(第一話)『呪い喰らいと王都のフルコース』
1. 灰色の美食家
「……お腹が空きましたわ」
埃っぽい石の塔の最上階。窓枠に頬杖をついたアリアは、眼下に広がる灰色の修道院と、それを外界から隔絶するように囲む霧深い森を眺め、本日七回目になる溜息をついた。
アリア・フォン・イシュベリア。
王国の名を冠しているが、その実態は「呪われた忌み子」として、物心ついた時からこの辺境の「灰色の修道院」の塔に幽閉されている囚人だ。
ギギ、と錆びた蝶番が悲鳴を上げ、鉄の扉が開く。
現れたのは、無表情な初老の修道女だ。手には銀の盆を持っているが、そこから漂う匂いにアリアの眉がわずかに寄る。
「アリア様、お食事です」
「……ありがとう、シスター」
盆の上にあるのは、いつも通りの固く黒ずんだパンと、具のない薄い豆のスープ。
アリアは木匙を手に取り、スープを一口だけすする。
舌の上に広がるのは、薄い塩味と、泥水のような青臭さ。そして何より、圧倒的な「虚無」の味だ。
「……美味しくない」
アリアがぽつりと漏らすと、修道女は「贅沢を」と咎めるでもなく、ただ哀れむような、それでいてどこか恐れるような目を向けた。
「……アリア様。貴女様が『美味しい』と感じるものは、我ら神に仕える身にとっては『猛毒』なのですから。どうか、その魔性を抑えてくださいませ」
「分かっていますわ。ええ、嫌というほど」
アリアは木匙をカランと置き、スープを押しやった。
彼女の空腹は、物理的な食事が満たしてくれるものではない。
アリアの特異体質――『呪い喰らい』。
彼女には、この世界に淀むあらゆるネガティブな概念が、「食べ物」として見え、その芳醇な「匂い」を感じ、そして「味わう」ことができる。
人々の嫉妬、悪意、怨嗟、不運。それらが凝り固まって実体化した「呪い」。
それこそが、アリアにとっての唯一無二の「美食」だった。
(ああ、最後にまともな食事をしたのはいつだったかしら……)
三年前、新人修道女が隠し持っていた「実家の没落への嘆き」。あれは少し湿気たクラッカーのような味だったが、今の飢餓状態のアリアにとっては御馳走の記憶だ。
だが、聖教会の強力な結界下にあるこの修道院は、皮肉なほどに清浄すぎた。
シスターたちの抱く感情は、信仰による「諦観」か、アリアへの「憐憫」ばかり。そこには、噛みごたえのある呪いなど育ちようがない。
(こんな味気ない場所で、私はいずれ餓死してしまいますわ……干からびた野菜のように)
幽閉されているにもかかわらず、彼女の肌が雪のように白く、髪が夜空のように艶やかなのは、稀に大気から滲み出る微量な瘴気を糧にしているからに過ぎない。
だが、それももう限界だった。
胃袋が、魂が、濃厚な「悪意」を求めて悲鳴を上げている。
2. 錆びた鉄の味
その日の午後、静寂に包まれた灰色の修道院が、にわかに騒がしくなった。
階下から、修道院長の甲高い制止の声と、それを踏みにじるような男たちの怒声が響いてくる。
「勅命だと!? 馬鹿も休み休み言いなさい! あの方を王都へ? あの『呪い喰らい』を人前に出すなど、正気の沙汰では……!」
「黙れ、老女! これは王命である! 国難を前に、貴様ら聖教会の体面など知ったことか!」
ガシャ、ガシャ、と重く規則正しい金属音が、石の階段を一段飛ばしに上がってくる。
アリアが退屈そうに顔を上げると同時、部屋の古びた扉が荒々しく蹴破られた。
ドォン!!
「貴様が『呪い喰らい』のアリアか!」
舞い上がる土煙の中に立っていたのは、王都騎士団の制服に身を包んだ男たち。
先頭に立つ男は、一際大柄だった。顔の左半分には古傷が走り、眼光は猛禽類のように鋭い。歴戦の騎士団長だろう。
彼らは、塔の上に幽閉された化け物、という想像とはかけ離れたアリアの姿を見て、一瞬たじろいだ。
質素な灰色の修道服を着ているにもかかわらず、その美貌は薄暗い部屋の中で発光しているかのように妖艶だったからだ。
だが、アリアの関心は、彼らの無礼な振る舞いにも、物珍しい訪問者にもなかった。
彼女は、くん、と小さく鼻を鳴らす。
(……匂う)
騎士たちが放つ強烈な「匂い」が、アリアの空腹で萎んだ胃を一気に鷲掴みにする。
後ろに控える若い騎士から漂うのは、「長旅の疲労」と「未知への不安」。アリアの舌には「ピリピリと舌を刺す、乾燥した黒胡椒」のような味として感じられる。
別の騎士が抱く「アリアへの恐怖」は、「酸っぱく濁ったピクルス」の味だ。
(どちらも前菜にもなりませんわ。刺激ばかりでコクがない。でも……)
アリアの視線が、ゆっくりと吸い寄せられる。
先頭に立つ、騎士団長の右腕へ。
この男が放つ匂いは、他の雑兵たちとは明らかに「格」が違った。
(……ああ、なんて芳ばしい。古くて、重くて、そしてとても複雑な熟成香)
アリアの目には見えていた。
騎士団長の右腕に、黒く、ドロドロとしたタールのような「何か」が、血管のように脈打ちながら巻き付いているのが。
(まるで、血と錆にまみれた古い鉄を、十年煮込んだような……濃厚な『呪い』)
それは、彼が今抱いている一時の感情ではない。もっと根深い、彼の魂にこびりつき、肉体と同化してしまった「過去の因縁」。
アリアは無意識に、カサついた唇を舌で湿らせた。
今すぐにでも飛びついて、その腕にかぶりつきたい衝動を、理性の皮一枚で抑え込む。
「……とても、美味しそうな方」
アリアの漏らした言葉は、吐息のように甘く、しかし底知れぬ飢餓感を含んでいた。
「……何だと?」
騎士団長が眉をひそめ、無意識に右腕を庇うように引いた。彼には「不気味な女の戯言」に聞こえたようだが、本能的な悪寒を感じ取ったのだ。
3. 解呪不能のフルコース
騎士団長は自身の悪寒を振り払うように咳払いを一つすると、懐から王家の紋章が入った羊皮紙を広げた。
「アリア・フォン・イシュベリアに告ぐ! 国王陛下の御名において、貴様に王都への同行を命じる!」
アリアは椅子に座ったまま、興味なさそうに足元の影を見つめて問い返す。
「幽閉先が塔の上から王宮の地下牢に変わるだけですの? それでしたらお断りですわ。ここなら少なくとも、静寂という調味料がありますもの」
「黙って聞け! 我が儘を言える立場か!」
騎士団長が吼える。その怒りでさえ、アリアには「焦げたトースト」のような香ばしさにしか感じられない。
「今、王都は未曽有の危機にある! 三ヶ月前から発生した『解呪不能の霧』が王都全域を覆い、人々は病み、作物は枯れ、魔物は活性化している!」
「……霧?」
アリアの目が、わずかに動いた。
「そうだ! 宮廷魔術師団のあらゆる浄化魔法も、聖教会の奇跡も一切通用せん! 原因不明、対処不能。このままでは王国は一月もたずに滅びる! そこで陛下は、最後の手段として……貴様の『呪い喰らい』の体質に目を付けられたのだ!」
国の、最後の希望。
あるいは、毒をもって毒を制す、破れかぶれの劇薬。
そう熱弁する騎士団長の悲痛な叫びは、しかし、アリアの耳には全く別の意味を持って届いていた。
(王都を、覆う、霧……)
(魔術師も、聖教会も、手が出せない……)
アリアの脳内で、情報が「メニュー」へと変換されていく。
解呪できないほどの霧。それはつまり、自然現象ではない。
何人もの、何千もの、いや何万もの人々の、悪意や絶望が凝り固まって、複雑に絡み合い、熟成された――
アリアの喉が、ゴクリと大きく鳴った。
空腹で目眩がする。視界がチカチカと明滅する。
(それはきっと、私が今まで口にしたことのない……伝説級の食材)
(辺境の乾いたビスケットなんかじゃない)
(腐敗した貴族の「悪意」という名の脂身たっぷりの肉!)
(民衆の「怨嗟」という名の、とろりと濃厚なソース!)
(王国の歴史という「業」が隠し味の……)
(……極上の、フルコースに違いありませんわ!!)
アリアは、幽閉されてから初めて、心の底からの歓喜に打ち震えた。
カタン、と椅子から立ち上がる。
その瞬間、騎士たちは見た。
それまで無気力な人形のようだった少女の瞳が、金色の獣のような爛々とした光を宿し、その白磁の頬が喜色に紅潮する様を。
それは「救国の聖女」の顔ではない。「獲物を見つけた捕食者」の顔だった。
アリアは、スカートの裾をつまみ、目の前の「前菜(騎士団長)」に向かって、修道女が誰にも教えなかった完璧で優雅な淑女の礼をとって見せた。
「結構ですわ。喜んで参りましょう、王都へ」
そして、アリアは花が綻ぶように、とろけるような笑顔を見せた。
騎士団長が、その美しさと禍々しさに息を呑む。
「――だって、ちょうど『お食事』の時間だと……お腹を空かせていたところですもの」
その笑顔は、どんな呪いよりも恐ろしく、そして甘美だった。
アリアの視線は、もはや騎士団長の顔を見ていない。
そのじっとりと熱を帯びた瞳は、彼のおいしそうな右腕と、その向こうにある「王都」という名の巨大な食卓だけを見つめていた。
第一話 完




