第四話「無心の素振りと、森の出会い」
一心流道場での生活は、わたしの想像とは少し違っていた。
夜が明けると共に起き出し、まずは道場全体の掃除。次に、便所掃除。それから、巨大な水瓶を満たすための水汲みを何往復も。
「師匠! いつになったら剣の稽古をさせてくれるんですか!」
入門して三日目、しびれを切らしたわたしが尋ねると、師匠――テッサイさんは、眉一つ動かさずにこう言った。
「剣を振るう前に、己の心を整えよ。目の前の務めも果たせぬ者に、剣を握る資格はない」
ぐうの音も出ない。わたしは唇を噛みしめ、黙々と薪割りを続けた。
正直、不満だった。でも、不思議と嫌ではなかった。汗を流して、泥だらけになって、みんなと同じ釜の飯を食べる。質素な食事なのに、今まで食べたどんなご馳走よりも美味しく感じた。ここが、わたしの新しい「居場所」になっていくような、温かい感覚があった。
そして、入門から一週間が経った朝。
いつものように雑用を終えたわたしを、テッサイさんが呼び止めた。
「小娘。これをくれてやる」
手渡されたのは、一本の使い込まれた木刀だった。
「今日からは素振り千本。終わるまで昼飯は抜きだ」
「は、はい!」
やっとだ! わたしは喜び勇んで庭へ飛び出し、木刀を構えた。
見よう見まねで振り下ろす。しかし、テッサイさんはすぐに「違う!」と一喝した。
「雑念が多すぎる。無心で振れ。ただ、まっすぐに。風の音だけを聞け」
無心。言われても、どうすればいいのかわからない。
でも、わたしはテッサイさんの言葉を信じて、ひたすら木刀を振り続けた。
百本、二百本と振るうちに、だんだん腕が上がらなくなってくる。
それでも、言われた通りに、ただまっすぐに。
五百本を越えたあたりだろうか。ふっと、余計な力が抜けた。
何も考えられない。ただ、木刀の重さと、風を切る音だけが、わたしのすべてになった。
ヒュッ!
今までとは違う、鋭い音が響く。
その音に、他の門下生たちが驚いてこちらを見ている。腕を組んで見ていたテッサイさんの口元が、ほんの少しだけ緩んだのを、わたしは見逃さなかった。
その日の午後。
稽古を終え、薪を補充するためにわたしは道場の裏手にある森へ入った。
(なんだか、今日の薪割りは楽に感じるな……)
これも修行の成果だろうか。気分良く斧を振るっていると、近くの茂みが「ガサガサッ」と音を立てた。
(モンスター!?)
わたしは咄嗟に斧を構える。この世界に来てから、警戒心だけは人一倍強くなった。
茂みから現れたのは、モンスターではなかった。
雪のように真っ白で、もふもふの毛玉みたいな、小さな生き物。ピンと立った耳に、ぴこぴこと動く長い尻尾。くりくりとした黒い瞳が、怯えたようにわたしを見つめている。
(か、かわいい……!)
あまりの愛らしさに、思わず緊張が解ける。わたしが一歩近づくと、その生き物は「フーッ!」と精一杯の威嚇をして、全身の毛を逆立てた。
「だ、大丈夫だよ。何もしないから」
わたしは慌ててその場にしゃがみ込む。これ以上近づいたら、逃げてしまいそうだ。どうしようかと考え、懐に入れていたお昼ご飯のおにぎりの残りを思い出した。
わたしはそれを半分にちぎり、傷つけないように、そっと地面に置いた。
「お腹、すいてるんじゃない? よかったら、どうぞ」
しばらく、睨み合いのような時間が続いた。
やがて、もふもふの生き物は、警戒しながらもおそるおそるおにぎりに近づいてくる。そして、小さな鼻先で匂いを嗅いだ後、小さな口で食べ始めた。
その姿を見ているだけで、わたしの心は不思議と温かくなった。
この世界に来て、戦って、修行して、張り詰めていた気持ちが、ふわりと軽くなるような感覚。
もふもふの生き物は、おにぎりを食べ終えると、もう一度わたしの顔をじっと見た。そして、来た時と同じように、茂みの中へと消えていった。
あっという間の出来事。
でも、わたしの心には、確かな出会いの予感が芽生えていた。
「あの子……また、会えるかな」
まだ名も知らぬ、小さな命。
この殺伐とした「お金がすべて」の世界で見つけた、初めての宝物だった。