第1話 爽やかな朝?
それは、この人の唐突な一言から始まった。
「ねー、拓哉。海いこー?」
「……………はい?」
とある休日。
まだ朝方だというのに、我が家のインターホンを実に23回も鳴らして俺を叩き起こしたこの女性。
ヘルメットを小脇に抱えてライダースーツを身に纏い、笑顔を浮かべ玄関先に立っているこの女性の名は倉田美咲。一人っ子の俺にとって、四つ年上のこの人は幼なじみで姉貴のような存在だ。
ちなみに、こんなのが国立大学の医学部所属なのだから不思議なものだ。
その割に妙に暇を持て余しているようだが。
「だから、海にいくわよ。地平線に沈む夕日は最高なんだから」
「いや、あの…………美咲さん?」
何故か胸を張りながら今度は断言してくる美咲に声をかける。
普段はお互い呼び捨てで呼び合う仲なのだが、今は知らないうちに敬語になっていた。
「う、海って……いつ?誰が?誰と?どこへ?」
「今、磯部拓哉が、私と、どこかへ」
微妙に答えになっていない回答をして、やはり美咲はにっこりと笑う。
ぐらり、と体が傾くのを感じた。
目眩がする。
それは、俺が朝に弱いからか。
それとも、朝からこの人に会ってしまったからか。
多分どっちもだろう。
休日の朝っぱらから絶望的な疲労を感じながらも、俺は辛うじて倒れずにすんだ。
「ごめん。体調が悪いから一人で行ってきて」
そして当然、断った。
美咲の突然の行動には幼い頃から振り回されてきたのだ。
しかも毎回必ずトラブルを起こすというおまけ付きなのだから、きっと今回も必ずなにかあるだろう。
それに体調が悪いのも本当だ。
もちろんこの人のせいで。
が、
「うん。それなら夕日を見に行こう。体調なんか一発で良くなっちゃうんだから」
説得失敗。
同じ日本語で話している筈なのに、この人にはイマイチ話が通じない。
これなら外国人と会話した方がまだ話が通じるだろう。
そもそも、この人相手に説得に出たのが間違いだった。
「そうかそうか。ならお土産買ってこいよ。んじゃ」
ドアを閉める。
大切な休日をこの人の思いつきで潰されてたまるか。
多少強引でも、こうして追い返さない限り全く通じないのだ。なにはともあれ、ようやくゆっくりと眠れ─────
「こらぁ!なに閉めてんのよ!?海行くわよ!夕日を眺めるわよー!」
なかった。
閉めようとしたドアに美咲が足を突っ込んでくる。
どこぞの押し売り業者かお前は。
「拓哉!玄関でなに騒いでるの!?」
そこに母親登場が登場した。
そりゃ朝から玄関でこれだけ騒げば当然だが。
「あ、母さん!助けてくれ!美咲が────」
「お母さん。拓哉君を海に連れて行ってきます」
って、ぅおい!
既にお前の中じゃ決定事項かよ!?
「あ、美咲ちゃん。そうなの?悪いわねぇ、せっかくの休日なのに」
「いえ、拓哉君の頼みですから」
…………は?
「ごめんなさいね?それじゃあ、このバカをよろしくね?」
「って、あんたら────」
「はい!任せちゃってください!」
カポッと二つ目のヘルメットを被せられて、腕を掴まれた。
「それじゃあ、行ってきます。お母さん」
「はい。よろしくね?」
「いやいやいやいやいや。人の話を────」
「行こうか、拓哉君」
ずりずりと文字通り引きずられて行く。
俺は今日初めて知った。
この世に神なんて存在しねぇ。絶対に。
「拓哉ー!お土産買ってきなさいねー!」
誰が買うかバカヤロー!!
かくして、俺の旅行が始まった。
いや、始まってしまったのか。