第四章 第八話「心の解放と、地下へ続く道」
神父が放った、むき出しの『怒り』。
その一言が、完璧に統制されていた狂気の街を、内側から破壊した。
「トラバーサル」という言葉の呪いが解けた住民たちは、何十年という長きにわたって抑圧してきた感情の奔流に飲み込まれていた。ある者は、理由もわからず涙を流し、ある者は、腹の底から笑い声を上げ、またある者は、隣の人間と取っ組み合いの喧嘩を始める。広場は、感情の洪水によって、完全なカオスと化していた。
「私の……私の完璧な平穏を、よくもぉぉぉっ!」
全ての秩序を失った元凶であるわたし達に、神父が憎悪の表情で襲いかかってきた。彼が手をかざすと、強烈な絶望の念が、精神攻撃となってわたし達を襲う。
「ぐっ……頭が……!」
ナイが、苦痛に顔を歪めて膝をつく。しかし、その魔法は、なぜかわたしにはあまり効かなかった。
「あなたのやっていることは、ただみんなの心に、無理やり蓋をしていただけじゃないか!」
わたしは剣を構え、神父と対峙する。
「悲しいのも、嬉しいのも、腹が立つのも、全部生きてるって証拠でしょ! それを、なくしたり、忘れさせたりしちゃ、ダメなんだ!」
「黙れ、小娘が! 感情など、人を不幸にするだけだ!」
神父の魔法が、わたしに過去の悲劇の幻を見せる。争いで、血を流して倒れる、愛する娘の幻影を。
だけど、わたしは怯まなかった。
「悲しい過去があったからって、心をなくしていい理由にはならない!」
わたしの一閃が、神父が強く握りしめていた、古いロケットペンダントを弾き飛ばした。それが、彼の魔力の源であり、そして、彼の心の蓋そのものだった。
全ての力を失い、神父は祭壇に崩れ落ちる。そして、何十年ぶりかに、本当の感情を取り戻した。
「ああ……そうか……。私は……ただ……ただ、悲しかったのだな……。あの子を失ったことが……」
忘れていたはずの涙が、その皺くちゃの頬を伝って、とめどなく溢れ出した。長すぎた呪いが解け、一人の、ただの弱い老人が、そこに残った。
やがて、少しずつ落ち着きを取り戻した住民たちに見守られながら、元・神父は、震える手で祭壇の隠しスイッチを押した。ゴゴゴゴ……という重い音を立てて祭壇がスライドし、その下に、どこまでも深く続く、暗い螺旋階段が現れた。
「ありがとう……旅の人……。どうか、この先の道行きに、光があらんことを……」
住民たちの、今度は本物の、温かい感謝の声に見送られ、わたし達三人は、地下へと続く階段を降りていった。
「やれやれ、とんでもねえお人好しだな、お前は。街一つ救っちまいやがったぜ」
隣で、ナイが呆れたように、でも、どこか誇らしげに笑う。
長い、長い階段。降りるにつれて、魔界の熱気は消え、冷たく、乾いた、機械的な空気が肌を撫でる。そして、遥か下のほうから、微かな光と、規則正しい駆動音のようなものが聞こえてきた。
間違いない。この先に、ネオンがいる。
「ネオン……待ってて。今、行くからね」
わたしの決意と共に、魔界での常識はずれな旅は、終わりを告げた。
物語はついに、全ての謎が眠る、約束の地――『地下世界』へと、その舞台を移すのだった。