「知らない感情たち」
「観察」だったはずの関係が、動き出す。
新たな存在によって美音、陽菜、陸の関係性が変化する。
友情、嫉妬、戸惑い――
それは、誰にも見えない場所で芽生えていく“知らない感情”たち。
そして美音の存在をめぐる“裏側”もまた、静かに迫っていた――。
――Scene12、
「知らない感情たち」
【放課後/校舎の影】
窓の外に射し込む西陽が、教室の床に長く影を落としていた。
静かな放課後。美音は窓際に立ち、ひとりグラウンドを見つめていた。
校庭の奥。
相馬陸が、空っぽのゴールに向かって黙々とボールを蹴っていた。
観客も、仲間も、敵もいない。
ただ砂埃が、風に巻かれてゆっくりと漂っていた。
彼の蹴る音が、ぽつ、ぽつと静寂を裂く。
美音(心のノート)
「彼は、もう夢を持っていない。でも戦っている。
誰のため? なぜ? それが、分からない――」
ふと、美音の後ろから声がした。
「美音〜! 一緒に帰ろうよ。ちょっと気になってるカフェあるの。かわいい限定スイーツ出るらしくて!」
振り向くと、白石陽菜が鞄を肩に掛け、にこにこと笑っていた。
だが、美音の返事は想定外だった。
「陽菜さん、すみません。私、この後、相馬くんを尾行するので、陽菜さんの誘いはお断りするしかないです」
「……は?」
陽菜は、一瞬、笑顔を固めた。
そしてすぐには意味を理解できなかった。
「……ちょっと待って、“尾行”? なんで? てか、また“陽菜さん”って――」
しかし、美音は返答もせず、静かに鞄を手に取ると、スッと教室を出ていった。
振り返ることもなかった。
「……何よ、ロボ子」
ぽつりと呟いた陽菜の顔には、ほんの少し、寂しさがにじんでいた。
本当は、話したかったのだ――
日曜に控えるオーディションのこと、不安で眠れなかった夜のこと。
そのとき――
「陽菜! カラオケ行くんだけど来るよね?」
いつものように教室に現れた平野芽衣が声をかけてきた。
「ごめん芽衣……今ちょっと、そういう気分じゃないの」
珍しく断る陽菜に、芽衣の眉がぴくりと動く。
「……なに? ロボ子にでも感化された?」
陽菜はそれに答えず、軽く会釈して教室をあとにした。
扉の閉まる音だけが、ぴしゃりと教室に響いた。
芽衣がつぶやいた。
「……何よ、陽菜のやつ…」
放課後の光の中、それぞれの孤独が音もなくすれ違っていた。
【カラオケボックス/夜】
薄暗い照明にネオンがきらめく個室。
ドリンクとスナックが散らばり、1軍女子と男子たちが騒がしく盛り上がっていた。
「次、俺いくわー! 陽キャソングいっちゃうよ!」
「うっける!それ失恋ソングじゃん!」
「お前、フラれたばっかだもんな〜〜! あはは!」
部屋の空気は軽く、無邪気で、どこか浮ついていた。
その輪の中で、平野芽衣だけが笑顔を保ちながらも、どこか虚ろだった。
(何よ、陽菜のやつ……
最近、ロボ子とばっかり絡んでさ……)
ソファの端でドリンクをかき混ぜていると、
隣から声がした。
「どうしたの芽衣? ノリ悪くない? 今日」
いつも一緒にいる女子が、からかうように笑った。
別の女子がすかさず茶化す。
「さっき陽菜にフラれたから落ち込んでるんじゃないの〜?」
芽衣の手が、ピクリと止まる。
図星だった。けど――
「は? 別に。陽菜がどうとか、関係ないし」
強がった声が、ほんの少しだけ震えていた。
そのやりとりに、今度は男子たちが食いつく。
「てか今日、陽菜ちゃん来ないの?」
「“ヒナメイ”ってさ、いつもセットだったじゃん。あの安心感、好きだったのにな〜」
何気ない一言が、芽衣の心に突き刺さる。
芽衣(モノローグ/回想)
放課後、陽菜とカフェで延々おしゃべりした。
校内のイベントも、プリクラも、放課後のライブごっこも――
どれも陽菜とだった。
あの子の笑顔があったから、学校はキラキラしてた。
楽しかったんだ。
……あのロボ子が転校して来るまでは。
芽衣は、そっとスマホを開いた。
陽菜とのツーショット。
寄り添って笑っている、あの無防備な笑顔。
(ねえ陽菜。なんで――私より、あんな無機質な子を選ぶの?)
にぎやかな部屋の音が、遠くに感じた。
芽衣の笑顔の裏に、静かに小さなヒビが入った。
音もなく、亀裂のように――。
【商店街裏路地】
カツ、カツ…
規則的な足音と、遠くで鳴る自転車のベルの音。
美音は、相馬陸の数メートル後方を歩いていた。
(移動距離:約420m。速度は平均時速4.6km。
相馬くんは振り返らない。警戒心は希薄か…いや、違う)
その瞬間だった。
「……おい」
陸がピタリと立ち止まり、振り返った。
「お前、まさか……学校の外まで追いかけて観察してんのか?」
美音の足が止まる。
「……尾行のつもりはありません。あくまで、情報の収集です」
「は? それをストーカーって言うんだよ。ここまで来るともう犯罪だぞ」
陸の眉がぴくりと動く。
呆れたような目。その口元は半ば笑っていた。
だが、美音の視線は真っ直ぐだった。
彼の表情を、逃さず見つめていた。
(“呆れ”という感情の表出。
表情筋の動き、声のトーン、言葉の選択。
目的達成率、約72%)
美音の内心に、わずかな充足感が灯った。
「……お前、まさか俺のことが好きなのか?」
ふいに飛んできた陸の言葉。
それは、あまりにも唐突で、ぶっきらぼうだった。
美音の中に、未定義の生体反応が走った。
(心拍数上昇。体温+0.3℃。
内部システムが不明な感覚を検出。
これが、“ドキッとする”という現象?)
だが、表情には出さない。
黙ったままの美音に、陸はふっと鼻で笑った。
「……悪いけど、俺には彼女いるから。諦めな?」
その言葉に、また何かが胸の内で揺れた。
(軽度の違和感。反応値+14。
“不快”と定義するには根拠が不足。
ただ、心地よくはない)
陸は美音の変化のなさに肩を落とす。
「……嘘だよ。彼女なんかいねぇし。
ちょっとからかってみただけだ」
それでもなお、彼の声にはどこか棘が残っていた。
(“からかう”という行動。
それは、私に何かしらの感情を引き出させる意図があったのか?)
【心のノート:美音】
「私は、彼の中に“データ化できない感情”を見つけた」
「からかい」「呆れ」「嘘」「許し」
それは“観察”ではなく、“接触”によってしか知ることができない。
もしかしたら、私は…それを知りたいと“望んでいる”?」
陸がポケットに手を突っ込んだまま、美音を見つめる。
夕暮れの薄明かりの中で、その目はどこか静かだった。
「知りたいことがあるなら、直接聞けよ。
別に隠してることなんか、ねぇからさ」
その言葉を受けて、美音は小さく頷いた。
そして、少し首を傾げながら――まるで確認を取るように、問いかける。
「……では、“おともだち”ということで、よろしいですか?」
陸は、一瞬ぽかんとした。
「……は?」
言葉の意味を理解した瞬間、彼は吹き出した。
「“おともだち”って……お前、それ真顔で言ってんの? やっべー、やっぱ変わってるわ、お前」
美音は目を瞬かせたまま、反応しない。
(変わってる=一般的基準との差異。
だが、彼の表情は“不快”ではなく、“好意”を含んでいる)
陸は、口元を緩めながら、ぽつりと呟く。
「……でもさ。変わってるけど、なんか面白いな。
お前と話すの、意外と楽しいよ」
そのとき、美音は見た。
**相馬陸の、初めて見る“笑顔”**だった。
口角が自然に上がり、目元がやわらかくなる。
過去のどの観察記録にもなかった、
“感情のかたち”がそこにあった。
(記録:相馬陸、笑顔。
状況:非敵対的、対話後のリラックス状態。
心因推定:安心、受容、好意)
だが、美音の中ではそれを記録するより先に、
心のどこかが――ほんの少しだけ、温まるような感覚が生まれていた。
(あたたかい? なぜ?
……これも、“感情”なのか)
⸻
【心のノート:美音】
「私は“観察対象”と、“おともだち”になった」
「“友達”の定義はまだ曖昧だが、少なくともこれは――悪くない」
「彼の笑顔を見た今、私はもう…以前の“観察者”には戻れないかもしれない」
⸻
【場面転換/夕空の下】
商店街の街灯が灯り始める頃。
二人は言葉もなく、少しだけ並んで歩いていた。
その距離は、以前より――ほんの少し、近かった。
【夕暮れ/街の外れ・ビルの前】
同じ夕空の下、都心のビジネス街の片隅に
営業車を停め、スーツの一彦はネクタイを緩めながら歩いていた。
スマホが鳴る。着信表示は“非通知”。
ため息ひとつ、応答ボタンを押す。
「……ああ、朝倉です」
電話の主の声は、機械的でどこか不気味なほど冷静だった。
『朝倉さん、お久しぶりです。』
一彦は“嫌な奴から連絡がきた”と怪訝な表情を浮かべた。
「…お前か…」
「その後、“本体”の様子はいかがですか?』
一彦の表情が僅かに曇る。
「“本体”って言うな。美音は……人間だ」
電話の向こうから、わずかに笑うようなノイズ混じりの声。
『失礼しました。……そろそろ“時期”ですので、お時間を作ってセンターへお越しください』
数秒の沈黙。
ビルの影が、一彦の顔を半分覆う。
「……わかった。また、こちらから連絡する」
通話が切れた。
静かな夜風が、シャツの裾を揺らす。
一彦は、しばらくスマホを見つめたまま、
ふと空を見上げた。
その目には、どこか“決意”にも似た光があった。
(美音、おまえは……どこまで人間になるんだろうな)
続く
何気ないことばが誰かを傷つける。
愛情から湧き起こる嫉妬、承認欲求が
他人の封印したい過去、真実ではない事実を拡散させる。
次回、陽菜の居場所に小さなヒビが入り、クラスのバランスが崩れ始める。
そして美音の“過去”を知る人物の登場。