(第三話)『スープは怠慢の味』
1. 腐敗の匂いと宮廷魔術師長
「こちらへ。国王陛下が謁見の間にてお待ちです」
「……結構ですわ」
アリアは、王宮の長い廊下でピタリと足を止めた。
案内役の宮廷魔術師長エルネストが、銀縁眼鏡の奥の目を丸くして振り返る。
「……何ですと?」
「ご挨拶など、食事が終わってからで十分ですわ。それより、先ほどからどうにも『マズそうな匂い』が漂ってきますの」
アリアは、鼻をくん、と鳴らし、廊下の先にある装飾過多な重厚な扉を睨みつけた。
扉の向こうからは、男たちの品のない怒鳴り声が微かに漏れ聞こえている。
「あそこは霧の対策会議室だ。国政を預かる大臣や貴族たちの聖域であり、貴女のような者が立ち入る場所では……」
「いいえ、立ち入ります。だって、食事の前に不快な生ゴミの匂いを嗅がされるのは、美食家として耐え難い屈辱ですもの!」
エルネストの制止も聞かず、アリアは衛兵が守る扉を勝手に押し開けた。
バンッ!
広い円卓の会議室。
そこでは、豪奢な服を着た貴族たちが、顔を真っ赤にして醜く言い争っていた。
「だいたい、宮廷魔術師団が不甲斐ないからだ! 霧ごとき祓えんとは!」
「何を! 財務省が予算を削減し、必要な触媒を買えなかったせいであろうが!」
「それより、あの忌み子を連れてきた騎士団長の責任問題が先決だ! もし霧が晴れなければ、誰が責任を取るのだ!」
国の存亡がかかった危機を前に、彼らが行っていたのは「霧」の対策ではなく、自己保身のための責任の押し付け合いだった。
アリアはその光景を見て、露骨に顔をしかめる。
(……うっ。なんて生臭くて、脂っこい匂い)
彼ら自身の毛穴から放たれる「自己保身」「嫉妬」「怠慢」といった負の感情が、澱んだヘドロのような呪いとなって部屋に充満している。
アリアにとって、それは真夏に放置された腐った魚の内臓を、鼻先に突きつけられているような不快感だった。
「……ご覧の通りです」
後から入ってきたエルネストが、諦観と軽蔑を含んだ声で呟いた。
「『霧』の発生源の一部は、間違いなく彼ら自身の心の闇だ。彼らの浄化も、いずれ貴女にしていただくことになるかもしれない。だが、その前に」
エルネストは、今にも「不味い!」と叫び出しそうなアリアの腕を掴み、会議室から強引に引きずり出す。
「まずは、貴女が『ゴミ溜め』と呼んだ場所へご案内しよう。そこには、貴女の好む『とびきりの悪臭』が漂っているはずですので」
2. 「ゴミ溜め」と「発酵したスープ」
エルネストがアリアを連れてきたのは、王宮の地下深く、埃とカビの匂いが充満する広大な書庫だった。
だが、そこに山のように積まれているのは書物ではない。
床から天井まで、うず高く積まれ、放置された羊皮紙の束。すべて、国民から王宮に寄せられた「陳情書」だった。
「これは……」
「『王都の霧が濃くて作物が育たない』『隣町からの支援が途絶えた』『疫病が出たが薬がない』……すべて、ここ数ヶ月の間に届いた、民からの助けを求める悲痛な声だ」
エルネストの、普段は冷静な青白い顔が、怒りで僅かに歪む。
「だが、内務大臣とその配下たちは、これらを『処理が面倒』『予算がない』という理由で、すべてここに廃棄した。これが、貴女が言った『役人の怠慢』の正体だ」
ここは、見捨てられた民の希望の墓場。
アリアが以前にも感じた、「役人の怠慢が発酵した、酸っぱい匂いのスープ」の発生源そのものだった。
だが、アリアの反応はエルネストの予想を裏切った。
彼女は、ゴクリと生唾を飲み込んだのだ。
彼女の目には、埃っぽい書庫など映っていない。
(……ああ、なんてこと!)
そこに見えるのは、見捨てられた無数の「絶望」と「怨嗟」が、長い時間をかけて煮詰まり、凝縮され、地下の冷気で熟成された――**極上の「古漬けスープ」**だった。
(この酸味! 新鮮な絶望には出せない、発酵食品特有の深いコク!)
(表面に浮いているのは、「諦め」という名のオイル……!)
「……素晴らしい。なんという芳醇な熟成香でしょう……」
アリアが恍惚と呟いた、その時。
「貴様らか! この神聖なる保管庫で騒ぎ立てる不届き者は!」
恰幅の良い禿頭の男が、数人の役人を引き連れて現れた。
胸元の派手な徽章は、彼がこの国の内務大臣であることを示している。
内務大臣は、アリアの質素な灰色の修道服を見ると、あからさまな侮蔑の笑みを浮かべた。
「ほう。エルネスト殿、これが噂の『忌み子』か。ふん、こんな『ゴミ溜め』がお似合いですな、ワッハッハ!」
3. 奇想天外な「お掃除」
ピキリ、と空気が凍りついた。
次の瞬間、アリアの纏う空気が一変した。
それまでの恍惚とした蕩けるような表情が消え、絶対零度の怒りがその瞳に宿る。
「……今、何と仰いました?」
アリアの低い声に、内務大臣の笑いが引きつる。
「ん? 『ゴミ溜め』だと……」
「違いますわ!!」
アリアの鋭い声が、地下書庫に雷鳴のように響き渡った。
「これほどまでに手間暇かけて熟成させ、民の怨嗟という極上のスパイスを効かせた『至高のスープ』を! 埃まみれで放置するだけでなく、あろうことか『ゴミ溜め』と呼びましたわね!?」
「な、なんだ貴様は……気でも狂ったか!?」
「美食家に対する、最大の冒涜ですわッ!!」
アリアは叫ぶと、羊皮紙の山に向かって両手を広げた。
「謝罪は結構! もはや一刻の猶予もありません! これ以上、貴方のような無粋な人間の呼気で、この素晴らしい『スープ』の風味が損なわれるのは耐えられない!」
そして、アリアは高らかに宣言した。
「――いただきますわ!」
アリアが、すぅーーーーーっ、と大きく息を吸い込む。
内務大臣や役人たちには、何も見えない。
だが、魔術師長であるエルネストの目には、その異常な光景がはっきりと見えていた。
山積みの陳情書から立ち昇っていた、どす黒く、強烈な酸っぱい匂いを放つ呪いのオーラが、巨大な奔流となってアリアの小さな口元に吸い込まれていくのを。
それはまるで、見えざる巨大な龍が、湖を干上がらせる勢いでスープを啜るかのようだった。
「ズズズズズズ……ッ!」
アリアは、目を閉じて恍惚とした表情で「スープ」を味わい尽くす。
(ああ、この強烈な酸味! 見捨てられた農民の絶望!)
(ピリリと舌を刺すこの辛味は、病で子を失った親の呪詛!)
(なんて複雑で、喉が焼けるほどに奥深い味わいなの……!)
数分後。
地下書庫に充満していた呪いのオーラは、一滴残らずアリアの腹に収まった。
彼女は、満足げにハンカチで口元を拭う。
「……ぷはぁ。ごちそうさまでした。少々酸味が強すぎましたが、素晴らしい熟成でしたわ」
4. 意図せぬ「証拠」の回収
アリアが「完食」したことで、地下書庫を覆っていた淀んだ空気は完全に消え去った。
まるで、濃霧が晴れた後の高原のように、埃っぽい空気が澄み渡る。
呪いの瘴気にあてられ、判断力が鈍っていた役人たちの目から、濁った光が消え、正気が戻ってくる。
「あれ……我々は、なぜこんな場所に……」
「そうだ、大臣! 貴方は我々に、これらの陳情書を破棄するよう……!」
「それに、隣国からの支援物資を横流しする指示も……!」
部下たちの突然の告発に、内務大臣は顔面蒼白になる。
彼らの口封じをしていた「共犯意識という名の呪い」までもが、アリアに吸い尽くされてしまったのだ。
「だ、黙れ! 貴様ら、何を口走っている! こいつらこそが不法侵入者だ! 衛兵! この忌み子と魔術師を捕らえ……」
「それはどうかな」
静かな、しかし有無を言わせぬ威圧的な声と共に地下書庫の入り口に現れたのは、第二話でアリアに呪いを「美味しく」解かれた騎士団長ガレオスだった。
彼の手には、一冊の分厚い黒革の帳簿が握られている。
「……今、呪いの霧が晴れた瞬間に、これが書庫の棚から落ちてきた」
ガレオスが帳簿を開くと、そこには内務大臣が特定の商人から賄賂を受け取り、意図的に特定の地域の陳情書を握りつぶしていたという、動かぬ証拠が詳細に記されていた。
これまでは、濃厚な呪いのオーラが、この「不正の証拠」を隠蔽していたのだ。
「ひっ……!」
「内務大臣。王命により、貴様を国家反逆罪の容疑で拘束する」
ガレオスの、呪いの消えた右腕が、力強く大臣の肩を掴んだ。骨が軋む音が響く。
「ま、待て! これは誤解だ! 私は……!」
見苦しい言い訳は、連行される足音と共にかき消されていった。
こうして、王都の腐敗の一つが、アリアの「つまみ食い」によって意図せず浄化された。
アリアの「美食」によって、王都を覆っていた「霧」が、ほんの少しだけ――しかし確実に薄くなったことに、まだ誰も気づいていない。
「ふぅ……」
アリアは、大臣の断末魔のような叫び声など気にも留めず、満足げな溜息をつくと、呆然としているエルネストに向き直った。
「さて、魔術師長。スープはいただきましたわ」
「……」
エルネストは戦慄していた。
彼女は、ただ食欲に従ったように見せて、一瞬にして内務大臣の悪事を暴き、組織を浄化してみせたのだ。
これが偶然なわけがない。
彼女は、全てを見通しているのではないか――?
そんなエルネストの「勘違い」など露知らず、アリアは無邪気に次のオーダーを告げる。
「次は、もっと歯応えのある『メインディッシュ』をお願いしますわね?」
エルネストは、この恐るべき、そして頼もしい「劇薬」を前に、深く敬意を表して頭を下げることしかできなかった。
「……御意のままに、アリア様」
第三話 完




