第9話
その運動は、動物的でも格闘技的でもない。
“座標的”だった。
座標を動きの起点とする“物理の運用”。
しかし——
「くっ……」
肘の回転角が合わない。
先ほどと同じ回避モーションをとったはずが、敵の膝が“より内側の角度”から干渉してくる。
(攻めきれない……)
柊の攻撃は、確実に命中している。
──だが、「質量の反応が返ってこない」。
拳が“空気より柔らかい”感触で吸われていく。
違う。
当たっているのに、質量が届いていない。
千早が呟いた。
「……これは、“反位相応答”。対象の重心が、局所座標に定義されていない……!」
──斜めからの軸打ちが、再びすり抜ける。
──膝からの逆回転軌道も、肩で逸らされる。
打撃はすべて、確かに命中している。
なのにすべてが“影”を殴っているように、意味を持たない。
そして──17°。
わずかその角度の差で、柊の肘打ちは“押し負けた”。
敵は柊が繰り出した体術を分解し、拡張し、変質させて自らの動きへと再構成していた。
今の動きは、まさにそれ。
“柊自身の打撃軌道”が、“より高度な密度を持って敵から返されている”。
柊が踏み込む。
間合いは1.2m。
速度0.3秒/接近距離。
三点接地を用いた“回転打撃”──
だが。
「──っ!」
敵の手刀が、“あらかじめ”その軌道上にあった。
肋骨に走る鈍痛。
肩をすくめた瞬間、さらに肘裏に掌底が差し込まれる。
反応が遅れているわけではない。
ただ、“予測”が間に合っていない。
(俺の軌道を──追えてるんじゃない。最初から“待ってる”)
空間のどこを通るかを先読みして、あらかじめその“面”に位置する。
座標を“待機する”という発想。
それはもはや、動きではなく“存在の置き方”だ。
柊は、体を横に滑らせる。
右肩から床をなぞり、受け身を取って間合いを離す。
だが、敵は──“来る”。
腕が、曲がる。
脚が、折れ曲がる。
そしてその姿勢のまま、速度変化なく“間合いを潰してくる”。
「っ……!」
肩口に爪先が擦れる。
避けたつもりの一撃が、軌道の“末端”で柊をかすめていく。
──その次の一撃が、完全に届いた。
右脇腹。
一瞬、呼吸が止まる。
刹那のうちに横隔膜の圧が跳ね上がり、神経系が“硬直”を起こした。
柊は反射的に、膝を折る。
蹴りを避ける動作──ではなく、“反発力を利用して後方へ跳ねる”動きだった。
──床を滑る。
──空気が揺れる。
──体内に残る“違和感”がじりじりと神経を焼く。
そのまま、距離を取る。
今必要なのは攻撃ではない。
“防御に徹する動きの再構築”だ。
一定の距離を保った後、時間を稼ぐための範囲を探った。
連続的に動ける間合いはどこか。
直線的に“測れる”位置はどこか。
ザッ——
敵は止まっていた。
追撃してこない。
ただ、そこに“在る”。
悠然とした姿のまま。
まるで、目の前の出来事を見定めるかのように、淡々と。
柊の呼吸が浅くなる。
胸が、焼けるように熱い。
「……距離感が、ズレてる……?」
アーシェが思わず息を呑んだ。
地形は変わっていない。
立ち位置も、角度も同じ。
なのに、柊と敵との距離が“視覚的にはボヤけている”ように見えた。
――敵は静止しているはずなのに、なぜ?
距離感を探る柊。
地面と接地した足を踏み込みながら、低姿勢を保つ。
違和感が走ったのはその後だ。
右足の甲。
その足裏に伝わる反力は、基準値より0.018ニュートン軽かった。
この数値は、現在の環境下による地表変動や微振動では説明できない。
空間そのものが、押し返してこない。
(……なんだ?接地反応が薄い…?)
床が湾曲してるわけじゃない。
それなのに、妙に“軽い”。
千早が地脈を通じてあることを察知する。
まさしく今、柊が感じている違和感への正体だった。
(位置エネルギーの分布が、一定半径で変動してる。…まるで、周囲の重力が“中心から回避してる”みたい)
重心ではなく、重力そのものが変位している。
それは、物理現象としてあり得ない。
何故なら、重力は「質量と距離の2乗」によってのみ決まるものだ。
空間構造の変異なしに重力ベクトルが“斜めに”偏るなど、通常の構造定義では不可能。
だが柊の足下、半径約2メートル圏内では、ベクトルとしての重力方向が明確に“歪んで”いた。
言い換えれば、重心移動が正常に移行できないほどの歪曲が、何らかの作用によって生まれていた。
地面であって地面でない。
直線であって直線でない。
「空間」が歪んでいる…?
——いや、それとも
一歩、敵が近づく。
躊躇う距離ではなかったが、柊は防御に徹する考えを継続できずにいた。
前進と後退。
その行動の起点を明確に区分する境界を、定められない。
足下に広がる違和感が意識を攫うように働いていた。
思考が揺れる最中、敵が自らの魔力を“展開”させる。
バキンッ
空気が“割れる音”を立てた。
それと同時に、柊の足がさらに深く沈む。
いや、沈んだように“錯覚した”。
それは接地の感覚でも、重心の変化でもなかった。
“存在そのものの座標が、一瞬、曖昧になった”。
その瞬間だった。
空間が―― 「閉じた」。
彼女の周囲、約半径数メートル。
地面も、空気も、音も、何もかもが“外”に押し出されたように、わずかに屈折して見えた。
目には見えない境界が“内側へ”と閉じていく。
まるで、無限に遠ざかる焦点を空間そのものが飲み込み直すような収束。
空間の端が揺れている。
距離が狂う。
音が遠のく。
温度がなくなる。
だが、それは術式の余波ではなかった。
術者特有の魔力圧も、精霊との共鳴音も、何一つ存在していない。
ただそこには、“何かが起きた”という結果だけが、異様な静けさで積もっていく。
神園 梓が低く言う。
「――何か、空間が“違う”」
彼女の右腕がゆっくりと持ち上がる。
それだけで、柊の体内に“感覚の喪失”が走った。
拳を握ろうとする。
だが、握った感触が数フレーム遅れて返ってくる。
足を踏み出そうとする。
けれど、接地前の運動指令だけが先に流れていく。
“体が動くのに、世界が応答しない”。
柊は、もう一度だけ、息を吸い直す。
「……なんだ、これは」
彼の目に映るのは、あまりにも静かすぎる異常だった。
音が鳴らない。
風が動かない。
空気の重みすら、どこか遠くへ行ってしまった。
彼女の周囲だけが、“世界から切り離された空白”になっていた。
「これって……術式?」
アーシェが呟く。
千早は首を振る。
「……わからない。ただ、術式と言うにはあまりにも——」
それは──“異形の何か”が、得体の知れない力を使っているという直感。
誰も知らない。
誰にも説明できない。
何を起こし、何を奪い、何を否定するのか──
それが、いま目の前に立っている“存在”だった。
──虚式・鏡蝕斥苑(Void Echo Garden)
最初に、空気が“逆流した”。
風ではない。
振動でもない。
だが、柊の肌をかすめたその微かな“引き戻し”は、明確に境界を越えてきた。
“彼女”が、ただ両手を胸元で交差する。
それだけ。
それだけの仕草で、世界が“反転”した。
──カツン
まるで、どこかで“鏡が割れた”ような音がした。
だが、視界にあるものは壊れていない。
何も割れていない。
ただ、世界そのものの裏側がめくれたような、そんな不快な“ゆらぎ”が走る。
視界の端から、“もうひとつの現実”が滲み出す。
空間の奥行きが変わる。
地面の平面が、徐々に“凹む”。
反射光が、本来なら跳ね返る角度で「戻ってこない」。
それは、反作用と加速の法則が遅延する、不完全な世界の出現だった。