(第五話)『美食家の批評(デコンストラクション)』
1. 口直しはビターチョコレート
「――不味い! あんな不味いものを嗅がされたせいで、私の繊細な舌が麻痺してしまいましたわ!」
王立中央病院を後にしたアリアは、石畳の上で忌々しげに足を止め、ヒールをカンカンと鳴らした。
先程病院で嗅がされた「不味い呪い(自己憐憫)」の記憶が、未だに彼女の鼻腔の奥にこびりついている。
焦げ付いた砂糖と腐った牛乳を混ぜ合わせたような、あの吐き気を催す甘ったるい匂い。美食家として、これ以上の侮辱はなかった。
そのただならぬ憤慨を前に、ガレオスとエルネストは冷や汗を流していた。
この恐るべき「劇薬」の機嫌(=食欲)を損ねることが、王都の浄化計画においていかに致命的か。彼らはこの数日で痛いほど学んでいた。
「アリア様! し、失礼を承知の上で申し上げます! 口直し、ですね!?」
エルネストが、必死の形相で進言する。それはもはや冷徹な宮廷魔術師長ではなく、機嫌を損ねた最重要顧客(V.I.P.)をなだめる給仕長の必死さだった。
「先達て馬車からご覧になった、『商人の強欲』が煮詰まったという、あの『ビターチョコレート』はいかがでしょう! あそこならば、貴女様のお口にも……!」
「……ビターチョコレート?」
アリアは、ぴたりと動きを止めた。
不機嫌にへの字に曲がっていた桜色の唇が、ゆっくりと期待の弧を描く。
彼女の脳裏に、あの香りが蘇る。王都を覆う混沌とした霧の中でも、ひときわ異彩を放っていた、あの芳醇でほろ苦い「強欲」の香り。
「……よろしい。それなら、私の荒んだ舌を癒してくれるかもしれませんわ。案内なさい」
その声に安堵の色が戻ったのを敏感に感じ取り、エルネストは深く息を吐いた。
「はっ! ただちに! 王都最大の『ギルフォード商会』にてございます!」
三人が向かったのは、王都の経済をその掌中で転がしていると噂される大商会。
磨き上げられた大理石の床、金糸で彩られたタペストリー。表向きは慈善事業にも熱心で、国王からの信頼も厚いとされるその壮麗なビルは、しかし、アリアの目には異様に映っていた。
「……」
豪華絢爛なロビーで、アリアは立ち止まり、犬のように、くん、と鼻を鳴らした。
(香ばしい『強欲』のビターな香り……これは間違いありませんわ。ですが、おかしいですわね)
ロビーで丁重に(しかし、その瞳の奥ではアリアのみすぼらしい修道服を侮蔑しつつ)頭を下げる、恰幅の良い商会長が目の前にいる。
だが、アリアはその存在など意にも介さず、商会長を素通りし、ビルの壁や大理石の床を睨みつけた。
「どうにも……『腐った果実』のような酸味と、『血』の生臭さが混じっていますわ。それも、ほんの微かですが、執拗に」
アリアは、心底不愉快そうに顔をしかめる。
「せっかくの高級チョコレートの風味を、根底から台無しにしている。**最悪の不協和音**ですわ」
2. 食べられない「食材」と美食家の「批評」
「アリア様? まさか、これも……」
ガレオスが、第四話の悪夢(実食拒否)を思い出して青ざめる。
あの時は「不味いから」という理由で、発生源の青年が半泣きになるまでお説教が続いたのだ。
「当たり前ですわ!」
アリアは、美食家としてのプライドを真正面から傷つけられたかのように叫んだ。
「こんな『雑味』だらけのものを食べろと!? 私の舌を侮辱するにも程があります! 食べられませんわ、このままでは!」
「で、では、どうすれば……」
狼狽するエルネストに、アリアは「仕方がない」とばかりに溜息をつく。
「決まっていますわ。最高の食材(呪い)を味わうためには、まず、不要な『雑味』を取り除く。すなわち、『下ごしらえ(調理)』が必要ですの!」
アリアはそう宣言すると、唖然とする商会長の「こ、こちらへどうぞ応接室へ」という案内を完全に無視し、持っていた杖――辺境の修道院から持ってきた、ただの樫の杖――で床をコンコンと叩きながら、ビルの奥へと進み始めた。
彼女は「食べない」のではない。「美味しく食べる」ために、行動を開始したのだ。
これは、これまでの「偶然、証拠が出てきて解決」という展開ではない。
アリア自身が、呪いの構造を「味」と「香り」で嗅ぎ分け、物理的に解体していく――【美食家の批評】の始まりだった。
「まず、ここ!」
アリアが立ち止まったのは、分厚い石壁に偽装された、一見なんの変哲もない廊下の突き当たりだった。
「この壁の奥から、『カビ』と『埃』の、隠し事をしている湿気た匂いがしますわ。この陰鬱な『カビ臭さ』が、チョコレートの香ばしさを邪魔していますの!」
「お、お客様、そこはただの壁で……」
商会長が慌てて止めようとするが、アリアはエルネストを冷ややかに振り返る。
「エルネスト。貴方の魔術で、この『不味さの蓋』を剥がしなさい!」
「……承知した」
エルネストは、もはやアリアの美食家としての「舌(鑑定眼)」に絶対の信頼を置いていた。
彼が詠唱を紡ぎ、壁に手をかざすと、不可視の魔力が石材の結合を解き、偽装された壁が音もなく崩れ落ちた。
その奥には、厳重に封印された隠し金庫が鎮座し、中には違法な闇取引を記録した「裏帳簿」の束がぎっしりと詰まっていた!
「なっ……!」
商会長の顔から血の気が引く。
「次!」
アリアは休まない。批評は続く。
今度は、ビルの地下倉庫へと続く、厳重に施錠された鉄の扉を杖で指し示す。
「ここですわ。ここからは、あの病院の『自己憐憫』とは違う、もっと直接的な『血の生臭さ』がします。これが、あの『腐った果実』の酸味の正体ですわね! 吐き気がする!」
「アリア様、そ、そこは立ち入り禁止区域で……」
「ガレオス!」
アリアは、呪いの解けた右腕をさする騎士団長を睨む。
「その腕は飾りですの? さっさと、その『生臭さの元凶』をこじ開けなさい! 私の食事がまずくなります!」
「……御意!」
ガレオスは、アリアの指示に「力」で応える。
呪いから解放された彼の剛力が、まるで紙を破るかのように分厚い鉄の扉を蝶番ごと引き剥がした!
ドゴォォン!!
地下の闇から溢れ出したのは、澱んだ空気。
そこには、ギルフォード商会が高利貸しで破産させた人々から巻き上げた「担保」――違法な奴隷証文、借金のカタに奪った土地の権利書、家族の形見……そういった「絶望」の残骸が、山積みになっていた。
「ひ、ひぃぃ……!」
商会長が、その場にへたり込んだ。
3. 【美食家の作法】による「完食」
裏帳簿と違法な証文(生臭さ)。
呪いの「雑味」となっていた「不味さの根源(物理的な証拠)」が、すべて白日の下に晒された。
その瞬間、ギルフォード商会ビル全体に渦巻いていた呪いの「質」が、劇的に変わった。
不快な不協和音が消え、まるで完璧に調律されたオーケストラのように、重厚な一つの「味」へと収斂していく。
「……ああ、これですわ」
アリアは、うっとりと目を閉じた。
雑味が消え、純粋な「悪意」と「強欲」だけが完璧なバランスで調和し、至高の「ビターチョコレート」の香りとなって立ち昇る。
「素晴らしい……。これほどの純度を持った『食材』には、相応の敬意を払わねばなりませんわね」
アリアがそう呟くと、彼女が差し出した右手に、周囲の光の粒子が集束していく。
それは、まるで月光をそのまま固めたかのような、白銀に輝く「デザートスプーン」となって実体化した。
【美食家の作法】。
それは、彼女が「格」の高い呪いを味わい尽くす際の、正装だった。
「な、なんだ、その光は……あ、ああ……」
腰を抜かした商会長が、自分の背後に「何か」がいるかのように怯え始める。
ガレオスやエルネストには見えていない。だが、商会長の背後から、彼の膨れ上がった「強欲」のオーラそのものが、どす黒い霧となってアリアの前に差し出されていた。
アリアは、その黒い霧――影が揺らめくムースのようにも見えるそれ――に向かって、まるで高級ホテルのラウンジで極上のデザートをすくい取るかのように、優雅にスプーンを差し入れた。
そして、すくい上げた「呪いの一口」を、ゆっくりと、慈しむように口に運ぶ。
「……Délicieux (デリシュー)(美味)」
恍惚の吐息が漏れた。
「ほろ苦く、それでいて舌の上でとろけるような濃厚なコク……。破滅へ向かうと知りながら、富を積み上げ続けた人間の『愚かさ』が、最高の隠し味になっていますわ」
アリアがスプーンを口に運ぶたびに、商会長の顔から急速に生気が失われ、老け込んでいく。
彼を肥えさせていた「悪意」そのものが、糧として奪われていくのだ。
ビルを覆っていた重苦しい「霧」も、一口、また一口と、綺麗にアリアの底なしの胃袋へと収まっていった。
4. 共通する「後味」(伏線)
「――ぷはぁ。ごちそうさまでした。素晴らしい口直しでしたわ」
呪いを綺麗に完食し、白銀のスプーンが光の粒子となって消えるのを見届けると、アリアは満足げに腹をさすった。
ガレオスは、山積みの証拠と、抜け殻のようになって気絶した商会長を前に、遅れてきた部下の騎士たちに冷静に指示を出す。
「……商会長を拘束しろ! 地下の証文もすべて押収だ! これだけの証拠があれば言い逃れはできん!」
エルネストは、アリアの奇想天外な「調理法(=謎解き)」と「食事法(=浄化)」を目の当たりにし、改めて戦慄していた。
(彼女は、ただの浄化装置ではない。呪いの構造そのものを『舌』で見抜き、分解し、味わい尽くす……まさしく『美食家』。いや、呪いにとっての『天災』だ)
その時、アリアがふと、不思議そうに首を傾げた。
彼女は、食後の余韻を楽しむように、口元に指を当てている。
「それにしても、エルネスト」
「は、はい」
「先ほどの『スープ(役所の怠慢)』も、今回の『ビターチョコレート(商人の強欲)』も、そしてあの『錆びた鉄(ガレオスの呪い)』も……」
アリアは、言葉を探すように宙を見る。その瞳は、現実の風景ではなく、もっと深い「味の記憶」を反芻していた。
「どこか、**共通する『後味』**が残りますのよね」
「……後味、ですか?」
「ええ。まるで、すべての料理人が、**たった一つの『秘密のレシピ本』**をこっそり見ているかのような……不気味な統一感。……まあ、美味しいから良いのですけれど」
その無邪気な一言に、エルネストだけがハッとして息を呑んだ。
王都のあらゆる呪いの根源。
すべての「レシピ」の元凶。
王家に代々伝わるという、建国の「業」。
そして、この「解呪不能の霧」が発生した本当の理由。
アリアは、その「メインディッシュ」の存在に、無意識のうちに――その鋭すぎる味覚によって――気づき始めていた。
第五話 完




