永劫の歪み
死というものは、案外に騒がしい。
肉体の重みから解放された魂は、風に舞う灰のように軽やかで、それでいて磁石のように自らの「残滓」へと引き寄せられる。
私の名は、柏木宗舟。生前は「人間国宝」などという大層な肩書きで呼ばれ、土を捏ねては焼き、その一生を炎と泥の中で過ごした。
死んでから数十年が経つというのに、私の意識はいまだにこの世を漂っている。成仏できない未練があるわけではない。ただ、自分の生み出した「子供たち」が、その後どのような運命を辿るのか、好奇心を抑えきれなかったのだ。
今日は、とある名家が所有する私設美術館の開館記念日らしい。
私は、展示室の隅に漂いながら、かつての私なら決して許さなかったであろう「光景」を眺めていた。
「ご覧ください。これが宗舟先生の晩年、悟りの境地に達した際に焼かれたとされる幻の銘品、『天歪』です」
学芸員の男が、恭しく手袋をはめた手で一点の器を指し示した。
集まったコレクターや評論家たちが、一斉に「おお……」と感嘆の吐息を漏らす。防弾ガラスの向こう側、スポットライトを浴びて鎮座しているのは、ひどく歪んだ、不格好な黒陶の茶碗だった。
私は、空中からその光景を眺め、思わず吹き出しそうになった。
(やめてくれ。それは、ただの「悪ふざけ」だ)
あれは、死ぬ三年前の夏のことだ。
連日の猛暑で頭が朦朧とし、正統な志野や楽焼を作ることに心底飽き飽きしていた。私は弟子たちが寝静まった深夜、泥酔した勢いで土を叩きつけ、握りつぶし、指先でデタラメに溝を彫った。
「こんな出来損ない、火に入れれば割れるだろう」
そう笑いながら、窯の片隅に放り込んだのだ。
しかし、炎の神というのは時として残酷な冗談を好む。
他の丹精込めた作品が窯変で台無しになる中、その「ゴミ」だけが、奇跡的なまでの深みを持つ漆黒を纏って焼き上がったのだ。私はあまりの馬鹿馬鹿しさに、裏の林に投げ捨てようとした。だが、それを見つけた当時のパトロンが「これこそ真の無為自然!」と絶叫し、奪うように持ち去ってしまった。
それが今や、どうだ。
「この計算し尽くされた左右非対称の美。宇宙の混沌を表現しているかのようです」
「見てください、この大胆な箆跡。まるで龍が土の上を駆け抜けたような力強さだ」
評論家たちが、もっともらしい言葉を並べて私の「失敗作」を称賛している。
私は死者の身であることを忘れ、彼らの耳元で叫びたくなった。
「それはただの指の跡だ! 酔っ払って滑らせただけの、ただのミスなんだよ!」
展示会は続き、私は自分の名前が独り歩きしていく様を眺め続けた。
柏木宗舟という名前は、すでに一人の人間を指す言葉ではなく、巨大なブランド、あるいは神話へと変貌していた。
人々は私の作品を見るのではない。私の作品に付随する「物語」を消費しているのだ。
私が一週間断食して土と向き合ったという逸話(実際はただの食あたりだった)や、一千個の器を割って最後の一つを選んだという伝説(実際は単に置く場所がなかっただけだ)が、作品の価値を吊り上げていく。
そんな中、一人の若い陶芸家志望の青年が、その「天歪」の前で立ち止まった。
彼は他の観客のように感嘆の声を漏らすことはなかった。ただ、食い入るように、穴が開くほどその器を見つめていた。
「……違う」
青年が小さく呟いた。私は興味を惹かれ、彼の肩越しに覗き込んだ。
「これ、先生は笑いながら作ったんじゃないか?」
私は透明な心臓を射抜かれたような衝撃を覚えた。
周囲の人間が「哲学」や「宇宙」を見出そうとする中で、この若者だけが、当時の私の「ふざけた感情」を感じ取っていた。
「完成させようなんて思ってない。ただ、土と遊んだだけだ。それなのに、なんでこんなに……」
青年は拳を握りしめ、悔しそうに歯を食いしばった。
「なんでこんなに、僕が一生懸命作ったものより、ずっと自由なんだ」
その時、私は初めて気づいた。
私が「失敗作」だと思い、世間が「芸術」だと崇めているあの器には、私の生涯で唯一、「名声への執着」が含まれていなかったのだということに。
皮肉な話だ。
私が「柏木宗舟」として、人々の期待に応えようと、血を吐く思いで完璧を求めた作品たちには、どこか「見てくれ」という邪念が混じっていた。
対して、あのゴミ同然の器には、土と戯れる純粋な喜び、あるいは破壊の快感しかなかった。
人々がそこに価値を見出したのは、私の計算された技術ではなく、その「無防備な魂」だったのかもしれない。
夜になり、美術館は静寂に包まれた。
警備員が巡回し、センサーが冷たい光を放っている。
私は「天歪」の前に座り込んだ。
生前、あれほど嫌悪し、恥じていたこの器が、今では私のどの代表作よりも雄弁に私を語っているように見える。
もし、私が今の視点を持って、もう一度土を捏ねることができたなら。
私はおそらく、二度とあのような器を作ることはできないだろう。「無欲」を狙って作った時点で、それはもはや純粋な遊びではなくなるからだ。
「芸術」とは、作家が意図したものなのか。それとも、観る者が受け取ったものなのか。
あるいは、その間に生まれる幸福な誤解の積み重ねなのか。
私は、あの陶芸家志望の青年の姿を思い出した。
彼は「天歪」を見て絶望し、そして同時に、何かに気づいたようだった。
彼は明日から、教科書通りの美しさではなく、自分の中にある「制御不能な衝動」を土にぶつけるだろう。私の「失敗」が、彼の「真実」への道標になったのだ。
(まあ、いいだろう。それもまた、一興だ)
私は、ガラスケースの中に鎮座する醜い器を眺め、ふっと笑った。
私がこの世に遺した最大の冗談は、どうやら後世の人間たちを教育する「教科書」にまで成り上がってしまったらしい。
夜明けが近づき、私の意識は少しずつ薄れていく。
どうやら、今回の里帰りはこれでおしまいのようだ。
次に目を覚ますのは、百年後か、あるいは千年後か。
その頃には、この「天歪」も、私の名前も、すべて風化して消えているかもしれない。あるいは、さらに尾ひれがついて、私が神様の一人として祭られているかもしれない。
どちらでも構わない。
ただ、願わくば。
いつかまた、あの青年のように、私の「遊び」を見て笑ってくれる奴が現れることを。
「なんだ、ただの悪ふざけじゃないか」と、肩の力を抜いて土に向き合ってくれる誰かが現れることを。
私は、展示室を後にした。
朝の光が差し込む中、高価な台座の上で、私の「失敗作」が誇らしげに、そして何よりも愉快そうに、美しく歪んで見えた。




