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(第二十一話)『帝都の裏路地と合成獣キメラの残飯』

1.鉄の都の陰影

 荒野を支配していた鉄の(アイアン・ドラゴン)を文字通り「完食」し、物理的な沈黙を与えたアリア一行。それから半日、彼らは自らの足で歩き続け、ようやく帝都ガレリアの外縁部に辿り着いていた。

「……最悪ですわ」

 アリアは、(すす)と油で汚れたドレスの裾を忌々しげに払いながら、目の前に広がる光景を睨みつけた。

 遠方から望む帝都は、天を衝く摩天楼が林立し、蒸気機関から吐き出される白煙が雲を成す、鋼鉄の威容を誇っていた。まさに文明の頂点、人類の勝利の証。

 だが、彼らが今立っている「裏口」――スラム街へと続く通用門周辺は、その華やかさとは対極にある、世界の掃き溜めのような場所だった。

 空は工場の排煙で鉛色に濁り、太陽光を遮断している。地面は未処理の廃油と生活排水でぬかるみ、一歩進むたびに靴底がねっとりと吸い付くような不快感を伝えてくる。

 そして何より、アリアの鋭敏な感覚を苛むのは、その臭気だ。鼻を突く錆びた鉄の臭いと、有機物が腐敗した甘酸っぱい悪臭が混ざり合い、鼻腔の奥にへばりつく。

「足元にお気をつけください、アリア様」

 ガレオスが油断なく周囲を警戒しながら、アリアの手を取って泥濘(ぬかるみ)をエスコートする。彼の顔にも、隠しきれない嫌悪の色が浮かんでいた。

「正規のルートであれば、舗装された大通りを通れたのですが……装甲列車を止めてしまった以上、検問を避けるにはここを通るしかありません」

「ええ、分かっていますわ。『つまみ食い』の代償というわけね」

 アリアは不機嫌さを隠そうともせず、レースのハンカチで口元を覆った。

 長旅による肉体的な疲労よりも、彼女の繊細な感覚器を苛む環境の方が深刻な問題だった。

(視覚、聴覚、嗅覚……その全てが『不快』と訴えていますの。まるで、質の悪い調味料をぶちまけた上に掃除もしていない、三流以下の厨房の床を歩いている気分だわ)

「……妙ですね」

 後方で魔力探知を行っていたエルネストが、眼鏡の位置を直しながら眉をひそめた。彼は手元の魔導書と周囲の数値を照らし合わせ、首を傾げている。

「このエリア、大気中の魔力マナ濃度が極端に低い。いえ、それどころか……通常、人が集まる場所ならば必ず存在するはずの『精神活動』から発せられる微弱なオーラすら、ほとんど感じられません」

「オーラがない?」

「ええ。まるで、ここは無人の廃墟であるかのように、生命の気配が希薄なんです」

2.搾りカスと化した人々

 エルネストの言葉の意味は、スラム街の奥へと進むにつれて、残酷な形で明らかになった。

 崩れかけた赤レンガの集合住宅。配管が剥き出しになり、蒸気が漏れ出すその軒先や薄暗い路地裏に、人々が座り込んでいた。

 ボロ布を纏った老人、頬がこけた男、虚ろな目をした女、そして泥にまみれた子供。

 だが、その誰もが――。

「…………」

 動かない。喋らない。

 華やかなドレスを着たアリアたちが通りかかっても、視線すら動かさない。

 ただ、生ゴミが散乱する道端に、ゴミの一部のように同化してそこに「在る」だけだった。

「……彼らは、生きているのか?」

 ガレオスが、あまりの生気のなさに絶句する。戦場で多くの死を見てきた彼でさえ、この「生きながら死んでいる」光景には戦慄を覚えたようだ。

 アリアは立ち止まり、一人の男を見下ろした。

 男の手には、以前セクター9で見たものと同じ、「幸福配給」の空きカップが握りしめられていた。指の関節が白くなるほど強く、だがその手は震えていない。

 アリアの真紅の瞳――「鑑定眼(舌)」が、男の状態を冷徹に分析する。

「……生きてはいますわ。呼吸も、心臓の鼓動もありますもの」

 アリアの声は低く、そして冷たかった。

「ですが、『中身』がありません」

(ああ……これは酷い)

 アリアの胸中に、冷たい怒りの炎が灯る。それは正義感ではない。食材に対する冒涜への怒りだ。

 男からは、人間が本来持つはずの「絶望(酸味)」も、「悲哀(塩気)」も、「怒り(辛味)」も感じられない。

 そこにあるのは、完璧な「空虚」。

 味がしない、のではない。味を感じ、生み出すための「舌」そのものを引っこ抜かれたような状態だ。

「彼らは、『搾りカス(出汁殻)』ですわ」

 アリアが静かに、しかし断定的に告げる。

「帝国の『工場』で、労働力として、あるいは『感情の原材料』として利用され尽くし……。その対価として、安っぽい『合成幸福ドラッグ』を与えられ続けた末路。もう、自分自身の感情を生み出す力すら残っていない、『空っぽの容器』ですわ」

「なんてことだ……。これが、帝国の繁栄の裏側か」

 エルネストが拳を握りしめる。

 王国での「王家の業(自然の呪い)」による苦しみとは違う。これは、人間が人間を「資源」として消費し、尊厳を計画的に奪うシステムだ。その悪意の構造化に、学究の徒として吐き気を催しているのだ。

 だが、アリアの怒りのベクトルは、二人とは少し違っていた。

 彼女は、究極の美食家として、この状況を許せなかったのだ。

「許せませんわ」

 アリアの日傘が、地面をカツンと叩く。

「食材(人間)をここまで徹底的に使い潰して、旨味もコクも全て奪い去り、最後はゴミのように廃棄するなんて……。料理人として、最低の『無作法』です! 素材への敬意が微塵も感じられません!」

3.ゴミ山からの咆哮(ほうこう)

 アリアの美食家としての矜持が傷つけられた、その時だった。

 スラムの最深部、都市から排出される産業廃棄物が山積みになった巨大なゴミ処理場の方角から、空気を震わせ、耳をつんざくような咆哮が響き渡った。

「グギィィィィィン!! ア゛ァ゛ァ゛ァ゛……!」

 それは獣の声ではない。金属が擦れる不快な高音と、複数の人間が同時に絶望の悲鳴を上げているような、不協和音の塊だった。

「なんだ!? 魔獣か!?」

 ガレオスが反射的に大剣を抜き放ち、アリアの前に立つ。

「行きましょう。あの不愉快な音の元へ」

 アリアは躊躇なく歩き出す。三人が駆けつけた先――ゴミ山の頂上に、その「怪物」は鎮座していた。

「……うぇっ」

 アリアは、その姿を見た瞬間、本日二度目の嘔吐(えず)きを漏らした。

 ハンカチを口に押し当て、眉間に深い皺を寄せる。

 それは、王国の森で狩った「瘴気獣」よりも遥かに醜悪で、生理的な嫌悪を催す存在だった。

 廃棄された蒸気機関のピストン、錆びた鉄骨、切断された銅線。それらが、スラムの人々から漏れ出したであろう、ドロドロとした黒い粘液――「感情の残滓ヘドロ」によって、無秩序に接着され、融合していた。

 ねじ切れた複数の腕が蠢き、溶解した顔のような模様が浮かぶ胴体が脈動する。

 それは、帝国の廃棄物から生まれた**「合成獣(キメラ)」**だった。

「オ、オエェ……クルシィ……タスケ……ニゲタイ……」

 合成獣の体のあちこちに埋まったスピーカーのような部品から、複数のうめき声がノイズ混じりに聞こえてくる。

「分析完了!」

 エルネストが叫ぶ。彼の瞳には、解析魔法の幾何学模様が浮かんでいた。

「こいつは、このスラムに廃棄された『行き場のない感情のゴミ』が、化学廃棄物の触媒効果で強制的に融合したものです! 『恐怖』と『執着』と『自己嫌悪』が、何の秩序もなく、ただ腐敗しながら混ざり合っている!」

4.美食家の激怒と三人の調理場

 アリアは、目の前の「生ゴミの集合体」を睨みつけた。

 彼女の鼻腔を、腐った卵と焦げたプラスチックを混ぜて煮詰めたような、強烈な化学臭が襲う。

(不味い! 見ただけで分かる、この世の終わりのような不味さですわ!)

(素材の組み合わせも最悪、鮮度も最悪、調理法(融合)もデタラメ! これは料理ではありません。ただの『嘔吐物』です!)

 アリアにとって、悪感情や呪いは「スパイス」や「食材」だ。だが、それはあくまで「生きた感情」の話。このように腐り落ち、ただ混ざっただけの廃棄物は、食欲の対象外だった。

「アリア様! いかがなさいますか!? これも『召し上がる』ので!?」

 ガレオスが、迫りくる合成獣の触手を剣の腹で弾きながら問う。彼の表情には「まさかこれを?」という恐怖が張り付いている。

「馬鹿をおっしゃい! あんな汚物、口に入れたらお腹を壊しますわ!」

 アリアは激昂し、汚れるのも構わず日傘を地面に突き刺した。

「ああもう、腹立たしい! 帝国の料理人(宰相)は、ゴミの分別もできないのですか!? こんな『食べられないゴミ』を客の通る道に放置するなんて、衛生観念を疑いますわ!」

 アリアは、二人の従者に振り返り、ビシりと指を差して命令を下した。

「ガレオス! エルネスト! 予定変更です。『食事』ではありません。これは『廃棄作業』ですわ!」

「廃棄、ですか?」

「ええ! 私がこんなものを食べるのは(しゃく)に障りますし、プライドが許しません。ですから、貴方たちが『調理(解体)』なさい! 私の視界から速やかに消去してちょうだい!」

 アリアの無茶振りに、しかし二人のプロフェッショナルは即座に応えた。主が「食べない」と決めたのなら、彼らがやるべきことは一つだ。

「……承知した。アリア様が食べられないというのなら、俺が斬って捨てるまで!」

 ガレオスが剣を構え直す。その剣筋から迷いが消え、純粋な闘気が立ち昇る。

「エルネスト殿! あのデタラメな融合を、魔術で引き剥がせますか! 物理攻撃だけでは、あのヘドロが衝撃を吸収してしまう!」

「ええ、お任せを! 『構造解析』と『分離』は、私の専門分野です!」

 エルネストが両手を広げ、複雑な術式を展開する。彼の指先が指揮者のように空を切り、合成獣の構造図を空中に描き出す。

「対象の魔力結合定数を改竄……結合を強制解除(ディスペル)! 分離(セパレート)せよ!」

 バチバチバチッ!

 エルネストの放った青白い閃光が、合成獣の体を構成する「感情のヘドロ」と「機械部品」の結合部に干渉し、接着剤を溶かすように強制的に引き剥がしにかかる。

「ギ、ギギガァァァァ!?」

 合成獣が、自らの体がバラバラになる感覚に混乱し、苦し紛れに暴れ回る。だが、その動きが鈍り、中心にあるドス黒い核が露出した隙を、王国最強の騎士は見逃さなかった。

「ハァッ!」

 ガレオスの剛剣が一閃。

 風を切り裂く轟音と共に、エルネストが魔術で露出させた「核(もっとも濃い執着の塊)」を、物理的に両断した。

5.解体新書——「不味い」の証明

 ドササァァッ……ガシャン、ガラガラ……。

 核を失った合成獣は、断末魔を上げることもなく、瞬く間に元の「ただのゴミの山」へと崩れ落ちた。

 鉄くずと瓦礫が散乱し、その間を縫うように、分離されたドロドロの「感情の残滓」だけが黒い染みとして残った。

「……ふん、手間をかけさせましたわね」

 アリアは、崩れたゴミ山に近づき、再びハンカチで鼻を覆いながら、残った「感情の残滓」を鑑定した。

「……やっぱり、不味いですわ」

 アリアは吐き捨てるように言った。

「『搾りカス』から出たゴミですもの。味が薄くて、エグみしかない。出汁を取った後の茶葉を噛んでいるような気分ですわ」

 言いながらも、アリアは嫌々といった手つきで片手をかざす。

 彼女の掌に小さな渦が生まれ、その場に残った「不味い残滓」を、掃除機のように吸い込んでいく。

「アリア様……?」

「……これからの活動エネルギーくらいにはなりますわ。美味しくはないけれど、カロリーは補給しておかなければなりませんもの」

 不味いレーションを無理やり流し込む兵士のような顔で、アリアは全ての残滓を吸い尽くした。

 ゴミ山が消滅し、少しだけ空気が澄んだスラムの一角で、アリアは顔を上げる。

 その視線の先にあるのは、スラムの空を切り裂くようにそびえ立つ、帝都の中心、最も巨大な摩天楼――宰相府。

「……見つけましたわよ、この悪趣味な工場のオーナーさん」

 アリアの深紅の瞳が、獲物を狙う猛禽類のような、冷徹で鋭い光を帯びる。

「貴方の『厨房(帝都)』は、ゴキブリ(合成獣)が湧くほど不衛生で、食材(国民)の管理もずさんなようですわね」

 アリアはニヤリと、凶悪かつ優雅な笑みを浮かべた。

「――保健所の査察(ガサいれ)の時間ですわ。覚悟なさい」


第二章 第二十話 完


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