(第六話)『スパイスは殺意の味』
1. 食後の散歩と招かれざる「香り」
「ふぅ……。素晴らしい『ビターチョコレート(強欲)』でしたわ。おかげで、あの病院での不快な『口(呪い)当たり』も、すっかり洗い流されました」
ギルフォード商会ビルから押収された山積みの証拠(アリア曰く『雑味の残骸』)の処理を部下たちに任せ、アリア、ガレオス、エルネストの三人は、夕暮れの王都の表通りを歩いていた。
アリアは、極上のデザートを味わった後とあって、上機嫌で鼻歌さえ歌っている。
「しかし、」
ガレオスが、いまだ信じられないといった様子で、アリアの隣を歩くエルネストに低い声で話しかける。
「『不味さの根源』を見抜く、あのアリア様の『舌(鑑定眼)』……。あれは一体……」
「解明不能だ」
エルネストも、眼鏡の奥の瞳を細めて応じる。
「彼女は、我々の世界の『理』の外側にいる。そして、彼女が指摘した『共通する後味』……」
エルネストの表情が険しくなる。
「『秘密のレシピ本』。もし、内務省の『怠慢』と、ギルフォード商会の『強欲』が、同じ根から派生しているとしたら……」
ガレオスが息を呑んだ。
それは、王都の腐敗が、個々の悪事ではなく、彼らの想像を絶するほど巨大な「一つの組織悪」によって意図的に「調理」されている可能性を示唆していたからだ。
その時、上機嫌だったアリアが、ピタリと足を止めた。
「……止まりなさい」
鈴が鳴るような、しかし絶対零度の声。
二人が振り返ると、アリアは美食家が未知の食材に出会ったかのように、真剣な表情で、夕暮れの路地裏の深い闇を睨みつけていた。
「どうかなさいましたか、アリア様」
「……匂うのですわ」
くん、と彼女の鼻がひくつく。
それは(※第四話)の「不味い(自己憐憫)」とも、(※第五話)の「美味しい(強欲)」とも違う、全く新しい香り。
「これは……」
アリアは、その香りを確かめるように、深く息を吸い込む。
「……辛い」
「辛い、ですか?」
「ええ。舌が、いえ、鼻腔が焼けるような、強烈な刺激臭……! 例えるなら、最高級の唐辛子を、石臼で挽き潰した瞬間の香り……! これは、**極上の『スパイス』**ですわ!」
アリアが恍惚と呟いた、その刹那。
「伏せろッ!!」
ガレオスの怒声が響いた。
ヒュンッ!
風切り音。ガレオスがアリアを突き飛ばすと同時に、彼が立っていた石畳に、一本の漆黒の矢が突き立った。
「!!」
ガレオスとエルネストが即座にアリアを庇うように陣形を組む。
「『スパイス』……!? アリア様、それは『殺意』です!」
2. 物理的脅威と「スパイス」のジレンマ
路地裏から、音もなく現れたのは、黒装束に身を包んだ五人の影。
ギルフォード商会の「影」――『無貌の者』と呼ばれる暗殺者たちだった。商会長が拘束されたという報を受け、証拠隠滅と「元凶」の排除のために送り込まれたのだ。
「チッ、化け物どもが……!」
ガレオスが剣を抜き放つ。
だが、アリアの関心はそこにはなかった。
彼女は、ガレオスとエルネストの背後から、目を輝かせて暗殺者たちを「観察」していた。
(すごい……! あの人たち、全身からあの『スパイス(殺意)』の香りを放っていますわ!)
(純度が高い! 雑味がない! ただひたすらに、相手を仕留めるという一点にのみ集中した、混じり気のない『辛さ』!)
アリアの食欲が、再び刺激される。
だが、同時に彼女はグルマン(美食家)として、本能的に理解していた。
(……ですが、待って。これは『メインディッシュ』でも『デザート』でもない。これは『スパイス』。調味料ですわ)
(調味料だけを、そのまま口にする愚か者がどこにいますの!?)
アリアの美食家としてのプライドが、実食を拒否する。
唐辛子をそのままかじるのは、料理として「美しくない」からだ。
だが、暗殺者たちは待ってくれない。
「エルネスト! アリア様を連れて退避を!」
「させるか!」
暗殺者たちが、一斉に動いた。
ガレオスは王国最強の騎士団長。三人を相手にしても、互角以上に渡り合っている。
だが、残りの二人が、アリアとエルネストに殺到した!
「くっ……!」
エルネストが魔術障壁を展開するが、暗殺者の短剣がそれを紙のように切り裂く。
彼らは「対魔術師」用の訓練も受けていた。
ついに、一人の暗殺者がエルネストの防御を突破し、アリアの喉笛めがけて、毒の塗られた短剣を突き出した。
それは、呪いではなく、純粋な「物理的脅威」。
アリアの能力では、対処不可能な一撃。
――かに、思われた。
3. 美食家の奇策「味付け」
「――無作法ですわ!」
アリアの甲高い叱責が、暗殺者の動きを一瞬止めた。
彼は見た。目の前の少女が、死の恐怖に怯えるどころか、心底から料理を侮辱されたような、怒りに満ちた顔で自分を睨みつけているのを。
「いいですか!? 『スパイス(殺意)』というものは、それ自体が完成した『料理』ではありません!」
「な……何を……」
「それは、『メインディッシュ(例:憎悪)』や『スープ(例:怠慢)』に**『味付け』**として加え、その風味を引き立てるためのもの! こんな風に『スパイス』だけを皿に盛って客に突き出すなど、三流以下の料理人のすることですわ!」
暗殺者は、意味が分からなかった。
だが、アリアの奇想天外な「お説教」は、第四話の青年に向けられたものとは根本的に違っていた。
「……ですが」
アリアは、目の前の「極上のスパイス」を見て、ニィ、と口の端を吊り上げた。
「これほど純度の高い『スパイス』を、目の前にして味わわないなど、それこそ美食家の名折れ」
「?」
「『メインディッシュ』がないのなら……仕方ありませんわね」
アリアは、自分に突きつけられた短剣(物理)を無視し、その短剣を握る暗殺者の「腕」――否、その腕にまとわりつく、純粋な『殺意』のオーラ――に向かって、宣言した。
「貴方を、私という『皿』に盛り付けますわ!」
「!?」
「【調理法:味付け(シーズニング)】!!」
アリアは、暗殺者の攻撃を避けるどころか、一歩前に踏み出した。
そして、暗殺者の「腕」そのものを、両手でガシリと掴んだ!
「なっ!?」
暗殺者が、物理的にアリアを振りほどこうとする。
だが、次の瞬間、彼は信じられない現象に襲われた。
「――いただきますわッ!!」
アリアが、掴んだ腕から、まるで極上のソースを舐めとるかのように、その「殺意」だけを、ズズズッ、と一気に吸い上げたのだ!
4. 燃える喉と「後味」の正体
「ッッッ!!!!!」
直後、アリアはその場に崩れ落ち、喉を押さえて激しく咳き込んだ。
「か、辛ーーーーーッ!!」
灼熱! 灼熱だった!
純度100%の殺意は、純度100%の唐辛子をそのまま飲み干すのと同じだった。
アリアの喉が、胃が、燃えるように熱い!
「あ、アリア様!?」
エルネストが慌てて駆け寄る。
「み、水を! エルネスト、水を! 舌が、舌が燃えますわ! 早く!」
一方で、アリアに「殺意」を完食された暗殺者は。
彼は、アリアの喉元に短剣を突きつけた、まさにその体勢のまま、ぴたりと動きを止めていた。
その瞳から、先程までの非情な光が、綺麗に消え失せている。
彼は、自分がなぜここにいるのか、なぜ短剣を構えているのか、まったく理解できない、という顔をしていた。
「……あれ?」
暗殺者は、自分の手の中の短剣と、涙目で咳き込むアリアを交互に見る。
「……なんで、俺……人を、殺そうと……?」
カラン。
短剣が、力なく石畳に落ちた。
彼から、「殺す」という**動機(呪い)**そのものが、綺麗さっぱりアリアに「食べられて」しまったのだ。
スパイス(殺意)のない料理(暗殺者)は、もはや何の味もしない、ただの抜け殻でしかない。
「……終わったか」
残りの暗殺者たちを(殺さず)無力化していたガレオスが、呆然と、その光景を見下ろしていた。
「……まったく。とんでもない『荒療治(食事)』だ」
「けほっ、げほっ……! は、早く水を……!」
エルネストから水筒を受け取り、がぶ飲みしたアリアは、ぜえぜえと肩で息をしながら、涙目でガレオスを睨んだ。
「……はぁ。まったく、ひどい目に遭いましたわ」
「……それは、こちらの台詞だ」
「でも……」
アリアは、まだヒリヒリと痛む舌で、口唇をぺろりと舐めた。
その瞳には、確かな「美食家」の光が宿っている。
「……分かりましたわ、エルネスト」
「は、はい(水を差し出しながら)」
「あの『共通する後味』……『秘密のレシピ本』の正体」
アリアは、先程味わった「スパイス(殺意)」の奥に、確かに感じた『後味』を反芻する。
「あれは、『古い血の匂い』と……『王家の紋章の味』ですわ」
エルネストの顔から、血の気が引いた。
彼女の「舌」は、ついに腐敗の根源、王都の「メインディッシュ」――建国の「業」の正体に、限りなく近づいていた。
第六話 完




