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(第四話)『食欲不振と不味(まず)い霧』

1. 期待外れの「食材」

「ごちそうさまでした。スープ(怠慢)は上々でしたが、まだ前菜にもなりませんわね」

 内務大臣が国家反逆罪で拘束され、地下書庫から連行されていく騒ぎを背に、アリアは満足げにぺたんこの腹を押さえた。

 地下書庫の呪いを完食したことで、王都を覆う「霧」は、体感できるほどに薄まっている。

「……信じられん」

 騎士団長ガレオスが、呪いの消えた自らの右腕と、晴れ渡った地下書庫を見比べて呻くように漏らす。

 彼はこの数十分で、十年の常識を完全に破壊されていた。

「彼女は……アリア様は、まさに『劇薬』だ。腐敗を根こそぎ喰らい、浄化する。これは聖女か、あるいは……」

「ええ。ですが、劇薬には副作用もつきものです」

 宮廷魔術師長エルネストは、眼鏡の位置を直しながら冷静に指摘した。

 彼の懸念は、すぐに的中することになる。

「さて、エルネスト。次は第二話で馬車から見えた、『商人の強欲』が煮詰まったというビターチョコレート(呪い)をいただきに参りましょう。食後のデザートは別腹ですの」

 アリアはメニュー表を見るように、虚空に漂う匂いを品定めしている。

「……アリア様。確認ですが、貴女は国を救う気など、一切ないのですね?」

「国? そんなもの、美味しいのですか?」

 アリアは心底不思議そうに首を傾げた。

 この美食家にとって、世界の価値基準は「美味しいか、不味いか」の二択でしかない。

「……結構です」

 エルネストは溜息を諦観に変えた。「劇薬」を扱うには、こちらの常識を捨てるしかないと悟ったのだ。

「ですが、次の『食材』は後回しです。より緊急性の高い『腐敗』が発生しました」

 エルネストが示した先は、王宮の裏手に併設された、白亜の巨塔「王立中央病院」だった。

 そこは、王都の霧の中でも、ひときわ異様で、どろりとした空気を放っていた。

2. 美食家、吐き気を催す

 中央病院のロビーに足を踏み入れた瞬間、アリアの顔色が一変した。

「――っ、うぷッ!?」

 アリアは口元を押さえ、その場で膝をついた。

「な……!?」

 エルネストとガレオスがぎょっとする。

 あれほどの呪いの塊(地下書庫)を「スープ」と呼んで恍惚としていた少女が、まるで腐乱死体の前に立ったかのように顔面蒼白になっているのだ。

「……なんて、不快な匂い……!」

 アリアがハンカチで鼻と口を強く覆う。

 病院に漂う霧は、これまでの「怨嗟」や「悪意」といった、アリアにとって「食欲をそそる塩気や旨味」とは全く異質だった。

(焦げ付いた砂糖と、腐った牛乳を混ぜ合わせたような……ねっとりと舌に絡みつく、吐き気を催す『甘さ』……!)

 これが、アリアの旺盛な食欲を、一瞬にして完全に消失させた。

「エルネスト! こんな不味そうな場所に私を連れてくるなんて、どういう了見ですの!? せっかくの食欲が失せましたわ! ここは便所ですの!?」

「ひ、人聞きが悪い! ここも『霧』の被害が最も深刻な場所なのです!」

 慌てて出てきた恰幅の良い病院長の説明によると、ここの患者たちは、霧にあてられて奇妙な症状を呈しているという。

「彼らは……『眠り続ける』のです。ですが、絶望しているわけではない。むしろ、皆、至福の表情で……」

 案内された病室には、何人もの患者がベッドに横たわり、うわ言のように呟いていた。

「ああ、私が犠牲になれば、皆が助かる……」

「私の命など、惜しくない……」

「僕が、代わりになるよ……」

「これは、『自己犠牲の呪い』です」

 エルネストが苦々しく解説する。

「『自らの命を差し出すことで他者を救おう』という、一見すると崇高な願い。それが暴走し、霧と混ざり合い、人々から生きる気力を奪って昏睡させる、最悪の呪いとなっている」

 自己犠牲。美談として語られることの多いその精神。

 だが、アリアの評価は違った。

「……なるほど」

 アリアは、心底嫌そうに顔を歪め、吐き捨てるように言った。

「『自己憐憫(じこりんびん)』と『歪んだ博愛』の煮こごり……。自分に酔っているだけの、安っぽい砂糖菓子ですわね。美食家にとって、これ以上の地雷はありませんわ。不味(まず)すぎる!!」

3. 「食べられない」呪い

「アリア様、どうかこれを」

 エルネストが必死に懇願する。

「不味くとも、食べていただければ……病院の機能が回復するのです!」

「馬鹿を仰い!」

 アリアは激昂した。

「不味いと分かっているものを口にするなど、私の崇高なる『美食道』に反します! 断固お断りですわ!」

 アリアのまさかの「実食拒否ボイコット」。

 これは、ガレオスやエルネストにとって最大の誤算だった。彼女は万能の浄化装置ではなかった。偏食の激しい、ただのわがままな「美食家」だったのだ。

「しかし、それでは解決に……!」

「ああ、もう! うるさいですわね!」

 アリアは、この「不味い匂い」にこれ以上耐えられなかった。

「こんな不快な料理、一刻も早く厨房(ちゅうぼう)ごと撤去しなければ、王都の『フルコース』が台無しになってしまいます!」

 アリアの関心は、患者を救うことではない。

 ただ、「不味い匂いが、これから食べるご馳走の風味を邪魔する」ことだけが許せなかったのだ。

「いいですか、エルネスト。こんな『出来損ないの料理』が自然発生するはずがありません。必ず、近くに腕の悪い『三流料理人(シェフ)』がおりますわ!」

「料理人……? まさか、呪いの発生源が!?」

 アリアは、吐き気をこらえながら「不味い匂い」が最も濃く漂う方向へ、スタスタと歩き出した。

4. 奇想天外な「お説教」

 アリアがハンカチで鼻を押さえながら辿り着いたのは、病院の最奥にある、古い資料室だった。

 そこでは、一人の若い見習い魔術師の青年――シエル――が、複雑な魔法陣の中心で倒れている幼い少女の手を握り、泣きながら魔力を注ぎ続けていた。

「うう……僕の魔力を全部あげるから……! 僕がどうなってもいいから、目を覚ましてよ、リリィ……!」

 彼こそが「不味い霧」の発生源だった。

 不治の病の妹を救いたいという「純粋な願い(博愛)」と、自分の無力さへの「絶望(自己憐憫)」。

 この二つの相反する感情が、彼の制御できない未熟な魔力と混ざり合い、最悪の「不味い呪い」を生み出し、病院全体に撒き散らしていたのだ。

「……見つけましたわ、最低の『料理人』」

「な、誰だ!?」

 シエルが驚いて振り返る。

 ガレオスが即座に剣の柄に手をかける。

「貴様が元凶か!」

「待て! 無理に止めれば魔力が暴走して、妹さんも彼も……!」

 エルネストが制止する。

 だが、アリアはそんな二人の理屈などお構いなしに押し退け、青年の前に仁王立ちした。

 そして、その頬を、ありったけの力で張り飛ばした。

 パァン!!

 乾いた音が、資料室に響き渡った。

「い……っ!?」

「不味いッ!!」

 アリアは、涙目(あまりの不味さに)で叫んだ。

「貴方の料理(呪い)は、不味すぎますッ!!」

「は……? りょ、料理……?」

 頬を押さえたシエルは、何を言われているのか理解できず、目を白黒させる。

「いいですか!」

 アリアはシエルの胸倉を掴み、がくがくと揺さぶる。

「『希望』と『絶望』を、こんな中途半端な分量で混ぜる素人がどこにいますか! おかげで、素材(感情)同士がケンカして、最悪の生臭さ(呪い)になっていますのよ! 砂糖と塩を間違えたケーキのような味ですわ!」

 これは、アリア流の「料理批評(理不尽なお説教)」だった。

「いいこと!? 絶望するなら、もっと完璧に絶望なさい! すべてを呪い、憎み、世界を滅ぼすくらいの、純度100%の『絶望のソース』を作り上げなさい! そうすれば、私が美味しく平らげてあげますわ!」

「え……?」

「それができないなら! こんな『自分もかわいそう』などという不純物マズイものを混ぜるのはおやめなさい! 『希望』なら『希望』だけ! 妹を救うという一点だけに集中なさい! 中途半端が一番、不味いのよッ!!」

 アリアの、常軌を逸した「食」への情熱。

 そのあまりの迫力と怒声に、シエルの中で渦巻いていた「迷い」も「自己憐憫」も、すべて吹き飛んだ。

「……そっか」

 シエルは、呆然と呟いた。

「僕は……救いたいんだ。ただ、それだけでよかったんだ。僕がどうなるとか、僕が無力だとか、そんな『不純物』は……いらなかったんだ……!」

 シエルは目を閉じる。

 そして、再び魔法陣に魔力を注ぎ始めた。

 だが、今度の魔力は違った。

 「不味い」原因だった濁りが消え、純粋な「治癒」と「希望」の魔力だけが妹に注がれていく。

 その瞬間。

 シュワアァ……と音を立てて。

 病院中に立ち込めていた、あの吐き気を催す「不味い霧」が、まるで陽光に溶けるように、スッと消え去っていった。

 呪いが晴れたのだ。

 眠っていた患者たちも、次々と目を覚まし始める。

 ベッドの上の少女も、ゆっくりと目を開けた。

「……お兄、ちゃん?」

「ふぅ……」

 アリアは、ようやくまともな空気が吸えると、深く息をついた。

「……あ、りがとう……ございます……?」

 妹の容態が安定したのを見て、シエルが恐る恐る礼を言う。彼には、自分がなぜ殴られ、なぜ救われたのか、半分も理解できていない。

「礼など不要ですわ。それより、二度とあんな不味いものを作るんじゃありませんわよ! 次はフライパン(物理)で殴りますからね!」

 アリアは忌々しげに言い放つと、ポカンとしているエルネストとガレオスに向き直った。

 二人は、あまりの解決方法(暴力と料理指導)に言葉を失っている。

「まったく。とんだ時間の無駄遣いでしたわ。お腹が空きすぎて、イライラします」

 アリアは、すっかり冷え切った食欲を思い出し、不機嫌に言い放つ。

「さて、エルネスト。口直しが必要ですわ。

さっさと、あの『ビターチョコレート(商人の強欲)』を案内なさい! 今すぐ、甘くて苦い、最高級のデザートが必要ですの!」

 こうしてアリアは、「食べない」ことによって、一つの呪いを(不機嫌ながらも)解決したのだった。

 その背中を見送りながら、ガレオスはぽつりと呟いた。

「……やはり、規格外だ」


第四話 完


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