第二章 第二話「下水道の主と、謎のエージェント」
10万G。それは、ゴブリンを200体倒さなければならない途方もない金額だ。地道な依頼だけでは、福々超特急が出発するまでに稼ぎきれるか分からない。わたしは覚悟を決め、ギルドの依頼掲示板の一番隅に貼られていた、古びた一枚の依頼書を剥がした。
【緊急依頼:ジャンクション下水道の主『大喰らい』の討伐】
【報酬:10,000G】
【備考:非常に危険。複数パーティーでの挑戦を推奨】
「お嬢ちゃん、本気なの!? 最近も腕利きのパーティーが返り討ちに遭ったのよ!」
受付のお姉さんの悲鳴のような制止を振り切り、わたしは「やります」と頷いた。最短で目標に近づくには、ハイリスク・ハイリターンの依頼をこなすしかない。
衛兵に案内されたマンホールを開けると、むわりとした湿気と悪臭が鼻をついた。地上の中継都市ジャンクションの華やかさとはまるで違う、暗く、汚れた巨大な迷路。それが、この街の裏の顔、下水道だった。
「きゅぅん……」
よもぎちゃんが不安そうに鳴く。わたしは相棒の頭を撫で、「大丈夫だよ」と励ましながら、慎重に先へ進んだ。
ネズミ型のモンスターや、ヘドロ状のスライムを倒しながら進むこと一時間。やがて、だだっ広い空間に出た。汚水が溜まったその場所の中央で、水面が不自然に盛り上がっている。
いた。小舟ほどもある巨大なワニ、『大喰らい』だ。
「いくよ、よもぎちゃん!」
先手必勝! わたしは水際を駆け、大喰らいの頭上へと跳躍し、剣を振り下ろした。しかし、分厚い鱗に阻まれ、甲高い音を立てて弾かれてしまう。
大喰らいは素早く水中に潜り、今度はわたしの足元から巨大な顎で襲いかかってきた。水中からの奇襲に、わたしは翻弄される。よもぎちゃんの爆発も、水中では威力が半減してしまい、有効なダメージを与えられない。
そして、ついに捕まってしまった。大喰らいの尻尾の一撃が、わたしの体を壁へと叩きつける。
「がはっ……!」
肺から空気が搾り出され、視界が霞む。迫り来る巨大な顎を前に、死を覚悟した、その時。
「おっと、そいつは俺の獲物なんだがなぁ。ま、景気良く手伝ってやるか!」
天井の太い配管から、鈴が鳴るような軽やかな声が響いた。
見上げると、逆さまにぶら下がった人影。普通じゃない数の手足を持つ、奇妙な姿。彼は目にもとまらぬ速さで大喰らいの死角に降り立つと、そのたくさんの腕で印を結ぶような動きを見せた。
「風の刃!」
鋭い真空の刃が、大喰らいの硬い鱗の隙間を正確に切り裂き、その動きを鈍らせる。
「嬢ちゃん、今だ! 弱点は目だ!」
「は、はい!」
わたしは最後の力を振り絞り、よろめく大喰らいの巨大な目玉に、渾身の突きを叩きこんだ。
断末魔の叫びを上げ、巨体は水しぶきと共に沈んでいく。
助けてくれたその人は、瓦礫の上にひらりと着地した。
「ナイ・エージェントだ。ま、気軽にナイって呼んでくれ」
「わたしはくろすけです。助けてくれて、ありがとうございました!」
「どういたしまして。で、嬢ちゃんはなんでまた、こんな臭い場所でワニ退治なんかしてたんだ?」
わたしが福々超特急に乗るために10万Gを稼いでいることを話すと、ナイは腹を抱えて笑った。
「10万G!? ハッハー! 正攻法じゃ、じいさんになるまでかかるぜ?」
彼はにやりと笑い、わたしに顔を近づけた。
「この街にはな、もっと手っ取り早く大金を稼げる『裏の依頼』ってもんがゴロゴロしてるんだ。金持ちの屋敷から『借り物』をしたり、やばいブツの運び屋をしたりな。興味ないかい?」
その誘いに、わたしは首を横に振った。
「ごめんなさい。わたしは、ちゃんと自分の力で稼ぎたいから」
「そりゃ残念」
ナイは心底つまらなそうに肩をすくめると、「ま、気が変わったら、またどこかで会うこともあるかもな」と言い残し、来た時と同じように、下水道の闇の中へと軽やかに消えていった。
ギルドに戻り、討伐報酬の10,000Gを受け取る。目標まで、あと9万G。
大きな一歩だ。だけど、わたしの心には、ナイ・エージェントという謎の男が残した、不穏な言葉が引っかかっていた。
この世界の裏側には、わたしの知らないルールと、近道と、そしてきっと、大きな危険が渦巻いている。