(第十五話)『厨房(キッチン)のオーケストラと一番出汁(だし)の儀式』
1. 料理長のタクト
「さあ、
――私たちの、『最後の晩餐』の、本当の始まりですわ!」
アリアの、グランシェフとしての宣言が、玉座の真下の「厨房(地下聖堂)」に響き渡る。
あの「孤独なシェフ(王家の業)」から厨房の全権を明け渡された彼女は、今やこの「貯蔵庫」の絶対的な支配者となっていた。
(ああ、これですわ。この感覚……!)
アリアは目を閉じ、全身の感覚を研ぎ澄ませる。龍脈を通じて、王都のあらゆる「味(感情)」が彼女の「舌」に流れ込んでくる。
(塔にいた頃の私が渇望していた、この混沌! この豊潤なまでの『味』! これこそが『美食』!)
今、アリアの目の前には、最高の「厨房(龍脈の支配権)」と、最高の「食材」が揃っている。
* お客様:『石化した心臓(孤独なシェフ)』
* 調理器具:ガレオス(剣)とエルネスト(魔術)
* 原材料:『貯蔵庫』の『歓喜(甘み)』と『怒り(辛味)』
* 原材料:王都の『怠慢(脂身)』
* 一番出汁(ソースベース):『国王(父)』の『解凍された哀しみ』
* 究極のスパイス(デザート):『母』の『愛(Umami)』の結晶
アリアは、厨房の支配者となって手に入れた「権能」を、初めて本気で行使した。
彼女が手をかざすと、地下聖堂の空間そのものが、彼女の「調理台」として変質していく。
龍脈の光は「コンロ」の青い炎のように揺らめき、霊廟の入り口にあった祭壇が、光り輝く「調理台」へと姿を変えた。
「ガレオス! エルネスト!」
アリアの声は、もはや塔にいた頃の少女のものではない。無数のオーケストラを率いる指揮者の厳かさを帯びていた。
「はっ!」
「御意!」
二人の「調理器具」が、緊張した面持ちでアリアの指示を待つ。
(アリア様が、本気だ……)
(我々は、今、この国の『歴史』そのものを調理しようとしている……!)
「まず、前菜の『スープ』と『ポワソン』!
エルネスト、貴方には『貯蔵庫』から『歓喜』と『怒り』の『原材料』を、**最も純粋な形で『蒸留』**してもらいますわ!」
2. 魔術師の「蒸留」
「蒸留、ですか!?」
エルネストは、アリアの奇想天外な「調理法」に驚愕する。
「ええ」
アリアは、貯蔵庫に渦巻く、何百年分もの「歓喜」のオーラを指差す。
「あの『歓喜』は、そのままでは『甘み』が強すぎます。欲望や狂気といった『不純物』が多すぎる。
貴方の『魔術(知性)』で、その『アク』を完璧に取り除き、純粋な『歓喜のエッセンス(甘み)』だけを抽出しなさい!」
「……なんと。やってみせましょう!」
エルネストの魔術師としての探究心に、火がついた。
(これは魔術ではない、まさしく「錬金術」! 概念そのものを「精製」する!
彼女は、私の「知性」を、「調理器具」として完璧に理解している!)
彼は「調理器具」としての己の役割を理解し、龍脈から溢れ出す「歓喜(呪い)」の奔流の前に立つ。
彼の魔術回路が、複雑な術式を展開し、巨大な「濾過装置」のように機能する。
呪いのオーラが術式を通過するたび、「狂気」の濁りが消え、「欲望」の澱みが取り除かれていく。
「次は『怒り(辛味)』よ!
これも、『憎悪』という『焦げ付き』が酷すぎる! 『ポワソン(魚料理)』のソースにするには、**純粋な『情熱』としての『辛味』**だけが必要ですわ!」
エルネストの額に汗が浮かぶ。だが、その目は歓喜に満ちていた。
「承知した、グランシェフ! これほどの『調理』……魔術師冥利に尽きる!」
やがて、エルネストが「蒸留」した純粋な『甘み』と『辛味』が、アリアの前に置かれた「魔力の皿」に、太陽のような黄金色のエッセンスと、ルビーのような紅蓮色のソースとなって満たされていく。
3. 騎士の「解体」
「次! ガレオス!」
「はっ!」
「貴方には『ヴィアンド(肉料理)』を仕上げてもらいます!」
アリアは、王都全域の龍脈にアクセスし、先ほど「後回し」にした「腐敗貴族たちの『怠慢(脂身)』」のオーラを、地下聖堂に「強制転移」させた!
ズズズ……ン!
目の前に、黒く、脂ぎった「呪いの塊」が、巨大な「肉塊」のように出現する。
それは、かつて旧市街区で調理した「失敗作(瘴気獣)」とは違う、ただひたすらに「不味そう」な「脂身」だった。
「ひるむな、ガレオス! この『肉』は、そのままでは『不味くて』食べられません!」
アリアが「肉塊」を指差す。
「あの中心に見える、『自己保身の『スジ(硬い部分)』』と、
『他者への無関心という『腐敗』』!
貴方の『剣』で、それらを完璧に『解体(切り分け)』し、『叩き(下ごしらえ)』なさい!」
「……御意!」
(俺の剣が……『調理器具』……)
ガレオスは、自らの錆びた呪いを解いてくれた少女の、常軌を逸した、しかし絶対的な信頼に応えるため、迷いを断ち切った。
(俺の剣は、呪いを斬るためでも、人を斬るためでもない!
アリア様の「美食」のためにこそあったのだ!)
彼は「聖剣」や「魔剣」ではない、ただひたすらに鍛え上げられた「王国最強の剣(包丁)」を抜き放つ。
「おおおおおッ!」
ガレオスの剣が、呪いそのものを「物理的」に切り裂く。
それは、かつて「無味な聖堂騎士」を斬った「魂の剣」だった。
剣閃が走るたび、概念的な「スジ」が断ち切られ、不浄な「腐敗」が削ぎ落とされていく。
やがて、黒い「脂身」は、すべての「不味さ」を失い、純粋な『怠惰(極上の霜降り肉)』――悪意のない、ただ「何もしない」という純粋なエネルギーの塊――となって、静かにそこにあった。
「……見事ですわ、ガレオス。最高の『火入れ』ができる状態です」
アリアは、二人の「スー・シェフ」の仕事に、満足げに頷いた。
4. 国王の「儀式」
前菜と、主菜の「下ごしらえ」は終わった。
残るは、すべての味をまとめる「ソース」と、最後の「デザート」。
アリアは、霊廟の入り口で、涙を流しながらも「王」としての威厳を取り戻そうとしている父、アウレリウスに向き直った。
「さて、父君」
「……アリア」
国王は、先ほど「解凍」されて以来、初めて「父親」としての戸惑いの「味」を滲ませていた。
(イザベラ……君の遺した「レシピ」は、あまりに……あまりに苛烈だ……)
「貴方の『出番』ですわ。
エルネストとガレオスが、素晴らしい『食材』を用意してくれました。
ですが、これだけでは『料理』になりません。
この全ての『食材』の味をまとめ上げ、あの『お客様(石化した心臓)』の『飢え』を癒すための、『一番出汁(旨味)』が足りませんのよ」
国王は、先ほど霊廟で読んだ、妻イザベラの最後の手紙を思い出す。
(『哀しみ』は『一番出汁』。それをアリアに託して)
「……どうすればいい」
国王が、初めて「王命」ではなく、「問いかけ」をした。
「簡単ですわ」
アリアは、光り輝く調理台(祭壇)の中心を指差す。
「そこに、貴方の『哀しみ(出汁)』を、すべて注ぎなさい」
「……注ぐ、だと?」
「ええ。貴方が十年以上、『氷』で凍らせていた、母を失った『哀しみ』、『後悔』、『孤独』……
その『極上の塩気』を、一滴残らず、あの『お客様』のために捧げるのです。
貴方が『王』としてではなく、『一人の人間(食材)』として、あの『孤独なシェフ』の『飢え』に共感するのですわ」
国王アウレリウスは、目を閉じた。
王の責務(氷)を捨て、ただの男として、妻を失ったあの日の「哀しみ」に、再び向き合う。
(イザベラ……私は、お前を守れなかった。そして、この娘を、十年も「無味」な塔に……!)
彼が流した「涙(一番出汁)」が、祭壇に滴り落ちる。
その瞬間、ガレオスが解体した『怠惰(肉)』と、エルネストが蒸留した『歓喜(甘み)』『怒り(辛味)』全てが、その『出汁(旨味)』に包まれ、
ジュワァァァ……!
と、調理台の上で、黄金色の『コンソメ・ロワイヤル(王のスープ)』へと昇華されていった!
5. 「お客様」の目覚め
その時だった。
ドクンッ!!!!
地下聖堂の「お客様」――『石化した心臓(孤独なシェフ)』が、これまでにないほど強く、激しく脈打った。
それは、旧市街区で感じた「焦げ付き(失敗作)」の匂いではない。
それは、聖教会が放っていた「無味(虚無)」でもない。
それは、アリアという「本物の美食家」が、「本物の調理器具」と「本物の食材」を使って作り上げた、
何百年もの間、彼がずっと「食べたかった」と渇望していた、
**『本物の料理』の「香り」**だった。
「石化した心臓」の表面に、閉じていた「まぶた」のような亀裂が、ゆっくりと、ゆっくりと開き始める。
「飢え」と「孤独」しかなかった「厨房」に、ついに「お客様」が、目覚めたのだ。
「……ふふ」
アリアは、その光景に、美食家として最高の笑みを浮かべた。
「エルネスト! ガレオス!
『お客様』が、**『アペタイザー(前菜)』**の香りで、ようやくお目覚めになりましたわ!
急いで! 『デザート』の仕上げにかかりますわよ!」
アリアは、先ほど霊廟で手に入れた、母イザベラの『愛(Umami)』の結晶を、誇らしげに掲げた。
第十五話 完




