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(第十二話)『氷菓(ひょうか)の王と開かない扉』

1. 厨房(キッチン)の支配者、あるいは料理長(グランシェフ)の視点

 玉座の真下、王都の「龍脈」が血管のように脈打つ、巨大な地下聖堂。

 アリア・フォン・イシュベリアは、今や「孤独なシェフ(王家の業)」から厨房(キッチン)の全権を明け渡され、この「貯蔵庫(パントリー)」の絶対的な支配者――料理長(グランシェフ)となっていた。

 彼女が脈打つ「石化した心臓」にそっと手を触れると、アリアの「感覚」は地下から地脈を伝って、瞬く間に王都全域に広がっていく。

(……ああ、これですわ。これ)

 それは、もはや単に「匂いを嗅ぐ」レベルではない。

 王都の民、一人ひとりの感情の「味」――今、誰が「嫉妬(苦味)」し、誰が「歓喜(甘み)」し、誰が「絶望(酸味)」しているか――そのすべてが、彼女の「舌(鑑定眼)」の上にリアルタイムで流れ込んでくる。

 無数の感情(スパイス)が、彼女の脳内で完璧な交響曲(シンフォニー)を奏でる。

 灰色の塔で「虚無(無味)」に飢え、壁のシミを数えて過ごしていた彼女にとって、これこそが「生きている」という実感だった。

「アリア様……」

 ガレオスとエルネストは、アリアが放つ、神々しいとさえ言えるオーラ(龍脈と完全にリンクした証)に、息を呑んでいた。

 彼女は、もはや「呪い喰らい」の忌み子ではない。この地の「(ことわり)」そのものを掌握した、人ならざる何者かに見えた。

「アリア様、これで……!」

 エルネストが、興奮に声を高ぶらせる。

「これで、王都の腐敗を一掃できます! 聖教会(害獣)の残党や、汚職貴族たちが隠し持っている『呪い』の溜まり場を、貴女の『権能』で特定し、一気に『浄化』すれば……!」

「左様。財務省か、あるいは内務省か。どこから『調理(粛清)』されますか?」

 ガレオスも、アリアの「大掃除」の「最初の一品」に期待を込める。

 読者もまた、ここでのカタルシスある「ざまぁ」展開を期待する場面だ。

(汚職貴族……? ああ、第五話の『ビターチョコレート(強欲)』や、第三話の『腐ったスープ(怠慢)』の残党のことですわね)

 アリアは、二人の期待を、心底から呆れた、という冷ややかな一瞥(いちべつ)で切り捨てた。

「……愚か者」

「「え?」」

「何を勘違いしていますの、貴方たち。

 『一掃』? 『浄化』?

 馬鹿も休み休み言いなさい」

 アリアは、二人の「スー・シェフ(調理補助)」に、グランシェフとして最初の「教育」を施した。

「『厨房』の大掃除とは、食材(呪い)を『捨てる』ことではありませんわ。

 正しく『仕分け』し、『保存(熟成)』させ、最高の『一品』に昇華させることでしょう!」

(『浄化』などしてしまったら、『無味』になってしまうではありませんか。そんな『不味い』ことを、この(わたくし)がするとでも?)

 二人は、アリアの言葉の真意が理解できない。

 アリアの目的は、王都を「浄化(無味)」にすることなど、毛頭なかった。

 彼女の目的は、この王都を、彼女の「原点(第八話)」である「無味なる虚無」とは対極の、

 **世界で最も『味が濃く』、最も『美食』に満ちた、『最高のレストラン(呪いの都)』**に作り替えることだったのだ。

2. 料理長(グランシェフ)の「拒否」と「開かない扉」

「ふん。まあ、貴方たち『調理器具』に、私の高尚な『美食道』を理解しろという方が酷ですわね」

 アリアは、「厨房」の支配権を行使し、王都全域の「味」の鑑定を瞬時に終えた。

(貴族街の『傲慢(脂身)』は、第七話でやったようにスラムの『絶望(酸味)』を少しふりかけるだけで、勝手に自滅(ダイエット)を始めていますわ。

 商業区の『強欲ビター』も、第五話で頭(商会長)を潰したせいで、今は『恐怖(苦味)』が勝っている。

 ……ふむ。どれもこれも、今は『食べ頃』ではありませんわね)

 アリアは、期待に満ちた二人の「正義の味方」としての提案を、一蹴した。

「そんな『残り物(貴族たち)』の掃除など、後回しですわ。勝手に怯えさせて、美味しく熟成させておきなさい」

「なっ!? では、聖教会の残党(害獣)は……」

「あれは『無味』です。食べられません。ガレオス、貴方の『騎士団』という名の『調理器具』で、物理的に『廃棄(逮捕)』しておきなさい」

「は……はぁ……」

 ガレオスは、自分が「掃除係」に任命されたことを、複雑な表情で受け止めた。

 だが、アリアの関心はすでに別の場所にあった。

「それよりも……」

 アリアは、地下聖堂の、さらに奥を睨んでいた。

 彼女の「支配権」が、王都全域を掌握したはずなのに、たった一つだけ、「霧」がかかったように認識できない場所があった。

(……おかしいですわ。『孤独なシェフ(石化した心臓)』は、私に『厨房』を明け渡したはず。

 なのに、この『貯蔵庫(パントリー)』の奥に、まだ『開かない扉』がある……)

 そこは、「石化した心臓」が、アリア自身に「資格」を問うている領域。

 王家(イシュベリア家)の血族、その中でも「過去(呪い)」を直視する覚悟のある者しか入れない、本当の「聖域」。

 ――王家の『プライベート・キッチン(霊廟)』。

 第十話で語られた、彼女の母イザベラが眠る場所。

(この扉……(わたくし)の『力(支配権)』を拒絶している? いいえ……何かが『足りない』……)

3. 「氷」と「無味」の王

 アリアが、その「開かない扉」の存在に気づき、不快げに眉をひそめた、その時。

 ――コツ。

 地下聖堂の入り口(第十話でオスカーがいた場所)から、たった一つの、しかし、王宮全体を震わせるような重い足音が響いた。

 聖教会(無味)ではない。近衛騎士(氷)でもない。

 漆黒の霧(王家の業)が、その人物の通行を「許可」している。

 現れたのは、威厳に満ちた壮年の男。

 豪奢(ごうしゃ)な装束をまとってはいるが、その顔は、まるで精巧な仮面のように一切の感情を映していない。

 この国の「国王」。

 そして、アリアを「忌み子」として塔に幽閉した張本人、「父」。

 その人物が放つオーラを鑑定し、アリアは、第九話で「不味い(偽善)」を口にした時とは別の意味で、顔をしかめた。

(……なんだ、これは)

 読者エルネストたちの予想は、彼が「妻を失った『哀しみ(塩)』」を放っているというものだった。

 だが、違った。

(『塩』の匂いがしない……? いいえ、違う! 『匂い』はする!)

 アリアの「舌」は、そのオーラの奥底に、この王都の「貯蔵庫」にあるどの結晶よりも純粋で、強烈な「塩気(哀しみ)」が、膨大な量で存在することを感知していた。

 だが、その表面は。

(……『氷』だわ。第十話のオスカー(氷の箸)と同じ、「王としての責務」という名の分厚い「氷」。

 そして……第八話の聖教会(司教)と同じ、「感情の完全な放棄」という名の「無味(虚無)」!)

 国王は、霧に拘束されたオスカーを一瞥(いちべつ)し、次に「石化した心臓」に触れるアリアを見て、第十話のオスカーのような「罪人」を見る目ではなく、ただ、一つの「自然現象」を観察するように、静かに告げた。

「……アリア。

 貴様が、イザベラの『呪い』を喰らったのか」

 その声には、怒りも、悲しみも、何一つ「味」がなかった。

4. 奇想天外な「最優先事項」

 アリアの美食家としての「舌」が、警鐘を鳴らす。

(不味い!)

(この男、聖教会の司教以上に『不味い』!)

(あの『害獣(司教)』は、まだ『偽善』という『味』があった!

 でも、この男は……! 自分の『哀しみ(塩)』という極上の『食材』を、『王の責務』という『氷』で自ら凍らせ、『無味(虚無)』という最悪の『料理』に成り果てている!)

 アリアの「美食道(第八話)」は、「無味」こそを最大の敵とする。

 だが、同時に彼女の「舌」は、その分厚い「氷」の奥底に、探し求めていた「極上の塩(哀しみ)」が、膨大な量でカチカチに冷凍保存されていることも感じ取っていた。

(……ああ、そうか。

 あの『開かない扉(霊廟)』が開かないわけだわ。

 鍵は『イシュベリアの血』。

 でも、(わたくし)の『血(母の呪いを喰らった者)』だけでは足りない。

 扉を開けるには、もう一つ。

 『(イザベラ)に呪いをかけた者』――この男の『血(=感情の解放)』が、必要なのね)

 ガレオスが、アリアと国王の間に緊張して割って入る。

「陛下! アリア様は国を……」

「下がりなさい、ガレオス」

 アリアは、ガレオスを手で制した。

 彼女は、腐敗貴族(残り物)にも、聖教会の残党(害獣)にも、もはや一切の興味を失っていた。

 彼女の目の前には、

* この世で最も「不味い」料理(無味なる王)

* この世で最も「食べたい」食材(極上の塩)

* 「開かない扉(霊廟)」の「鍵」

 そのすべてが、この「国王」という一人の人間に集約されている。

 読者の予想(スカッと世直し)は、ここで完全に裏切られた。

 アリアは、王都の支配権を得て最初に行う「最優先事項」を、決定した。

 アリアは、国王(父)を、まるで解体を待つ「冷凍マグロ」を値踏みする料理人の目で、頭の先から爪先まで、じっくりと鑑定した。

 その「氷」の厚さ、「無味」の深さ、そしてその奥に眠る「塩」の極上さを。

「ガレオス、エルネスト。

 『厨房』の大掃除は、予定変更ですわ」

「は? では、何を……」

「決まっていますわ」

 アリアは、国王(父)に向かって、第十話の母への「リクエスト」に応えた時と同じ、完璧な淑女の笑みを浮かべた。

 それは、最高の料理人が、人生で最も「不味く」、しかし最も「調理し甲斐のある」食材に出会った、挑戦者の笑みだった。

「さあ、父君(パパ)

 まずは、貴方という『最悪に不味い氷菓(ひょうか)(無味)』を、

 この(わたくし)の『厨房』で、じっくりと『解凍(調理)』して差し上げますわ!」


第十二話 完


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