(第十九話)『配給された幸福と味覚のレジスタンス』
1. プラスチックの街と缶詰の笑顔
国境の検問所を「完食(物理的な沈黙)」させて突破したアリアたちが辿り着いたのは、帝国の地方都市「セクター9」だった。
馬車の窓から見える景色は、アリアが知る王国のそれとは決定的に異なっていた。
石と木で作られた温かみのある家々はなく、あるのは鉄骨とコンクリート、そして曇ったガラスで構成された無機質な直方体ばかり。空は工場の排煙で常に薄暗く、道路は定規で引いたように幾何学的に整備されている。
「……気味が悪いですな」
御者台のガレオスが、周囲を油断なく警戒しながら低く唸る。
「街行く人々を見てください。誰も彼も、妙に『楽しそう』だ」
すれ違う市民たちは、皆、油と煤にまみれた作業着を着て、過酷な肉体労働に従事しているはずだった。
だというのに、その顔には一様に、貼り付けたような穏やかな笑みが浮かんでいる。不満の声一つ上がらず、ただ機械の歯車のように黙々と働き、笑っている。
「ええ。まるでショーウィンドウのマネキンですわ」
アリアは馬車の窓から、その「笑顔」を冷ややかに鑑定した。
彼女の鋭敏な嗅覚が捉えるのは、人間が発する自然な感情の香りではない。
「あの方たちから漂うのは、自然な『幸福(甘み)』ではありませんわ。
脳を麻痺させる、安っぽい『合成甘味料』の匂いです」
アリアは不快そうに鼻にしわを寄せた。
「不満、怒り、悲しみ……そういった『雑味(人間らしさ)』を、強力な薬剤でコーティングして隠蔽している。
……ああ、胸焼けがしますわ。ここは街全体が、巨大な『砂糖漬けの保存食』なのですわね」
「保存食、ですか?」
向かいの席で、エルネストが魔道具の針を見つめながら眉をひそめる。
「確かに……この街の空気中には、微弱ですが広範囲に『精神感応波』が満ちています。特定の感情を抑制し、勤労意欲を強制する『呪い』の一種です。どうやら、発信源は街の中央にある、あの塔のようですが」
エルネストが指差した先には、蒸気を噴き上げる巨大な給水塔のような施設が、街を見下ろすようにそびえ立っていた。
「なるほど。あそこが『厨房』か、あるいは『配膳台』か。
……不味い料理を出す店には、早急にご挨拶に行きませんとね」
アリアは不敵に笑うと、馬車を降り、その塔の足元にある広場へと向かった。
2. 「幸福」の配給
広場には、数百人の市民が整然と列をなしていた。
彼らの手には金属製の無骨なカップが握られ、配給係の機械兵から、ドロリとした蛍光ピンク色の液体を注がれている。
「市民諸君! 今日も勤労に感謝を!」
塔のスピーカーから、ノイズ混じりの音声が響く。
「皇帝陛下より賜りし『ハピネス・スープ』だ! これを飲めば、疲れは消え、心は満たされ、明日への活力が湧いてくる!」
市民たちは、それをありがたそうに受け取り、一気に飲み干していく。
すると、彼らの瞳からわずかに残っていた理性の光がスッと消え、陶酔したような笑顔がさらに深く、濃くなった。
「……うぇ」
アリアは、その光景を見て露骨に嘔吐いた。
ハンカチで口元を押さえ、涙目で訴える。
「なんという悪食……! あんな『着色料まみれのピンク色の汚泥』をスープと呼ぶなんて、料理への冒涜ですわ!」
「貴様ら、何者だ!」
列を乱すアリアたちに気づき、現場監督らしき白衣の男が、数体の機械兵を引き連れて近づいてきた。
胸元には『衛生管理局』のバッジ。この街の感情(味)を管理する、三流シェフの一人だ。
「配給の時間だぞ。貴様らもカップを持て。それとも、反逆分子か?」
「お断りしますわ」
アリアは日傘をくるりと回し、白衣の男を扇子で扇ぐように、優雅に追い払う仕草をした。
「私、添加物だらけのジャンクフードは嫌いではありませんが……
貴方の作るそれは、味が『単調』すぎますの。
『満足感』しか味がしない料理なんて、離乳食以下の手抜き料理ですわよ」
3. 味覚のレジスタンス(抵抗)
「……離乳食だと?」
白衣の男の眉がピクリと動く。痛いところを突かれた顔だ。
「これは帝国科学の粋を集めた完全栄養食だ! 不要な『葛藤』や『苦悩』を取り除き、純粋な『幸福』のみを摂取させる。これこそが最も効率的で、最も慈悲深い統治だ!」
「効率? 慈悲?」
アリアは呆れてため息をついた。
やはり、この国の料理人は何も分かっていない。
「やっぱり、味音痴ですわね。
いいですか? 甘いケーキが美味しいのは、コーヒーの苦味があるからです。
休息が心地よいのは、労働の疲れがあるからです。
『不味いもの(苦痛)』があるからこそ、『美味しいもの(幸福)』が引き立つのですわ!」
アリアは一歩踏み出し、男を指差す。
「貴方のやっていることは、料理ではありません。ただの『味覚の去勢』です!」
「黙れ! 不純分子め、排除する!」
男が指を鳴らすと、機械兵たちが一斉に銃口を向け、さらに周囲の市民たちまでもが、うつろな笑顔のまま、アリアたちを包囲し始めた。
「見ろ! 彼らは幸せなのだ! 貴様のような異物が混入することを望んでいない!」
「アリア様、囲まれました! 一般市民に手を出すわけには……!」
ガレオスが剣を構えつつ、苦渋の表情を浮かべる。
だが、アリアは一切動じることなく、不敵な笑みを深めただけだった。
「幸せ? いいえ、違いますわ。
彼らはただ、貴方の『不味いスープ』のせいで、舌が麻痺しているだけ。
本当は……お腹が空いて、たまらないはずですわ」
アリアは、包囲網など意に介さず、巨大な配給タンクに近づくと、その蛇口の下に手を差し出した。
そして、流れ落ちるピンク色の液体を、指先でひとすくいし、ペロリと舐めた。
「……んっ、まっず……!」
顔をしかめ、身震いするアリア。
「強烈な『虚無』の甘さ。舌が溶けそうですわ。
……ですが、これなら『分離』できますわね」
4. 激辛の真実
「【調理開始】!」
アリアが叫ぶと同時に、彼女の手のひらから「捕食」の魔力が逆流し、巨大な配給タンクへと吸い込まれていった。
ゴボゴボゴボッ!!
タンクの中のピンク色の液体が、一瞬にしてドス黒く変色し、マグマのように沸騰し始める。
「な、何をした!?」
「簡単なことですわ。『味付け』を変えましたの」
アリアはハンカチで口を拭いながら解説する。
「このスープに含まれていた『麻痺成分(人工的な幸福)』だけを、私が美味しく(不味いけど)頂きました。
そうしたら、後に残るのは何だと思います?」
アリアがニヤリと笑う。
パリンッ!
タンクが内側から破裂した。
中から溢れ出したのは、もはやスープではない。
黒い霧――市民たちが長年、薬漬けにされて心の奥底に押し込めていた、凝縮された『不満』『怒り』『疲労』の塊だった。
「そ、それは……『天然の呪い』!?」
「ええ。貴方が隠蔽していた『本当の食材』ですわ!」
黒い霧が広場を包み込む。
それを吸い込んだ市民たちの表情が、劇的に変化した。
貼り付けたような笑顔が剥がれ落ち、代わりに、人間らしい形相――苦悶、怒り、そして生気が戻ってくる。
「……ふざけるな! 俺はもう限界だ!」
「毎日毎日、休みなしで働かせて!」
「不味いスープなんかいらない! 俺たちに、まともな飯を食わせろ!」
暴動が発生した。
それは「幸福」という名の麻酔から覚めた人々による、正当な「感情の爆発」だった。
市民たちは機械兵に石を投げ、白衣の男に詰め寄る。
「ひ、ひぃぃ! 私の管理システムが! 感情数値が暴走している!?」
男はパニックに陥り、逃げ出した。
「あーあ。台無しですわね」
アリアは、混乱する広場を満足げに見下ろした。
そこにはもう、作り物の笑顔はない。あるのは、生きるための必死な叫びだけだ。
「でも、あの『怒鳴り声』のほうが、さっきの『気味の悪い沈黙』より、よっぽど『人間らしい味』がしますわ」
「……アリア様」
エルネストが、呆れたように、しかし感心して呟く。
「貴女は、彼らを救ったのですか? それとも、単に『味変』をしたかっただけですか?」
「愚問ですわね」
アリアは、暴動の熱気を「スパイス」として深呼吸し、答えた。
「私は美食家。素材の味を殺す『過剰な味付け』が許せなかった。それだけのことですわ」
5. 黒幕へのメッセージ
混乱するセクター9を後にし、再び馬車を走らせる一行。
アリアは、車窓から見える黒煙を見上げながら、さらに奥に控える帝都を睨んだ。
「……聞こえましたか、ガレオス」
「はい。逃げたあの男が、捨て台詞を吐いていましたな」
『宰相閣下のレシピを汚すとは!』と。
「宰相……。あの国境で感じた『腐ったプラスチック』の親玉ですわね」
アリアの舌が、ピリリと疼く。
今回のスープは、あくまで「末端の配給品」に過ぎない。
本丸には、もっと巨大で、もっと悪趣味な「合成食品」が待ち受けているはずだ。
「行きましょう。
この国の料理長に、本当の『料理』というものを教えて差し上げませんと」
鋼鉄の帝国の片隅で上がった、小さな「味覚の反乱」。
それは、やがて帝国全土を巻き込む、「食」と「感情」を巡る大戦争の狼煙となるのだった。
第二章 第十九話 完




