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濁流

掲載日:2026/03/09

濁流に飲まれる描写があります。

このため、水害等の水難の被害に遭われた方がいらっしゃいましたら、お読みになるのをお薦めしません。

 1.

 こんな夢を見た。


 私は濁流が激しく波打っている川の堤防の上に立っている。

 その川は、いつもは穏やかで水量も少なく、幅も五十メートル程度で大河というほどではない。しかし、先日からの大雨がずっと降り続いていて、茶色に濁っている。水かさも橋や堤防のすぐ下にまで達していて、今にもあふれ出しそうになっている。


 その川に、人が流されてくるのが見えた。

 溺れそうになりながら、水面から時々顔を出してもがいている。丸太でも流れてきて掴まることができればよいが、あいにくそんなものはない。


 夢の中の私は、その光景を見ても気の毒だとか助けたいという気持ちが何故か湧いてこなかった。

 そもそも私もこんな川のほとりに立っているのは危険なのだ。助けようとするのはもっと危険だ。一緒に流されて死ぬかもしれない。それに、助けようにも救命胴衣も浮輪もボートも、何の持ち合わせもない。誰か助けを呼びに行こうにも、近くに人がいる気配もない。だから私は手をこまぬいて、その人が流されているのをむしろ好奇の気持ちで眺めているだけだ。


 ふと、流されている人の顔に見覚えがあるような気がした。

 夢だからなのか、誰かは特定できない。しかし助けたいという気持ちが湧かないから、きっとその人は自分にとって嫌な人なのだろう。


 今の私の職場である証券会社で、部下に当たり散らす上司の江口課長だろうか。

 あるいは、新興宗教に入信して、私を含め親戚中にしつこく勧誘してきたために絶縁されたうちの伯母の幸恵≪さちえ≫だろうか。

 もしかすると、私が飛び込み営業しに行った際、怒声を発して撃退するだけでは足りずに土下座までさせた、滑谷≪ぬかりや≫という珍しい名前の小さな建設会社の社長かもしれない。

 はたまた……


 そこで目覚まし時計に起こされた。流されていく人が誰だったかは、結局分からずじまいだった。

 現実の世界は朝六時。私は社員寮の自室にいる。

 早くもこれから出掛ける準備をしなくてはならない。しかも今は一月。布団から這い出すと寒い。外はまだ明るくもなっていない。

 しかし証券会社の朝は早い。七時半には出社して、市場の動向をチェックして新聞の読み合わせも済ませて、午前九時の証券取引所の開始時刻を待たなくてはならない。


 現在在籍している東京都区内の支店の直の上司は、江口という名前の課長だ。四十二歳らしいが、見た目よりもだいぶ老けている感じがする。肥満体型で髪は後退している。顔は浅黒くて皺が深くて、健康そうにも見えない。それに、この年齢なのにまだ課長なのはこの会社では出世が遅い部類になるらしい。それでも妻子がいて、息子は来月初めに中学受験を控えているという。


 その江口課長は、毎日私たち部下を怒鳴りつける。ここではそういうのが当たり前になっている。

 しかも私は半年の新入社員研修を経てこの支店に配属された一年三ヶ月前以来、営業成績が常に下の下というていたらくだから、特に風当りは厳しい。まるで見せしめのように、あるいは課長が自分の不満のはけ口として私を利用しているようにも感じられる。


「おい、深瀬。お前、できないじゃないんだよ。やるんだよ」

「毎日何しに来てるんだ。しっかり結果を出せ結果を」

「お前は給料泥棒か、バカ」


 課長が有給休暇などで不在ではない限り、ほぼ毎日こんな感じだ。


 私はいつも、頭の上に嵐が吹き過ぎるのをひたすら耐え続けている。

 しかし、怒声の割に具体的に何をどうすればよいかなど一度も説諭されたことはないから、わけが分からない。恐る恐る聞いたところで気合だの根性だの、どうせどこかの体育会のようなことしか言わない。


 ほかに三人いる私と同じ課の人たち――実はもうひとり、私の二年上の先輩もいたが、仕事の厳しさに耐えかねて半年ほど前に辞めた――も怒られるのは同じだが、みんな柳に風と受け流している。もっとも受け流せるのはみんな私より営業成績が良くて、風当りそのものがあまり強くないからだと思う。


 朝礼が済むと支店にかかってくる電話を取る。あるいはこちらから電話をしてアポを取る。そしてアポのあるなしに関わらず、午後から外回りの営業に行かされる。

 こんなもの、行ってもほとんど門前払いだ。

 ひどい場合は帰れと怒鳴られる。

 もっとひどい場合は物を投げられる。

 もっともひどい場合は、既に書いた通り土下座させられて急に訪れたことを謝罪させられる。これは一回だけある。


 とはいえこんな反応をされるのもやむをえない。同業の人には悪いが、証券業界というところは世間の評判が良いとは言えないと思う。私はまだ新卒二年目だが、それでも営業回りをすると、そのことを身をもって感じる。


 実際、この業界にはかつていくつかの不祥事があった。

 

・大口顧客に損失補填していた。

・総会屋への利益供与をしていた。

・会社の決算が芳しくないのを隠すため粉飾決算をしていた。

・ノルマをこなすために顧客に押し売り同様のことをする営業マンがいた……


 また、証券会社の扱う商品は株式その他の値動きのあるものが多いため、どこか博徒のようなイメージを持つ人もまだ時々いる。また、顧客にもそんな感じのする人もいる。大損させられたと怒る顧客もいる。


 何にせよ、その会社に入社し、社員としてスーツに社員章をつけ、会社名の刷られた名刺を持たされれば、私もその会社の人間として世間からの評価にさらされることになる。

 しかし、悪い評判は個人としての私自身の責任ではないから辛い。そう思う気持ちは、大きな会社に雇われている気安さを上回っている。


 最近も、私の勤める会社に粉飾決算疑惑があるとの報道があったから、営業のやりづらさを感じている――もっとも外回りの営業など誰かに監視されているわけではないから、サボって喫茶店で時間をつぶすこともあるが――。

 上層部からは、今般の疑惑について顧客から何か問い合わせがあっても「分かりかねます」と答えるよう釘を刺されてはいる。しかしこういうのは、もし後日不祥事が露見したら、知っていたくせにすっとぼけていただろうと追及されるのではないかと心配だった。


 濁流の夢を見たその朝、出社してみたら江口課長が休みだった。急な休みだったので、支店内はちょっとした騒ぎになっていた。

 その後、課長の上司の森永次長が私たちの机の前に来て告げた。


「江口課長は病気でしばらく休むことになった」


 それを聞いた課の人たちは心配な旨を口にしたが、私はほっとした。これでしばらくは理不尽に怒鳴られずに済む。他人より出世が遅いことでも分かるとおり、社内での評価が芳しくない課長より、代わりに私たちの面倒を見ることになった森永次長の方が温厚だからたぶんマシだろうと思ってしまっていた。


 ★

 その数日後、また夢を見た。

 私は濁流が激しく波打っている川の堤防の上に立っている。

 その川に、先日と同じく人が流されてくるのが見えた。

 今日、その人はすぐに濁流に飲まれて姿が見えなくなってしまった。

 先日と同じく、夢の中の私は気の毒だとか助けられなくて申し訳ないとか、本来なら起きる気持ちが湧いてこなかった。


 翌朝出社したら、森永次長が私たちの課に来た。そして沈痛な面持ちで私たちに告げた。


「昨夜の夜遅く、江口課長が亡くなられた」


 その後、通夜と告別式の日程と会場を粛々とした声で教えてもらいながら、課の人たちもまた沈痛な顔つきになった。そして、つい先日まで元気だったはずの課長の死に悔やみの言葉を述べ始めた。来月初めに中学受験を控えた息子さんも、急にお父さんが亡くなって大変だ、と気の毒がる人もあった。


 江口課長の死因はくも膜下出血だったという。倒れた後病院に運ばれて緊急手術して一時的に回復したものの、その後容態が急に悪化したということだった。


 課長は不摂生だったらしい。ノルマを課される営業マンはストレスがたまる。部下の指導も楽ではない。肥満で高血圧だった。その上酒好きでヘビースモーカーでもあった。支店内は禁煙だがビルの中には一箇所喫煙所があって、そこで課長が不機嫌そうに何本も吸っているのを目撃した人は多かった。


 思えば嫌な上司だったと私は思う。

 よく怒鳴るし、朝令暮改で混乱させられることもよくあったし、下には厳しいくせに上には媚びていた。辞令が出てどこか別の支店に転勤してくれないかと、心ひそかに願ってもいた。だから課長の訃報に口では悔やみの言葉を言っても、内心では悲しむ気持ちなどなかった。

 どうせしばらくの間の付き合いだし、何なら私は自分の肌に合わないこの会社を去って転職することを検討していた。


 2.

 数日後、こんな夢を見た。


 私は濁流が流れる川の堤防の上に立っている。そして上流からまた人が流されてくるのが見えた。

 先日の夢と異なるのは、私のすぐそばに従兄の譲≪ゆずる≫が立っていることだった。

 その譲が私に教えた。


「今流されている人って、俺の母親の幸恵なんだよ」


 不自然に平板な口ぶりだった。私は聞き返した。


「助けなくていいんだよね?」

「うん、この際これでいいと思う」


 残酷にも、譲はむしろ母親が濁流に飲まれるのを望んでいるようだった。


 従兄の譲の母親である幸恵は、私の父親である幸司の実姉だから、私にとっては伯母にあたる。先年新興宗教にはまり、親戚中をしつこく勧誘したため、私の父親はじめ親戚ほぼ全員から絶縁されたという、いわくつきの人である。


 私自身も学生時代約束なしに自宅に来られて勧誘され、断ったら「あなた地獄に落ちるわよ」、「きっとろくな死に方しないわよ」と悪態をつかれたことがある。とても不快で腹が立ったから、二度と会いたくないと思っていた人ではあった。


 また、幸恵は寄付と称して譲の教育費はじめ自分の家の財産に手をつけたので、怒った譲の父親は幸恵と離婚していた。


 宗教二世と言える譲も、敵意を含んだ声でこんな母親は死んでも悲しくないと言い放ったことがある。


 そういう嫌われ者の幸恵は、かつて腹を痛めて産んだ息子に見限られ、濁流に飲まれて姿が見えなくなってしまった。


 そしてその夢を見た三日後、私は譲から訃報を受け取った。

「うちの母親の幸恵が亡くなった」


 二日前、心筋梗塞で倒れたのだという。まだ五十二歳の若さだった。これまで宗教活動に血道をあげていたから、無理が祟ったのだろうという。葬儀は家族だけで済ませるらしかったがこれは方便で、親戚を呼んでももとより誰も参列する気などないからだろうと私は察した。

「ご冥福をお祈りします」

 私は白々しく譲に言った。


 しかし私は驚いていた。


 濁流に流されて溺れている人の夢を見た直後に、江口課長が倒れた。

 濁流に流されて姿が消えた人の夢を見た直後に、江口課長が亡くなった。

 濁流に流されて姿が消えた人の夢を見た直後に、今度は伯母の幸恵も亡くなった。


 そしてどちらも、日本の平均寿命よりはだいぶ若い年齢で突然亡くなっている。


 もしかすると誰かが濁流に流される夢を見ると、その誰かに不幸が起こるのかもしれない。予知夢というやつだ。

 そうすると、私は今後も誰かが濁流に流される夢を見たら、その人はやはり死んでしまうのだろうか。


 また、亡くなった二人には、いずれも私の嫌いな人物だったという共通点がある。

 とすると、私は嫌いな人を夢に見れば、その人を葬れるのではないだろうか。


 いや、単なる偶然かもしれない。江口課長にしろ伯母の幸恵にしろ、元々持病があって、きっと私が夢を見た直後にたまたま発病しただけのことかもしれない。


 しかし、もし夢に見た人が死ぬのが偶然にすぎないなら、もう一度誰かが濁流に流される夢を見て、なおかつその誰かが死なないという事例が起きる必要がある。そういう反証があって初めて、これまでの二例はただの偶然と言える。

 だから私は、また誰か、なおかつ嫌いな誰かが濁流に流される夢を見たいと考えた。


 3.

 願いごとを書いた紙を枕の下に入れて寝ると、書いた通りの夢を見られるという話を聞いたことがある。

 それを真に受けて、私は自分の見たい夢を意図して見ようと企てた。


 不快な思いをさせられたために私が嫌悪する人と言えば、先日飛び込み営業に行った建設会社の滑谷(ぬかりや)社長だ。

 私は滑谷社長の名前と、濁流に飲まれるシナリオを書いた紙を枕の下に入れた。


 この禿頭の社長は、私に向かって怒気を露わにするだけならまだしも、土下座までさせて侮辱した人である。

 確かに証券会社のイメージは良くない。営業マンが歓迎すべきでない存在なのも理解できる。ましてや先日から私たちの会社の粉飾決算疑惑が報道されている。

 しかし、だからといって土下座させることはない。私だって好きでもないのに、世間の目を承知の上で仕事として営業回りさせられているのだ。


 しかも社長は私にこんな言葉を浴びせた。

「お前んとこの会社には今でも恨みがあるんだ。ずいぶん昔俺が大損した時も埋め合わせしてくれなかったからな。散々薦めてきたんはそっちだぞ。おいこら」

 そんな昔のことは私には関係ないし、そもそも損失を補填するのは違法だ。

 たとえ理不尽な仕打ちでも言い草でも、会社の名前を帯びた営業マンであれば、一応は耐え忍ばなくてはならない。

 しかし個人としては、この社長の言動は根に持つほどに容認できないでいた。


 その夜、うまい具合に例の濁流の夢を見た。

 私は濁流が激しく波打っている川の堤防の上に立っている。

 その川に、同じく上流から人が流されてくるのが見えた。そしてその人はやがて姿が見えなくなった。


 翌日から、私は営業回りと称して、滑谷(ぬかりや)社長が営む建設会社がある地区を歩き回ることにした。

 何度も訪ねたことがあるから、都区内のその辺りは古くからの住宅街で、今でも地域のつながりが密で、町内会も存在していることを知っていた。公園の隅には、祭りの時に使用する神輿を保管する倉庫がある。街角には町内会の掲示板がある。そこには秋祭りや町内運動会、あるいは防災訓練の案内が貼られていることもあるのだが、町内会の会員やその家族の訃報が貼られることもある。


 歩き回り始めて三日後、月が改まって二月二日、私はその掲示板に黒い縁取りのある紙が貼り出されているのを見つけた。


 ◆訃報

 滑谷建設株式会社 滑谷正太郎殿 東本町二丁目町会 

 去る一月二十六日、七十一歳で逝去されました。

 ここに謹んでお知らせするとともに、ご冥福をお祈りいたします。


 営業に訪れた時はけんもほろろだったから、私はその社長と名刺交換はしていない。しかし、会社名は確かに滑谷建設だった。それに「滑谷」と書いて「ぬかりや」と読む名字は珍しいし、近所で同じ名字の表札を見かけたことはない。年齢から考えても、この滑谷正太郎氏は私を土下座させた滑谷社長でまちがいない。


 七十一歳といえば今時はまだ現役といえる年代だ。確かに先日の怒声から察するに、つい最近まで元気だったのだろう。あるいは江口課長のように急に倒れたのかもしれない。


 いずれにしても、これで私の夢の中で濁流に飲まれた人は三人が亡くなったことになる。しかも三人目の滑谷氏は、私が実際に紙に名前を書いた人だ。


 この検証で、私はこう判断した。

 夢の中で濁流に流されている人が死ぬのは、たぶん偶然ではないと。


 もしかすると私には、夢に見た人を亡き者にする特殊能力があるのかもしれない。

 そして、私がどんな夢を見ようと、言わなければ誰にも分からない。だから、私はこっそり人殺しができることになる。


 怖い話ではある。

 しかし今はそう感じても、慣れるとこんなことをしてはいけないという規範意識が麻痺して、味をしめそうな気がする。

 今後気にいらない誰かが登場して、自分の気持ちが閾値いきちに達したら、私は安易に夢を見ようとするような予感がする。


 だから私は、他人が濁流に流される夢は、当面なるべく見ない方が望ましいと考えた。

 実際、数日間何の夢も見なかった。

 その代わり、体調が悪くなった。


 この職場には少々のことで休むと白い目でみるような雰囲気がある。だから、別に積極的に出社したいわけではないのに、無理矢理自分を奮い立たせるしかなかった。

 しかし、そんな私は朝出社前に新聞に目を通して出鼻をくじかれた。


 日和証券株式会社 粉飾決算か。本社を特捜部が捜索


 一面トップの記事だった。日和証券はむろん私の勤めている会社だ。

 とうとう刑事事件になったらしい。


 出社後の朝礼で、支店の全員が、いつもは顧客向けのセミナーを開く時などに使用されている大会議室に集められ、支店長から訓示を受けた。


「報道でもみんな知っていると思うが、これからいろいろ大変なことが起きると思う。それでもみんな力を合わせて乗り切ろう」


 この支店では、私のような若い連中は率先して電話を取ることになっている。ただでさえ気が進まないのに、その日は特に嫌だった。罰ゲームなどという生易しいものではない。しかも当然ながら電話はいつもよりもじゃんじゃんかかってくる。


「大変なこと」もさっそく起きた。

 おそるおそる受話器を取ると、年配の男性の怒声が耳に届いた。


「おい、お前のところはどうなってるんだ!」

「この度は大変申し訳ございません」


 うかつなことを言って揚げ足を取られるわけにはゆかないから、とりあえず平身低頭するしかない。すると相手は益々激しい声になった。


「どうせ反省なんかしてないだろ。え? まだ何か隠してるだろ、お前ら」


 隠すも何も一介の平社員に何も分かるわけがない。本当はこっちが事情説明してほしいくらいだ。


 はたまた別の電話でも「おたくの会社は悪の巣窟か?」「恥を知れ」と罵られた。そして昔の不祥事を蒸し返してねちねち言われた。確かにそんなこともあったのは間違いないが、そんなのは私の入社する前の話だ。


 しかしそう思っても口にしてはならない。

 なぜなら私は世間の人たちにとっては「会社側の人間」だからだ。


 中にあなたたちには関係ないからと優しく言ってもらえた者もいるらしい。しかし概して、これこそ悪い夢であってほしいと思えるようなひどい電話ばかりだった。悪口を予想しながら電話に出て、見えない相手に応対するのは辛い。電話でこの調子だから、ネット上にはきっと読むに堪えない罵詈雑言が溢れているのだろう。憂鬱だ。


 そのうちみんな気分が荒んできたのか、中には少し時間が空くと逆切れ気味に

「ここぞとばかりに電話で責め立ててくるって暇人めが」とか、

ため息を吐きながら

「当分社員章をつけたままで飲みに行かない方がいいかもな」

と言う人もあった。


 私はただでさえ体調が悪いのに、頭がふらふらしてきた。

 とうとう早退することにした。それを申告した時、こんな地変な時なのに自分だけ抜けるのはけしからんとでも言いたげな冷たい視線を感じた。


 4.

 こんな夢を見た。体調が悪くて早退した日の夜のことだ。


 私は濁流が激しく波打っている川の堤防の上に立っている。

 今日は誰も流されていない。いくら待っても、誰も流されてこない。

 そのうち異変が起きた。川の水が堤防の上まで達した。そして私の足元に迫ってきた。


 むろんすぐにその場から逃げ出そうと思った。  

 しかしどうしたことかまったく足が動かない。まるでそこに根を生やしたようだった。

 逃げ出さないと危険だと分かっているのに、気持ちだけはあっても足が動かない。そのうち水が堤防を越えて私の足首を浸し、膝まで達した。こうなるともう逃げようとしても手遅れだ。私は自分が濁流に飲まれて流されてしまうのを覚悟するしかなかった。

 そして私は水にさらわれた。たまたま流れてきた木に掴まることができたので、何とか溺れずに済んだ。


 そこで夢から覚めた。寝汗をかいている。

 現実の世界は朝六時前。私は社員寮の自室にいる。

 本来なら、これから出掛ける準備をしなくてはならない。

 しかし、布団から這い出る気力が湧いてこない。体調が悪かった昨日は、寝れば何とか回復するだろうと高をくくっていたが甘かった。持ち合わせの体温計で測ってみたら微熱がある。

 私は職場に今日は丸一日休むと連絡した。


 理由はどうあれ、出社しなくて済むのはありがたい。

 その後、再び布団で横になった。

 何もしないでじっと天井を眺めがら、火照った頭で考えた。


 昨夜の夢に出てきたのは、紛れもなく自分だった。しかも濁流に流された。

 これまでの三人は、いずれも私が濁流に飲まれる夢を見た直後に亡くなっている。ということは私ももうすぐ死ぬのだろうか。あるいは死なないまでも、命に関わるような目に遭うのだろうか。


 冗談ではない。私はまだ二十四歳だ。体にも何ひとつ悪いところなどないはずだ。


 それと、いなくなってほしい人が流されるのなら、私は自分のことをそう思っているということなる。


 冗談ではない。いくら仕事が辛くても、たとえば電車が走ってくるのを眺めながら、このまま飛び込んだら楽になれると魔が差したことはまだない。それにそんなに思い詰めているのなら、夢など見ている場合ではないような気がする。


 一日休んで出社したが、むろん今回の不祥事に関する騒ぎはしばらく収まりそうもなかった。毎日毎日、受けた電話や営業先で嫌な思いをさせられた。


 数日後、粉飾決算にかかわった社長や取締役たち経営陣は総じて引責辞任となった。一年九ヶ月あまり前、私たちが入社式に臨んだ時にずらりと前に座っていた人たちのうちの何人かでもあったが、むろん誰が誰かは覚えていない。


 新しい社長たちの謝罪会見があった。神妙に頭を下げる様子がテレビで流れ、新聞にも写真が掲載された。マスコミは恥ずべき愚行とか自浄能力は期待できないとか、厳しい論調ばかりだった。


 しかし、不祥事を起こした人たちは、社員には何もしてくれなかった。謝罪もなければ、ねぎらいの言葉のひとつさえもなかった。不祥事は社員にとっても迷惑なのに。


 世間からのお叱りや批判の矢面に立ったのは社員だ。しかもそれは社員が悪いからではなく、経営陣の不始末の尻ぬぐいをさせられているにすぎない。個人としてはとうてい納得がいかない。

 それに、今後の信頼回復も、残された者たちの努力に委ねられる。


 経営陣も社員たちのこうした苦境は分かっているはずだ。かつては自分たちも同様の経験をしているはずなのだ。


 要するにこの人たちは世間向けには「責任を取って」辞任したことにしてはいるが、跡を濁して逃げただけではないか。どうせ今回の件でも、刑事責任を追及されたらいざ知らず、会社からまったく追放されるわけではなく、ほとぼりが冷めたらしれっと相談役か名誉何とかの役職に就くのだろう。

 私は腹が立ってきた。


 私はその夜、粉飾決算に手を染めていた経営陣の名前を書いた紙を枕の下に入れた。


 もし彼ら経営陣に万一のことがあっても、今なら世間からさほど同情はされないだろう。私は正義が自分にあると信じ込んだ。


 そしてその夜、こんな夢を見た。


 しかし、夢は夢でも意図していたのとはまるで違う夢だった。

 濁流に流されているのは、またしても私だった。何とか流木に掴まって、溺れずに済んでいた。しかし流木も濁流の勢いに負け、私も下流に流されてしまった。


 少し先に橋があるのが見えた。私の掴まった流木は橋桁に引っ掛かって止まった。

 橋の上に、何人か人がいるのが目に入った。

 私は、もしかすると彼らに橋の上まで引き上げてもらえるのではないかと思った。助かる希望が湧いた。


 しかし、希望は打ち砕かれた。彼らは見ているだけで何もしなかったのである。むしろ彼らは、冷ややかにすら見える目つきで私を見下ろしているのだった。

 そのうち橋の上から業を煮やしたような、怒りを含んだ声が降ってきた。


「おい、お前はいつ流されるんだ?」


 その言葉に抗って流木にしがみつきながら、私は気付いた。


 どうやら私自身が気に入らない誰かが濁流に飲まれるとは限らないらしい。

 先日伯母の幸恵が流されたのは、私よりむしろ従兄の譲の持つ憎しみのせいだ。


 今、私、深瀬聡という人間は、不祥事を起こした日和証券株式会社の社員として、世間の厳しい目にさらされている。

 するとさらに大きな濁流が襲ってきて、私は思い切り泥水を飲んでむせた。このままだと体も冷え、力尽きて流木から手を離してしまうのは時間の問題だと思った。


 幸いこれは夢の中だ。

 いや、夢が現実になると確かめたのは自分だ。だからここで溺れ死んだら私は現実に死ぬのだ。

 嫌だ、まだ死にたくない。あっぷ。

 それにしても私は、夢で見た人を亡き者にできるなどと、よくも買い被ったことを考えたものだ。ゴボッ。


 さっきから水の冷たさを感じる。

 やがて私は流木から手を離し、濁流に翻弄され始めた。

 それを眺める橋の上の人たちが満足そうに私を見下ろしたのかどうかは、知る由もない。


お読みいただきありがとうございました。

ご感想をいただければ幸甚です。

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