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(第二話)『前菜は錆びた鉄の味』

1. 揺れる美食家

 王都へ向かう馬車の中は、アリアにとって二重の意味で地獄だった。

 一つは、物理的な揺れ。

 生まれてこの方、石の塔から一歩も出たことのなかった箱入り(幽閉)娘にとって、未舗装の街道を爆走する馬車の振動は、三半規管に対する暴力そのものだ。

 そして、もう一つの理由――むしろこちらの方が深刻だ。

「……」

 アリアは、顔色を悪くして口元を押さえながら、向かいの席に座る男をじっと見つめた。

 騎士団長ガレオス。

 彼は腕を組み、猛禽類のような鋭い視線で、一秒たりとも油断なくアリアを監視し続けている。

(……近いですわ)

 物理的な距離ではない。あの「匂い」の距離が、だ。

 第一話で出会った瞬間から感じていた、あの食欲をそそる「古くて錆びた鉄の味」。

 密閉された狭い馬車の中では、その芳醇な香りが充満し、否応なくアリアの鼻腔をくすぐり続けている。

(お腹が空きすぎて、目眩がします……胃袋が裏返りそうですわ)

 王都で待っているという「フルコース」を想像して耐えてきたが、目の前に極上の「前菜アペリティフ」がぶら下がっている状況は、極限の空腹状態にある美食家アリアにとって、もはや拷問に等しかった。

 つい、視線が彼の右腕に吸い寄せられる。

「……何だ、さっきからジロジロと」

 ガレオスが、低い声で威嚇するように唸った。

 彼は無意識に、右腕を左手で庇うような仕草を見せる。

「貴様がどれほどの力を持つか知らんが、王都で妙な真似をすれば、この俺が斬る。覚えておけ」

(斬る……ああ、だからこんなにも鉄の匂いがするのね)

 アリアには、はっきりと見えていた。

 ガレオスの屈強な右腕に、まるで枯れた茨のように、どす黒い(もや)が何重にも巻き付いているのが。

 それは彼が長年抱き続け、熟成させてきた「呪い」だ。

2. 騎士団長の「呪い」とアリアの「試食」

 ガレオス・ヴァン・ハルフォード。

 王国最強と謳われる騎士団長である彼は、ある一つの呪いに十年もの間、蝕まれ続けていた。

 十年前、彼がまだ若き小隊長だった頃の防衛戦。

 撤退する民を守るため、彼は「一歩も引かぬ」と誓いを立て、押し寄せる魔物の群れを殿しんがりとして食い止めた。

 彼は民を守り切った。だがその代償に、右腕の神経を断絶される重傷を負い――そして、共に戦った部下たちを全員、目の前で失った。

 死にゆく仲間たちの『なぜ、隊長だけが生き残るのですか』という無念の幻聴。

 そして彼自身の『俺だけが生き残ってしまった』という、強すぎる自責のサバイバーズ・ギルト

 それらが複雑に混ざり合い、彼の右腕に「守護者の(かせ)」という名の呪いとなってこびりついた。

 その呪いは、彼から右腕の自由を奪い、夜ごと焼けるような激痛と悪夢を与え、そして「守る」と誓った対象から彼を遠ざける――皮肉にも家族とすら疎遠になる――という、陰湿極まりないものだった。

 聖教会の高位神官ですら匙を投げた、魂に食い込む絶対の呪い。

 だが、アリアの認識は違った。

(……表面はカリッと香ばしい『焦燥感』。中身はジューシーな『後悔』の塊。そしてソースは、十年寝かせた『怨嗟』の赤ワイン煮込み……)

 アリアはゴクリ、と喉を鳴らす。

 理性が、焼き切れる音がした。

 ガタンッ!!

 馬車がわだちに嵌り、ひときわ大きく跳ねた。

 その瞬間、アリアのタガが外れた。

「……っ!?」

 ガレオスが目を見開く。

 目の前の少女が、信じられない速さで身を乗り出し、彼の右腕――黒い靄が渦巻く呪いの中心――を、両手で優しく包み込んだからだ。

「貴様、何を……離せッ!」

 ガレオスが腕を引こうとするより早く、アリアは目を閉じ、恍惚とした表情で唇を寄せた。

「……いただきます」

 アリアが、すぅ、と息を吸い込む。

 ただそれだけ。物理的な接触は手だけだ。

 だが、ガレオスは確かに感じた。

 十年もの間、鉛のように重く、灼熱のように痛んだ右腕の芯から、何かがズルズルと「引き抜かれていく」感覚を。

「ん……っ、ふぅ……」

 アリアは、触れた手のひらから呪いを「吸い上げ」、それを口の中で転がすように吟味する。

(ああ、この強烈な塩気! これは涙の味……「守れなかった後悔」ですわね!)

(そしてこの鉄錆のような鼻に抜ける風味は、間違いなく戦場に流された「血の記憶」……!)

(複雑で、重厚で、それでいてどこか悲しい……素晴らしいアペリティフ(食前酒)ですわ!)

 修道院の乾いたビスケット(数百年前の薄い呪い)とは比べ物にならない。

 これは、生きた人間の、生々しい感情が煮詰まったスープだ。

 数秒後。

 アリアが満足げに、「ぷはっ」と息を吐いて手を離すと、ガレオスの右腕に巻き付いていた黒い靄は、跡形もなく消え去っていた。

「ごちそうさまでした。少々塩辛かったですけれど、空腹の胃には染み渡るコクでしたわ」

「……は?」

 ガレオスは、自分の右腕を呆然と見下ろす。

 動かないはずだった指が、ぴくり、と動いた。

 いや、動くだけではない。

(……痛みが、ない?)

 この十年、片時も忘れたことのなかった灼熱の痛みが、嘘のように消えている。

 毎晩枕元に立っていた亡霊たちの気配も、悪夢の原因だった魂の重石も、きれいに平らげられている。

 ガレオスは、恐る恐る右手の拳を握り、そして、開いた。

 グッ、と力強い握力が戻っている。

「な……ぜ……。私の腕は、枢機卿ですら『神の罰だ』と諦めたものだぞ……それを、一瞬で……?」

 ガレオスの目から、自然と涙が溢れた。

 武人としての矜持も忘れ、彼は震える右腕を左手で抱きしめる。

 それは、「奇跡」としか呼びようのない光景だった。

 しかし、奇跡の体現者は、ハンカチで口元を拭いながら不満げに呟く。

「あら、泣くほど悔しかったんですの? でも、もう貴方には『美味しいもの(呪い)』は残っておりませんわ。出し・・には興味ありませんの」

 スカッとしたのは、アリアの空腹だった。

 ガレオスの十年来の悲願は、少女の「小腹満たし」として消費されたのだ。

 ガレオスは、目の前の少女を――「呪い喰らい」を、もはや人間ではない、何か神聖で、かつ恐ろしい「上位存在」を見るような、畏怖に満ちた目で見つめることしかできなかった。

3. 霧の都のフルコース

 馬車の中が、崇拝にも似た気まずい沈黙に包まれたまま、一行はついに王都の城門をくぐった。

「……これは」

 ガレオスの声が震える。

 そこにあるのは、かつての栄華を誇った王都ではない。

 太陽の光を遮るほど分厚い、粘着質な灰色の「霧」が、街全体を飲み込んでいた。

「ゲホッ、ゲホッ……!」

「ああ、誰か……お水をお恵みください……」

「霧が……また濃くなってる……」

 人々は地面にうずくまり、咳き込み、その顔には深い絶望が刻まれている。

 建物は活力を失い、街路樹は枯れ果て、まるで街全体がゆっくりと腐り落ちていく死体のようだった。

 あまりの惨状に、同行していた若い騎士が顔を青くして息を呑む。

 ガレオスもまた、アリアに呪いを解かれた右腕を強く握りしめ、苦渋の表情で霧を睨んだ。

「酷い……これほど進行していたとは……」

 だが、アリアだけが違った。

(……すごい)

 彼女は、まるで予約のとれない三ツ星レストランに案内された美食家のように、馬車の窓に顔をへばりつかせていた。

 彼女の目には、灰色の霧など映っていない。

 そこに見えるのは、無数の「食材」が混ざり合った、巨大な「寄せ鍋」だった。

(あそこ! あそこの大通りに漂っているのは、「商人の強欲」が煮詰まったビターチョコレート!)

(あちらの広場は、「役人の怠慢」が発酵した、酸っぱい匂いのチーズスープ!)

(裏路地から香るのは、「貧困と妬み」の激辛スパイス!)

(そして、あの王宮の方角から匂う、一際どす黒くて濃厚な香りは……ああ、間違いありませんわ)

 アリアは、とろりとした視線で王宮を見上げる。

(あれがメインディッシュ……!)

「……素晴らしい。素晴らしいですわ、王都!」

 この世の終わりのような光景の中で、ただ一人、歓喜に打ち震える少女。

 ガレオスは、自分がとんでもない「厄災」を――あるいは「暴食の化身」を王都に連れてきてしまったのではないかと、背筋が凍るのを感じた。

 馬車は、重苦しい空気に包まれた王宮に到着する。

 アリアたちを待ち受けていたのは、神経質そうな銀縁眼鏡をかけた、冷徹な目をした男だった。

「お待ちしておりました、『呪い喰らい』のアリア様」

 宮廷魔術師長、ロイド。

 彼はアリアを値踏みするように冷ややかな視線で見下ろし、霧に覆われた王宮を指差した。

「貴女が『最後の希望』か、あるいは『最悪の劇薬』か……まあどちらでも構いません。早速ですが、貴女にはこの穢れた『ゴミ溜め』を掃除していただきます」

 その言葉を、アリアは遮った。

 彼女は、人生で最も輝かしい、聖女のような笑顔を魔術師長に向ける。

「前置きは結構ですわ、眼鏡の方」

「……何ですと?」

「『掃除』? いいえ、違います」

 アリアはナプキンを広げるように、優雅に両手を広げた。

「早く、私をあの『フルコース』の席へ案内なさい! もう我慢の限界なのです!」

 国を救う気など一欠片もない。

 ただ、腹ペコの美食家は、目の前の「ご馳走」に目を輝かせていた。


第二話 完


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