趣味があり、HPでも公開し、なかなかの反響を見せていた。カメラには凝っていたし、撮影の腕も素人にしては自己満足の域であった。
快晴。風も優しく、登山日和であり、いい写真が取れそうだった。
週末でもあり、登山道には多くの人が楽しそうに談笑しながら、景色を楽しみ、登って行く。
東山と岡崎も、その波に乗って、話しながら登る。話題は、昨夜同様、どうしても会社のことになる。岡崎は社内の裏情報を知り過ぎ、東山は知らな過ぎて、というか関心が薄過ぎたため、岡崎の話しに興味をそそられていたのだ。岡崎は、旧友であり社内の事情にも通じている東山に、副社長を失脚させた派閥への恨みも込めて、心のうちを吐き出した。山の澄んだ空気と話し声を吸収してくれる木々。聞かれてまずい相手はいないのだ。東山は絶好の聞き手だった。本社にいて、課長の身分だから、社内人事にも通じている。副社長失脚後、放り出された岡崎は、その後の人事を全く知らない。東山は岡崎に聞かれるままに喋った。
あっという間に頂上につき、後は下るだけだ。
東山にとってこの山は丘のようなものだろうし、余力を持余している。東山は多くを望む男ではないし、今日は散歩のつもりでいる。ただ、岡崎は、心の底に澱のように溜まった毒を吐き出し始めたら止まらなくなり、明日、東京へ帰る東山に、もっと聞いて欲しくなった。
頂上から降りながら、東山はカメラを周囲の景色や緑に向けている。岡崎は、2組の右折者と辻になっている登山道の右向きの矢印を見ていた。下る予定では左折。右は隣の山の名が書かれていた。
「東山、こんな山じゃ、物足らないだろう?」
「いや、景色もいいし、僕は満足してるよ。」
「そうか・・・俺は、もう少し、挑戦してみたいんだが・・・今日は、お前がいるから、そんな気分になったんだが・・・。」
「ふむ・・・岡崎、山に目覚めたみたいだな。ははは。右折は3kmのコースか。」
「車は、いつでも取りに行けるよ。向こうに降りたら、バスがある。」
「そうか・・・僕もせっかく四国に来たんだしね。行こうか。」
頂上で昼食の弁当を食べたとはいえ、時刻はまだ昼前。天気は良く、空気は澄み、登山道は整備されている。
2人は、右折し、歩き始めた。
脇道もなく、登山道を歩いていたはずが、いつの間にか他の登山者が見えず、続いていた道は獣道になっていた。引き返し、整備された登山道を探すうちに、二人は山中を迷い歩いていた。最早、獣道もなく、日は沈みかけ、鳥の囀りも聴こえなくなりつつある。
簡単な登山の予定だったから、地図もない。
東山は比較的大きな木を背にして座り、撮り続けていたデジカメの写真を見ていた。これで、道を探せるかも知れないと思ったのだ。写真から、目印になりそうな木などを探すが、木は見る方向が変わるだけで、同じ種類の木々の中では見分けなどつかない。
このまま、歩き回るのも無駄だし、携帯の電波は届かない。
こんなときでも、岡崎の、会社に対する憤懣は止まらずに喋り続けていた。東山は、岡崎の話しより、現状を脱する方法を考えていた。岡崎は山を知らな過ぎる。登山道を外れてしまって夜になったら、動かずにテントを張らねばならないが、東山と岡崎のリュックには、空の弁当箱と尽きかけた水筒、菓子の残渣しかない。
初秋とはいえ、山の空気は夜には冷える。長袖長ズボンとはいえ、薄い衣類では備えのウチには入らないだろう。東山は途方に暮れた。
登山道は整備された道は1本なのだ。登山仲間がいれば、写真のために少し脇にも逸れることはあるが、今日は、岡崎の話しに夢中になり、写真もあまり撮らなかったし、脇道などには決して入らなかった。
なのに、何故だ?
東山は、喉の渇きを訴え、僅かな水筒の茶を飲み干した後、ようやく不安そうな顔をしている岡崎を見ていた。
「水も、ないのかな?」
東山は頷いた。ずっと喋り続けていた岡崎は喉が渇いているだろう。だが、ないものはないのだ。我慢するしかない。翌朝、日が昇ってから山を降りればなんとかなるだろう。
あっという間に日は沈み、山は闇に包まれていく。
登山を続けていた東山にとって、こんな夜は初めてだった。
岡崎は、喉の渇きに耐え難くなって来たらしい。動かないでいようと言った東山に、喉の渇きと、下着を身につけていないためにじっとしていると寒いと訴えた。
歩き回るのは危険だと、承知しながら、東山は月明かりを頼りに、ゆっくりと山を下り始めた。岡崎は東山の後からついて来る。東山が足場を慎重に選んで歩いているのに、岡崎は会社の憤懣をまた、話し始めた。岡崎は東山が通った後を歩きながら、会社のことを話し続ける。東山は、黙って聞き流していた。ここで、岡崎に恐怖心を与えたら、パニックになってしまうだろう。安心して東山に頼っている方が、東山はやりやすいと思って我慢していた。
東山の耳に、微かな水音が聴こえた。
「ちょっと、黙ってくれないか?岡崎。水の音が聴こえたから。」
「何っ?水?ああ、助かった。」
岡崎は、黙って東山の後をついて来た。東山は慎重に水音の方向へ足を進めた。水音はだんだん大きくなり、瀬があることを示している。
東山は、音を頼りに歩いていると、小さい灯を見つけた。目を凝らして近付く。清流の脇に浮かぶ灯、3つ.5つ・・・灯は、人工的建築物をかたどっているように見えた。岡崎にも見えたらしく、二人は灯の方へ進んだ。
水音が大きくなり、周囲を竹林に囲まれたその建物の屋根が見えた。
竹林から1本の車が通れるほどの道が出ているが、道の先は暗闇である。竹林の奥に、灯がいくつも見えた。大きい建物のようだ。灯に釣られて建物に近付く。
豪奢の純和風旅館の佇まい。山荘四奏館と看板が架かっていた。
引き戸の玄関の脇にインターホンがある。岡崎は、ボタンを押した。手入れが行き届いた旅館は、経営しているのがわかる。
しばらくして、玄関にぽうっと灯が灯った。眩しい電気の光だった。岡崎は嬉しそうな顔をして東山の顔を見た。ガラリと、引き戸が開き、淡い色のブラウスとスカートの若い艶やかな女が、居た。
「こんばんは。道に迷ってしまったのですが、宿をお借りできますか?」
岡崎が言う。女は、驚くほどに美しい。
「それはお困りですね。どうぞ。古い山荘ではございますが、おもてなしをさせていただきます。」
鈴の転がるような声で、女はしなやかにお辞儀をして、二人を招きいれた。年代を感じさせる見事な造り、磨き上げられた豪奢な内装、明るい室内に圧倒されながら、玄関を入った。
「いらっしゃいませ。あたくしが、女将の志乃でございます。このような格好で相すみません。」
志乃が三つ指をついて、丁寧に迎えた。岡崎の腹がぐうと啼いた。
「お客様、お夕食の方は、いかがなさいますか?」
岡崎は照れ笑いをしながら、東山の顔を見る。
「急に来たのに、大丈夫ですか?」
「有り合せでございましたら、ご用意出来ます。」
「そう。それなら、頼もうかな。」
「畏まりました。」
「・・お部屋の方に、ご案内致します。」
いつの間に控えていたのか、仲居が背後から声をかけた。仲居の和装をしているが、なかなかの美人で、物腰も柔らかい女が、愛想良く微笑んで、二人の靴を仕舞い、部屋へと案内した。
「今夜は、急なキャンセルが2名ございまして、お部屋は空いておりました。どうぞ。お一人ずつ、ごゆるりとお使いくださいませ。お食事は、お部屋の方にお持ち致します。」
仲居が示した部屋に、東山も岡崎も入った。
広い座敷の奥に、板間があり応接セットが置かれている。板間の続きに湯殿があり岩風呂になっている。岩風呂の脱衣場の向こうに厠、板間と直角の位置、座敷の隣に大きなベッドが設えられた寝室があった。それが1つの部屋となっているのだ。東山は、財布の中身を心配していた。部屋の造りも調度も極上。岩風呂は天然温泉。窓から見えるのはこの部屋専用の庭のようなものだ。隣室とは竹で仕切られている。壁はなく庭の奥は見事な竹林。
東山は、流し湯の音に誘われて、湯殿に立った。
とろりとした泉質は少しぬるめで、東山は肩まで浸かるとむぅと溜息に声が混じった。全身の毛穴がじわりと開くのを感じる。
今日は泊らねばなるまい。いくらかかるか想像もできないが、楽しむとするか・・・。
岡崎と離れて、一人で過ごせるのも、いい。
東山はゆっくりと湯を楽しみ、丹念に体を洗ったあと、もう一度湯船に使った。一人には広い岩風呂に、東山は体を伸ばした。
用意されている浴衣に着替えて、座敷に戻ると、先程の仲居が、座卓に膳を並べているところだった。急座にしては見事な膳に、東山は急に空腹を覚えた。
「うまそうだなぁ。いい湯でしたし、こんな山の中に、素晴らしい旅館があったんですねぇ。」
「お湯は、少しぬるめですが神経痛や関節痛などにもよく効きますし、何より若返りの効果がございますので、東京など遠方のお客さまが口コミでいらっしゃるのですよ。」
「ほほぉ。」
東山が頷き、料理に目を落としたので、仲居は愛想良く料理の説明をした。東山は箸を持ち、料理を突っ突きはじめた。旨い。東山は、飢えていたようにガツガツと箸を進める。
しばらくして、飢えのようなものが治まる頃、膳は半分以上綺麗に平らげていた。こんなに食べたのは、本当に久し振りだった。仲居の言っていた若返りの湯の効果かな、と、一人で笑んでいた。
「こんばんは。お邪魔致します。」
声がして、すっと座敷の襖が開いた。しっとりとした和装の志乃が顔を見せ、
「今夜はようこそいらっしゃいました。」
三つ指をついて挨拶をした。
「やあ、これは女将。今夜は急に泊めてもらったのに、すっかり寛がせてもらっています。」
「それは、ようございました。」
志乃は、長い黒髪を少し傾げるような仕草で、微笑んだ。
美しい。こんな美しい女が居たのか。
東山の目は、志乃に釘付けになっていた。
「お酌をさせていただいても、よろしいですか?」
志乃が柔らかい声で、聞いた。
「もちろん。かまわないが・・・」
他の客はいいのか?と聞こうとして、止めた。志乃が東山の傍にぺたりと寄り添うように座り、しなを作って、東山の手に杯を握らせた。志乃の甘く香る髪と白粉の匂いがする。スラリと伸びた腕は白く柔らかくぬくい。東山は杯を握った。志乃がとろりとした酒を注ぐ。
くいっと呑むと、酒が喉にカッと流れた。
「この山荘は、妹と遣り繰りしているので、お部屋は2つしかございません。岡崎様のお部屋には、妹の玉枝が付かせていただいております。東山様には、この志乃がつかせていただきとうございます。・・・お嫌でなければ。」
志乃は、東山を下から艶やかな目で見上げた。
「僕は、かまわない。・・・女将も、呑んで・・・。」
「嬉しい・・・志乃と、呼んでくださいまし。」
東山は志乃に酒を注ぐ。志乃の柔らかい肩が東山の胸に寄り添っている。右腕を伸ばせば、志乃を抱きしめることができる。東山はゴクリと唾を飲み込んだ。
女に手が早い岡崎は、妻の他に愛人を持つことのできる男だった。相手の女は社員であり、取引先であり、行きずりであり、岡崎は女と器用に遊んだ。東山は、願望はあるくせに、何度か金で買ったが、素人の愛人など持ったことはない。ネットで知り合った人妻は、売春目的の素人だった。愛人というものには無縁だった。やはり、東山は岡崎とは違う。
岡崎ならば、躊躇せずに、志乃の妹、玉枝を楽しんでいるのかも知れない。今、東山の胸の内側にいる志乃は、東山が見たこともないような美しさを持ち、項は陶器のように白く滑やかで、この山荘は、高貴なその遊びの宿のようだ。
東山は、志乃と酒を注しつ注されつするうちに、志乃の肩に手を回し、志乃の美しい顔に見惚れ、頬摺りをした。志乃は艶やかな素振りと目で東山を見つめる。
「明日は、東京にお帰りになるのでしょう?」
「うん・・・。」
「奥様のところに?」
東山は、急に苦々しくなり、
「妻とは、うまくいっていない。」
と、ぶっきらぼうに答えた。志乃は、東山の顔を見上げ、
「では・・・今宵だけは、志乃をあなたの妻にしてください・・・」
東山は、志乃の唇を吸った。甘い幸福感が全身を駆け巡る。
女を忘れるには早過ぎる。東山はもどかしさに目を閉じながら、心の内で焦っていた。買える女との行為の後は、虚しさと自己嫌悪だけが残る。素人女を口説ける勇気は持ち合わせていなかった。
志乃は娼婦かも知れないが、この豪奢な旅館を切り盛りできる女だ。金だけで身を売る女とは違う。それに、東山の脳を蕩かすようなこの思いは、青年の頃の初恋に似て、トキメキを伴うのだ。
狂おしいほどの情熱が身の内に涌き、東山は志乃を抱きしめた。唇を吸い、舌をすすると志乃は応えた。
「この山は、昔、人に恐れられていた山なのです。霊峰とはそのため。人の生血を啜る鬼を沈める鎮守の山でございます。」
志乃は、柔らかい声で言う。東山は志乃の胸に手を入れ、形良く掌から零れる乳房を撫でていた。
「だから、僕らは道に迷ったのかな?」
「いいえ。これは昔の話。この辺に昔住んでいた人の中の伝説です。」
「ここは、民家の近くなの?」
「残念ながら、それも昔です。過疎で、誰もいなくなりました。直ぐ下の里は、今では地図にも村として載っていません。」
「この宿だけが、頑張って経営しているんだね?」
「ええ。・・・温泉のお陰で。1晩に3名様だけですけれど。」
志乃に、客に、いつもこんなことをさせているのかと、聞こうとして、東山は止めた。言葉の代わりに、東山は志乃の唇を吸った。
娼婦でもよい。
一夜の妻となりたいという美しい女に、溺れてみたいと思った。
紅い絹の布団を直に見るのは初めてだった。真っ白い志乃の裸体は紅い布団の中で妖しくしなる。東山は突き上げてくる精気を志乃の中に打ち込む。志乃は東山の腕の中で突き上げられるたびに揺れて、甘い吐息に歓喜の声を切なく吐いた。
志乃は淫靡な技巧に富み、東山を疲れさせずに、何度も歓喜の渦に包む女だった。志乃は尽きぬ歓喜の波に、乱れながら、東山に夢中でしがみついた。
ズキリ・・・
仰向けで志乃を下腹部に跨らせ下から突き上げていた東山の肩に、堪らず志乃が顎を乗せたとき、東山の首筋に鋭い痛みが走った。同時に、全身を歓喜が駆け巡る。
「嗚呼・・・」
志乃の唇が東山の首から離れ、跨ったまま上体を起こしながら喘いだ。東山は全身を駆け巡る歓喜の中で、薄く目を開けた。
志乃の唇は血で汚れ、東山をキラと光る目で見下ろして、笑った。
「や、やめろぉぉっ・・・」
東山の下腹部から、全身を駆け巡る歓喜に乗り、波のように志乃に向けて何かがが流れていく。志乃は喘ぎながら、笑い、腰をしなやかに揺らす。
「し、志乃・・・お前は・・・。」
東山は、呼吸も苦しくなり、猛烈な勢いで精気のようなものが吸い取られて行くのを感じて、目を見開いた。
志乃が腰をぺたりと東山につけたまま、耳元に唇を寄せた。
「旦那様・・・言ったではございませんか。鎮守の山なのでございますよ。」
「・・・お、鬼か?・・・何故?」
「だって・・・うふふ。神社も過疎で、だぁれも居なくなりましたもの。…やっと、あたくしたち、また、狩ができますのよ。」
「狩だと・・・?」
「はぁぁ旨い・・・旨いぃぃ・・・嗚呼・・・」
東山は薄れ行く意識の中で、しなやかに腰をビクビクと小刻みに波打たせ、歓喜に叫ぶ志乃の声を遠くに聞いていた。
読んで下さってありがとうございました。
次は、人間界の異端者が、四奏館にやって来ます。
引き続き、津那の噺を、読んでください。